おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

柏木 七

2021年5月29日  2022年6月9日 


 柏木との再会を果たさぬまま後に残された妻・女二の宮がその母と住む一条宮。

 日が経つにつれ、広い邸も人少なに寂れていく。懇意にしていた家来は残ったものの、亡き主の愛した鷹や馬を養う者は拠り所を無くし肩を落とす。愛用していた調度類も触れる人はいない。琵琶や和琴の絃は取り外されたままだ。

 それでも庭の木立は一斉に芽を吹き出し、花は季節を忘れずに咲く。その景色を眺めるばかりの日々、女房達もみな喪服姿でわびしく過ごしていた。

 ある昼間のこと。

 賑やかに先触れの音をさせながら車が近づき、邸の前で止まった。

「まあ、ご主人さまのお越しかと思ってしまいましたわ」

 そう言って泣く女房もいた。大方、弟の弁の君や宰相であろうと思っていたところ、なんと夕霧左大将であるという。

 思わぬ賓客に邸の人々は慌てた。母屋の廂の間に御座所を作ったものの、普通の客のように女房づてでは失礼だろうと、宮の母御息所みずから対面した。夕霧が口を開く。

「亡き人を思う心は身内以上にございますが、何分すぐには伺いようもなく、ひとしなみの対応になってしまいました。故人からご遺言も承り、決して疎かには思っておりません。誰にも明日のことはわかりませんが、友に立ち後れた命のある限り我が浅からぬ志をご覧いただければと思います。神事が立て込む頃合いに忌籠りするのも如何なものかと存じましたし、庭で立ちながら挨拶というのも私自身の気が済まず、つい日数を過してしまいました。致仕大臣のご心痛をお見受けして、親子の情もさることながら、ご夫婦の間柄でもどれほど無念でいらっしゃるか……御心情お察しいたします」

 涙を拭い鼻をかみながら切々と語る夕霧は、際立った品格と心惹かれる優美さとを兼ね備えている。

 母御息所も鼻声で、

「悲しみは世の常、どんなに悲しくとも他に例のないことではないと、年寄りなら何とか気強くいられますが、宮はすっかり気落ちされ、不吉なことに……今にも後を追わんばかりです。苦難の多かった我が身がこうして永らえて、ほうぼうに儚き末世の無常を目にして過ごすかと、まことに落ち着かない心地がいたします。柏木さまと近しい間柄ならばお聞き及びでしょうが、この結婚には初め気が進みませんでした。ですが致仕大臣から再三強く望まれ、朱雀院も良き縁談とお許しになられる気配、きっと私の考えが至らぬのだと思い直しお迎え申し上げた次第です。それがこんな……まるで悪い夢のよう。今思えば私は間違っていなかった、もっと強く抗っていれば……と口惜しうございます。思いも寄りませんでした。普通なら皇女達は良くも悪くもご結婚など感心しないものと、古臭い考えもございました。宮は……どっちつかずの中空に漂う運命でしたのね。いっそのこと共に煙となるもよろしかろう、ご本人にすれば外聞など気にするものでもなし……とも思いますが、さすがにそこまであっさりとは割り切れず、悲しく見守っておりました。嬉しいことに幾度となく懇ろな弔問を頂戴し、有り難く存じますが、それも亡き人とのお約束があった故と仰いますのね。さほど愛情深くも見えなかったお方ですが、今わの際に宮のことを頼むと……誰彼にもご遺言されていたそうで、まさに『憂きにもうれしき瀬は混じる』ものでございます」

 話しながら号泣している様子である。夕霧も涙を止められないまま、

「昔から不思議なほど老成された方でしたが、こんなに短命だったからなのでしょうか……ここ二、三年随分と沈んでおられて、元気がなく見えました。余りに世の無常を思い知り深い境地にまで達してしまうと、見なくていいものまで目に入ってしまう。そんなに物思いにふけってばかりじゃ元々の美点すら薄れてしまうよ、と常々至らぬところ多い私が諫めたものですが、さぞ軽い奴と思われたことでしょう。何事も人より優れておられた……まこと、宮のお嘆きは如何ばかりかと、勿体なくもおいたわしく存じます」

