柏木 五
こんにちは、右近です。
シャレにならないシビアな話が続きましたので、出そびれておりました。
身分違いの許されぬ恋……極めてロマンティックな響きとは裏腹な、こんな悲惨な結果になることもあるのよね、という紫式部さんのイケズ・オブ・イケズが大炸裂といったところでしょうか。何ともはや、お気の毒なことにございます。
ともあれ、季節は容赦なく巡ってゆきます。
弥生三月、空の色もうららかな春爛漫。
女三の宮さまがお産みになられた若君も、生後五十日となられました。色白でとてもお可愛らしい坊ちゃまです。日数の割には体も大きくて、もうお声もよく出されます。
ヒカルさまは西の対に渡られるたび、
「ご機嫌いかがですか。……ああ、何とも張り合いがないね。いつも通りのお姿で元気になられた貴女を見たかったよ。どんなに嬉しかっただろうね……私を冷たく見捨てて出家などなさらなければ」
などと涙目で恨み言を述べられるようです。
宮さまが尼になられて以来それこそ毎日のようにお渡りがあり、今更ながらこの上ないお扱いとのこと。
おつきの女房達も未だ困惑気味です。
「ヒカル院、若君の五十日(いか)のお祝いは如何いたしましょう?母君が出家しておられるのに、よろしいのでしょうか……」
「え、普通にやればいいんじゃない?女子なら、母の運命にあやかりそうで縁起が悪いってこともあるけど、男だしね」
五十日の祝いとは現代で言うお食い初めのようなもので、父または祖父が箸をとって赤子に餅を含ませる儀式です。
南面に小さな御座所を設え、餅を用意します。若君の乳母たちは揃って晴れ着姿で、御前に献上するもの、色とりどりの籠物、桧破籠など趣向を凝らします。
御簾の内でも外でも、若君の出生を疑う者など誰もおりません。各方面から贈られたお祝いの品々が溢れかえる西の対で、ヒカルさまは何を思っておられたでしょうか。
そして宮さまは……尼削ぎにした髪の裾がまとまりにくいのがお気に召さないようで、一生懸命額髪を撫でつけていらっしゃいます。
そこにヒカルさまが几帳をずらして座られました。恥ずかしがって顔を背けられた宮さまの小柄なお身体はますますか細く、小さく見えます。切り落とすのを惜しみ長めに削いだ髪のせいで、後ろ姿は殆ど以前と変わりありません。
濃淡をきかせて重ねた鈍色の衣裳に今流行りの黄色味を含んだ淡い色、というコーディネートはとても尼には見えず、さしづめ可憐な少女といった優美な佇まいにございます。
ヒカルさまは、
「うーん……墨染の衣っていうのはやはり目には暗く映るね。尼になられても、こうしてお顔を拝見することは出来るからって自分に言い聞かせてたんだけど、相変わらず諦めきれなくて涙が出るよ。まあこういうシツコイところが嫌われて貴女に捨てられる羽目になったんだろうけど……何かと胸が痛むし残念でならない。何とかして昔に戻れないか、とね」
と嘆いてみせ、
「貴女が修行に専念されてきっぱり私から離れれば、本心から私を厭うて世を捨てたということになろうね。世間にも顔向けできないし辛いよ。少しはあわれを催してはいただけるのかな」
型通りの恨み言を仰います。
宮は、
「出家した者はもののあわれなど意に介さないと聞いております。ましてわたくしは元から存じませんから、どう申し上げてよいものやら」
と。意外に手厳しい物言いにございます。
「随分な仰りようだね。よくご存じの『あわれ』もあるでしょ貴女には」
ヒカルさまの方もキツイ一撃です。
乳母は家柄も見目も良い方ばかり大勢控えています。ヒカルさまは彼女らに若君の世話についての心得を訓示されてから、
「可哀想に、余命いくばくもない私のところに産まれて来るなど」
と仰って若君を抱き上げました。人見知りせずニコニコしますし、色白でぷくぷくの若君は愛くるしいことこの上ありません。
ここからはヒカルさま、心のお声です。
(夕霧の幼い頃を思い出すな……顔は似てないけど。明石女御の産んだ宮たちは、父帝の方に似て皇統らしく気高くていらっしゃるが、メチャクチャ美しいってほどでもない。まあ、そこそこって感じ?だがこの若君は……品もあるし愛嬌もあって、目元が涼やかでよく笑って可愛いな……やはり心なしか、柏木に似ている気がする。こんな小さいうちから眼差しが穏やかで優れた素養を感じさせるとはね。普通の赤子にはない、匂い立つような美しさだ)
宮さまの方は誰似なのかという思いはおありでないようです。何も知らぬ女房たちはまして、そんな発想が出て来るはずもありません。
ただヒカルさまの心の内だけで、
(哀れな……何ともはかない恋の結末よ)
と思うのみでしたが、人生の無常も相まって感極まられたか、涙を零されました。おめでたい日に不吉だとすぐに押し拭われて、
「静かに思い、泣くことに堪えた」
※「五十八翁方有後静思堪喜亦堪嗟持盃祝願無他語慎勿頑愚似汝爺白」(白氏文集巻二十八、自嘲)
白氏文集の一節をそらんじられました。ヒカルさまは五十八に十足りないお歳にございます。もうそんな年だとしみじみ感慨にふけっておられたのでしょう。漢詩の続き、「汝が父に似るなかれ」とでも仰りたかったのかもしれません。
(女房の中に柏木を手引きした者が必ずいるはず。誰だかわからないのが腹立たしいな。間抜けな男よと嗤われているんだろう)
と苦々しく思いつつも、
(私から咎め立てするようなことはやめとこ……男女どちらかといえば、何かと可哀想なことが多いのは女の方だもんね)
露ほども顔には出されません。
若君が無邪気に笑うその目つき、声を出すその口元。
(事情を何も知らない人はどう思うんだろうな。やっぱり柏木によく似てるよね。柏木の父の致仕大臣が、せめて子でもあればと泣いていたが、ここにいるよって見せるわけにもいかないし……人知れず儚い形見だけを残して、あれほど意識高く優れた男が自滅するとは、何とも惜しいことをしたものだ)
それまでの憎しみも消え、涙するヒカルさまにございました。
一通り儀式も終え、女房達がそっと席を外した時でした。
ヒカルさまが宮に近づかれて、
「この子をどうする気?こんな可愛い子を捨ててまで出家する必要あった?薄情なことだね」
不意にキッツイ一言です。さらに、
「いったい誰が種を蒔いたのかと聞かれたら
どう答えていいのか、岩根の松は
お可哀想に」
小声で追い打ちです。
宮はもう返事どころではなく、うつ伏せてしまわれました。
ヒカルさまは、
(そりゃ何とも言いようがないよね。別に返歌しなくても全然いいんだけど……いったいこの宮は本当の所どう思っているんだろう。深くも考えては無いだろうけど、それにしても普通平気じゃいられないよね)
怒りとも悲しみともつかない思いにかられ、苦々しいお顔でいらっしゃいました。もちろん、女房達には見せないですけれど。あっ、私は見つからないよう隠れてますからね!
いやそれにしても辛いですねこれは。
女三の宮さま、ヒカルさまのどちらにとっても不幸な状況ではないでしょうか。いっそ離れてお暮しになった方がよいのでは……とお節介ながら思ったりもします。それはそれでまた、速攻で朱雀院さまに叱られそうですけどね。
さて、そろそろ私も不審がられそうなのでこの辺で失礼いたします。
今回は私、右近が六条院春の町・西の対よりお届けしました。それでは、また。
参考HP「源氏物語の世界」他
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