若菜下 十七
二条院へと戻ったヒカルは平静を装っていたが、何やら考え込んでいる風なのははた目にも明らかだった。
紫上は、
(辛うじて此の世に留まったわたくしをいとおしんで戻ってらしたはいいけれど……やはり彼方も気になって、板挟みになっておられるのでは)
と思いヒカルに言った。
「わたくしはもうすっかりよくなりましたけれど、女三の宮さまはお加減がすぐれないとか。こんなに早くお帰りになるなんて申し訳ないですわ」
ヒカルは、
「うーん、それはそうなんだけどね。確かに普通とは違うご体調だったけど、さして悪そうでもなかったから安心して戻って来たんだよ。帝からはしょっちゅうお使いが来てて、今日も文があったらしい。朱雀院が特にお気にかけてらっしゃる宮だから、帝も同じようになさるんだよね。少々間が空いただけでお二方ともに何を思われるやら……厄介なことだよ」
とつい愚痴を吐く。
「帝がお聞きあそばすことより、宮さまご自身に恨めしく思われることこそお気の毒ではありませんか?ご自分ではお気に留めなくとも、周りには良からぬ陰口をいう者たちが必ずおります。そこを考えると、わたくしにとっても辛いことですわ」
「そうだね……一番大事な貴女にはその手の煩わしい縁者はいない上に、何事も隅から隅まで、女房達の思惑にさえあれこれ思い巡らせてくれるというのに、私ときたら。国王のお心や如何にとばかりビクビクしてるなんて、まったく浅はかというしかない」
ヒカルは苦笑して話をはぐらかした。
「紫上、六条院には一緒に帰ろうよ。のんびり過ごすことにしよう」
「わたくしは此方でもうしばらくゆっくりしていますわ。殿がまずお一人でお帰りになって。宮さまの御気分が良くなる頃に参ります」
などと話し合っているうちに数日が経った。
(どんなに高貴な方だといっても、余りに大人しいばかりのお姫様は世間の何たるかも分からず、仕える女房に用心することもなく、こんな……ご自分にも相手にも取り返しのつかない過ちを犯すことになるのか)
宮に落ち度があろうとなかろうと、罪に落とし込んだのは誰あろう自分である。どうしようもない罪悪感に圧し潰されそうな柏木であった。
ヒカルにしても、痛々しいほどにうち萎れていた女三の宮の姿が脳裏に浮かんで消えない。見限ってしまうには哀れすぎるのだ。女が弱るほど情が湧くという、いつもの癖でもある。
厭わしさよりも恋しさの方が勝り、抑えがたくなったヒカルは再び六条院へと渡った。
顔を見ると可哀想に……と胸が痛む。宮のために数々の祈祷をさせた。
表面上、殆ど以前と変わらない。妊婦である宮を細々と労り、より大事に扱っているように見える。
が、夫婦としての関係はすっかり冷え切ってしまった。
人目のあるところでは体裁を繕って仲良さげに振る舞うものの、二人きりでは会話もない。宮も内心辛い思いでいた。
だが、ヒカルはあの文を見たとも何とも口には出していないし、そのつもりもない。普通にしていればいいものを、悶々としているのが丸わかりの心幼い宮である。
(まあこういう人だよね。知ってた。家柄が血筋が高貴っていっても、ここまでポヤーンと頼りない感じだと、大丈夫?って思うよね。実際大丈夫じゃなかったわけで)
男女関係というものの全てが嫌になる。
(明石女御も心配……あんなにも優しくて穏やかだと、ああしてガンガン突っ込んで来る男には引っ張られちゃうんじゃないかな。内気でか弱いばかりの女は得てして男に侮られる。あってはならないことだけど、ふと目に留まったりなんかしたらコントロールが効かなくなって、暴走しちゃうかも……)
考え出すと止まらない。
(それにしても……鬚黒右大臣の北の方・玉鬘は、これといった後見もなく、幼い頃から寄る辺なくさすらいながら生まれ育ったというのに、何と利発で才覚があったことか。私もおおむね親として接してはいたけど、憎からず思う心がなきにしもあらず……っていうかアリアリだったのを、いつも何気なくサラリと受け流して、逃げ切ったもんね。鬚黒が不心得者の女房をたらしこんで忍んで来た時も、はっきり不本意なことだと周りに知らしめた。その上で、実は親に許された結婚であり、自分自身には何ら落ち度がないということも示したんだよね。今思えば、メチャクチャ賢いやりようだった)
あの時玉鬘は、手引きした女房を怒って放逐したのだ。六条院で尚侍としての仕事中に、ベタベタつきまとって離れない鬚黒への塩対応も、出入りする皆が目撃したものである。
(そうはいっても夫婦になるほどの宿縁があったんだろうね。最初がどうあれ、ここまで長く連れ添っていられるんだから。ああいう場面で女の方もその気があったみたいに思われたら最後、ちょっと軽々しいんじゃない?って評価もついちゃうものだけど、玉鬘をそんな風に言う人は皆無だったよね。そこら辺ほんっとうに上手くやったよ、うん)
返す返すも感心しきりなのであった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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