おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

柏木 四

2021年5月25日  2022年6月9日 

 


 病床の柏木衛門督は女三の宮の出家を聞いてさらに気力を無くし、いよいよ容態は悪化した。

(妻を……女二の宮をお呼びしなくては。必ずもう一度逢おうと約束したのに)

 だが内親王という身分を考えると、軽々しく此方には呼べない。だいいち柏木の両親がべったりと付ききりで、どう頑張っても姿を見られずに来ることは無理だ。

 柏木は、

「何とかして妻のいる一条宮にもう一度行きたい」

 とも訴えたが、許されるはずもない。誰彼かまわず妻のことを頼むしかなかった。

 元々、女二の宮の母御息所は気が進まなかったという婚姻である。柏木の父・致仕大臣が熱心に請い願ったことで、そこまで深い気持ちならばと朱雀院も根負けして許したものだ。

(六条院での女三の宮の冷遇……二品という高い位階にも関わらず……が噂になっていた頃、朱雀院は

『かえって二の宮の方が後々安心かもしれないね。柏木のような実直な夫を持って』

 と仰せになっていたのに……こんなことになるなんて。院にも畏れ多い……)

 柏木は自分の母親にも、

「こんな風に妻を後に残すことを考えますと……父君、母君、きょうだいたちなどももちろんですが……お気の毒でなりません。自分の心には任せない命とはいえ、添い遂げられない夫婦の縁と二の宮が嘆き悲しまれるのは心苦しい。どうかよく心をかけて面倒をみてやってください」

 と懇願したが、

「まあ、なんて縁起でもないことを。貴方に先立たれては、私もどのくらい生きていられましょうか。そんな先々のことなど仰らないで」

 泣き出してしまい、それ以上聞き入れようとしない。

 仕方がないので、弟の右大弁の君に一通り頼み置いた。

 性格が穏やかで善良な長兄・柏木をきょうだいも慕い、末の方のまだ幼い弟たちは父親のように頼り切っている。その兄が病み、こうして遺言まですることを悲しく思わない者はない。邸内は悲嘆の底にあった。

 帝もこの優れた公達を惜しみ、にわかに権大納言に任じた。昇格の喜びで奮起して今ひとたび参内がかなうかもしれない、という期待からの采配であったが、病は一向に良くならなかった。

 柏木は苦しい中にも丁重に拝礼した。父大臣も、我が息子に対する帝の信任の厚さを目の当たりにして、あたら若い才能が……とますます悲しみにくれる。

 いとこ同士であり親友でもある夕霧左大将は以前から柏木の病状を気にかけ、始終見舞いに訪れていた。

 今回の昇進の祝いも真っ先に駆けつけた。夕霧の入る門や対屋の周囲には馬や車が立て込み、大勢の家来が賑やかに行き来し、左大将の威勢ここにありといった体だが、柏木は年明けから起き上がることも容易ではなくなっていた。

「本来、身なりをきちんと整えてから対面するべきだが、もう無理だ……此方まで入ってくれ。見苦しい格好で失礼するが許せ」

 と、夕霧を枕元に呼んだ。加持の僧などは暫らくの間外に出し、二人きりとなった。

 幼い頃から、何の隔てもなく仲良くしていた間柄である。別れる寂しさや悲しさは、親兄弟の想いにも劣らない。

 夕霧は、

「権大納言に昇進おめでとう。なのにまだ寝込んでるのかい?今日こそ少しは気分も晴れたかと思って来たのに」

 とつとめて明るく声をかけ、几帳の端を引き上げた。

 柏木は、

「実に残念だが、私はもう以前の私じゃなくなってしまってね……」

 烏帽子だけは何とか押し入れるように被り、すこしでも起き上がろうとするが酷く苦しそうだ。柔らかで着馴れた白い衣を厚く重ね着して、衾を引きかけて臥している。病床の周りはこざっぱりとして薫物のよい香りがする。快適な部屋であった。

 柏木自身も寝たままの格好とはいえ崩れ切ってはいない。重病人は得てして髪や鬚も乱れむさ苦しくなりがちだが、綺麗に整っている。痩せてはいるが肌の色もますます白く透き通るようだ。