 優しく細やかに話し、やや長居したのち席を立った。

 柏木は夕霧より五、六歳年上だったが、年齢より若く見え、優しく柔らかい雰囲気をまとっていた。夕霧は生真面目で礼儀正しく男らしい態度なのに、顔だけは如何にも若く端正で柏木より勝っている。若い女房達は物悲しさも少し紛れる心地で見送りに立った。

 庭に降り立った夕霧は、見事に咲き乱れる桜を観て「今年ばかりは」という歌が浮かんだが、縁起でもないと思い直し、

※深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け(古今集哀傷-八三二 上野岑雄

「あひ見むことは」

※春ごとに花の盛りはありなめどあひ見むことは命なりけり(古今集春下-九七 読人しらず)

 と口ずさんで、

「季節が巡りまた同じ色の花が咲きました

 片枝が枯れたこの桜にも」

 さり気なく詠んで立ち去ろうとすると、素早く返歌があった。

「この春は柳の芽に玉が貫くように泣いています

 咲き散る花の行方も知りませんので」

 格別に深くもないが、当意即妙な返しに夕霧は感心した。

(流石は内裏でも才女との誉れ高かったお方、気が利いている)

 夕霧はそのまま致仕大臣の邸へと向かった。柏木の弟たちがわらわら出て来て、

「こちらへどうぞ」

 というので大臣の私宅へ直接入る。

 涙を堪えつつ対面すると、年を感じさせない整った顔がげっそり痩せ衰え、髭もぼうぼうに伸び、親を喪った時よりも窶れ切っていた。一気に涙腺が緩んだものの押し隠す。大臣も、夕霧の顔を見るや涙をぽろぽろとこぼす。お互いに悲しみの尽きない二人だった。

 先ほど訪問した一条宮邸の様子を話すとまた、軒から落ちる春雨の雫のようにポタポタ涙を零す。母御息所が書いた「柳の芽にぞ」の畳紙を渡すと、涙でよく見えないと言いながら手に取る。

 いつも快活で威厳もあった大臣が、人目も憚らず泣きどおしで顔を歪ませている。

「この「玉は貫く」とある節ね……骨身に沁みて泣ける。君の母君……妹の葵上が亡くなった秋ほど悲しいことはないと思ってたけど、女性はあまり多くの人に逢うことはないし隠されるのが普通だから、何を見ても悲しいってことはなかったんだよね。ふつつかな息子だが帝もお覚えめでたく、ようよう一人前になり官位について、頼ってくれる人も増えて来たところだった。思っている以上に多くの人が驚き惜しんでくれている。ただ……親としては世間の評価だとか官位だとか、そんなことは関係ない。他の人と何ら変わりない、素のままの息子こそが恋して堪らないのだ。いったいどうすればこの悲しみが鎮まるのか……」

 ぼんやりと空を見上げる。

 夕暮れの雲は鈍色に霞んで、桜の花の散った梢にも大臣は今日はじめて気づいたのだろう。同じ畳紙に、

「木の下の雫に濡れてさかさまに

 霞の衣……親が子の喪に服している春よ」

 と書きつける。

 夕霧が返す。

「亡き人も思いもよらなかったでしょう

 親が先に喪服を着るとは」

 次男の弁の君も。

「恨めしいことです、喪服を誰に着せるつもりで

 春より先にその花を散らせてしまったのか」

 法要はこの上なく盛大に営まれ、柏木の妹にして夕霧の北の方である雲居雁はもちろんのこと、夕霧自身も特に心を込めて、誦経など手厚く寄与した。


 夕霧はその後も一条宮邸を度々見舞った。

 卯月(四月)の爽やかな空の下、一面新緑に覆われた木々の梢も美しく見渡せるが、変わらずひっそりと寂しい宮邸である。

 青みがかった庭には若草が萌え広がり、白砂のそこかしこから蓬が我が物顔に伸びている。かつては丁寧に手入れしていた前栽も今は茂るにまかせ、一村薄もぼうぼうに広がり、さぞかし秋には虫の音が騒がしかろうと思うと物悲しく、目を潤ませながら分け入った。

