「HHhH」
思いのほか読破するのに時間かかった。第11回本屋大賞(翻訳小説部門)受賞作(2014)。
「HHhH プラハ、1942年」ローラン・ビネ(2010仏、2023創元文芸文庫 訳 高橋啓)
版元の紹介文によれば
HHhHとは「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」を意味する符丁
だそうな。ハイドリヒはナチス・ドイツの高官、国家保安本部長官(事実上の)で、例の「ヒトラーのための虐殺会議」では完全に中心人物(踏み越えた人)でしたね。
この作品は、
「プラハに潜入した二人の青年がハイドリヒ暗殺計画を決行する」
という史実に基づいて書かれた「小説」なんだけれども、その形式は一風変わってる。なぜこれを書こうと思ったかから始まって、常に「作者」の存在がそこにあるのだ。史実として確認されていること、フィクションで描かれたこと、事実かどうか不明瞭なこと、それらを踏まえた上で「こうだったのではないか?」という結論に至るまでの行きつ戻りつがそのまんま書かれてる。ドキュメンタリーとは違う、まったくの創作でもない、予め結果がわかっている(=史実が厳然としてある)物語を形にしていく、その作業込みでひとつの作品になってる感じ。
なので、息づまるハラハラドキドキやジェットコースター的な展開などはない。ひたすら淡々と、短いセンテンスで、刻一刻と「その時」が近づいてくる、というイメージ。とはいえ暗殺シーンはあまりにもリアルすぎて現実感がなく(どういう意味だ!)、もはやフィクションの方が本当らしいのでは、などと思ってしまった。一番書きたいシーンが映画やドラマのようなそれにならなかったのは、きっと作者の意図ドンピシャリなんだろな。ことほど左様に「事実に近い様相を書く」のは簡単じゃないのだ。例え自分自身の体験であっても書く、という行為を通すだけでどうしても変わってしまうところはある。文字に残らない語り、だと余計そうだろうな。
それにしてもこういう「完全に作品の中(リアルに近い)に書き手が没入する」書き方は結構キツイ気がするんだが、どうだったんだろうか。相当メンタルに来ると思う。いや、逆にこういう「常に作者が中にいる」状態だから大丈夫なのかもしれない。何より、この二人の青年を命を賭して支援した名もなき人々への愛と敬意、この作者には本気の本気で自分事として心の底から実感できただろう。最大の目的にして恩恵はこれなのかもしれない。

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