 夏用の伊予簾(いよすだれ)をかけ渡し、鈍色の几帳が涼し気に透けて見える。善き童女の濃い鈍色の汗衫の裾、頭などがほの見えるのも趣深いが、何とも目につく喪の色ではある。

 簀子に上がると茵がすっと差し出された。女房達が「軽々しい御座所(おましどころ)で……」と言いながら、いつものように母御息所に応対を願ったが、最近体調が悪いと寝込んでいて、すぐには出てこない。待つ間に、庭の木立が何心なく繁る景色を眺める夕霧。

 柏木と楓とが特に若々しい色をして枝を差し交わしているのを

「どのような縁のある同士だろう、枝先が繋がっているとは頼もしい」

 といってそっと近づき、

「同じことならこの枝のように馴れ親しんでください

『葉守(はもり)の神』のお許しがあったのですから

※楢の葉の葉守の神のましけるを知らで折りし祟りなさるな(後撰集雑二 一一八三 藤原仲平)

 御簾の外に隔てられていますのも恨めしいことですね」

 と、長押に寄りかかった。

「ああいう打ち解けたお姿もまた、たまりませんわね」

 と女房達がつつき合う。ちょうど取次ぎをしていた少将の君という女房が

 「柏木に葉守の神は宿っておられても

 みだりに人を近づけてよい梢でしょうか

 唐突なお言葉に、浅いお心と感じましたわ」

 と切り返したので、夕霧はなるほどやられた、とばかりに苦笑した。

 やがて母御息所がいざり出てきた気配に、そっと居ずまいを正した。

「憂き世に沈む日々を重ねたせいでしょうか、調子を崩しまして、呆けたように過しておりました……このように度々お訪ねをいただきまことに勿体なく、気力を奮い起こしました」

 本当に具合が悪そうである。夕霧は、

「お嘆きになることは至極もっともですが、あまりに度が過ぎるのも如何なものでしょうか。何事も前世からの宿縁にて、いつかは終わりが来るものです」

 と慰めつつ、

(女二の宮はこれだけ通っていても気配すら窺えない。聞いていたよりも良さそうな方じゃないか。お気の毒に、夫を喪った悲しみばかりか皇女としても外聞が悪いことだろう)

 まだ見ぬ宮に急速に惹かれていく。近況を尋ねるにも熱が入った。

(柏木がイマイチ気に入ってなかったということは、顔形は美しくはないのかもしれない。でもふた目と見られないという程でなければ、どうして外見だけで嫌ったり、まして許されぬ恋に惑わされたりするものか。みっともない。結局は内面が大事だよね)

「今は故人同様にお考えくださり、親しくお付き合いください」

 と色めいた風ではないにしろ、勢い込んで距離を詰めにかかる夕霧は、すらりと背も高く直衣姿もきりりとあざやかである。

「亡き殿は何事もお優しく細やかで、上品で心惹かれる感じは一番でしたけれど」「此方は雄々しく華やかで」「ひと目みて眩しい! という魅力は誰より優れていますわね」「同じことなら本当に宮さまの元へお通いあそばしたら……」

 女房達が囁き合う。

「右将軍の墓に草初めて青し」

 夕霧が口ずさむこの漢詩の人物が亡くなったのもそれほど昔ではない。昔も今も様々に悲しみの尽きないこの世である。身分の高きも低きもその死を悼み惜しまれた柏木は、家柄や官位はさておいても不思議に人徳があり、小役人や年取った女房達にさえ慕われていた。まして帝には、管弦の遊びの折々にまず引き合いに出されて偲ばれるのであった。

「あわれな衛門督よ」

 何かにつけそう言う人ばかりである。

 ヒカルにとってはまして月日の経つごとに思い出すことも増えた。内心ではこの若君を柏木の形見と見做しているが、誰も知らず、知らせるべきでもない。

 若君はすくすくと育ち、秋ごろには早くもハイハイをし出した。

参考HP「源氏物語の世界」他

<横笛 一 につづく

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