 ただ枕を立てて何か話すのも声に力がなく、息も絶え絶えで痛々しかった。

 夕霧は、

「長患いの割には大して悪そうな感じもしないね。いつもよりむしろイケメンに見えるくらいだよ」

 と軽口で励ましてはみたものの涙が滲む。押し拭いつつ更に言葉を接ぐ。

「どちらかが遅れたり先立ったりは無しだと約束したじゃないか。酷いな。君のこの病だって、重くなった理由を何も教えてくれないし……あんなに仲良くしてたのに水臭いよ」

 柏木は、

「私自身もいつからここまで悪くなったのかわからないんだ……これといって痛いとか苦しいとかいう箇所もないし、すぐにどうかなりそうな感じでもなかった。短期間のうちに弱ってしまって、今はもう何が何やらわからない……惜しくもないわが身を、かろうじて引き留めているのは祈祷やら祈願やらの力なんだろうけど、もうこれ以上生きていても苦しいだけだし、いっそ自分からさっさと逝ってしまいたいような気もするよ……とはいえ、いざ現世との別れとなると中々捨てられないことも多いね。親孝行も十分にしていないどころか散々泣かせてしまって、帝にお仕えするのも中途半端。立身出世にしても同じ。他にもいろいろと心残りはあるけど、それはそれとして……」

「何を仰る。そんなことはないよ」

「まあ聞いてくれよ。実は……秘密の悩みがあるんだ。絶対に漏らすまいと思っていたけど、命の終わり近くなってやっぱり我慢できなくなった。他の誰でも無い、君だけに聞いてほしい。ウチは家族も多いけど……色々あって、親やきょうだいにほのめかしたところでどうにも出来ないことなんだ」

「そりゃ勿論私でよければ聞くけど……一体何を」

「六条院……ヒカル院とちょっとした行き違いがあってね。何か月も心の内で恐縮するばかりだった。知らず知らず世の中が心細くなり、何だか体調も良くないな……っていう時に、例の試楽のお召しがあった」

「朱雀院の御賀の試楽?子供達が舞った」

「そう。それで六条院に出かけて、ヒカル院にご機嫌伺いをしたんだけど、

『許さんぞ』

 と言わんばかりの目つきをされてね。ああ、私はこの先もビクビク怯えながら生きていくしかないんだ、完全に人生終わった……!と思ってしまったんだよ。それ以来、気持ちが鎮まることはついぞなかった。物の数でもない私だが、幼い頃よりヒカル院にはすっかり頼り切っていたのに、いったい誰に何を吹きこまれたのか……これだけが現世での心残りで、来世への往生の妨げにもなるかもしれない。もののついでで構わないから、君の父上に申し開きをお願いしたいんだ。亡くなった後でもいい。この咎めが許されれば君の徳ともなろう……」

 長く語るうち、柏木は苦しくなってきたのかぐったり肩を落とした。夕霧は、

(やっぱり女三の宮と何か……?いやでも、滅多なことは言えないよね)

 迷いつつ言葉を返す。

「咎めって、いったい何の話?父には……ヒカル院には、君に対して怒っているような素振りなんて何も無かったよ?重病だって聞いて驚いて、すごく心配しているし残念がってもいる。よくわからないけど……何で今の今まで打ち明けてくれなかったんだ。私が間に立って何とでも執り成したのに。こんなに悪くなってからじゃなくてさ……ああ、時が戻るなら、戻してやりたいよ」

「本当だね、ちょっとでも暇がある時に聞いてもらえばよかったよ……だけどまさかこんな……今日か明日かもわからない状態になるとは思ってもみなかった。寿命ってものを悠長に考えすぎてた。夕霧、このことは絶対に誰にも言わないでくれ。頭の片隅に置いて、ヒカル院に言うべき時が巡ってきたら、少しフォローしてくれるだけでいいんだ、本当にそれだけで……あと一条宮にいる女二の宮、折をみてよく見舞ってやってくれ。未亡人となればきっと朱雀院もご心配なさるだろう、よきように計らってほしい……ああ、まだまだ言いたいことは沢山あるのに、もう……苦しくて……」

 柏木は顔を伏せ、

「帰ってくれ」

 というように手を振った。

 加持の僧たちが戻り、柏木の父大臣や母も集まって来た。女房達も立ち騒ぐ中、夕霧は泣く泣く出て行った。

 思いやりが深く面倒見の良い柏木であった。

 同腹のきょうだいである弘徽殿の女御はもちろん、夕霧の妻・雲居雁の嘆きも大きかった。鬚黒右大臣の北の方・玉鬘も、ただ一人睦まじく交流していたこの弟のため祈祷をさせた。

 が、もとより治す薬はない。何の甲斐もないことだった。

 柏木は、泡の消え入るようにこの世を去った。

※水の泡の消えて憂き身といひながら流れてなほも頼まるるかな(古今集恋五-七九二 紀友則)

 妻の女二の宮とは、遂に再び逢うことなく終わってしまった。

 長年心底から慈しみあい、という程ではないにしろ、概ね妻として申し分ない待遇を与えられていた女二の宮である。夫は気持ちも優しく心映えも豊かで、常に礼節を弁えて接していた。不満など何もなかった。

「ただ……妙に世の中に対し醒めておられた。こんなに短命なお方だったから……?」

 思い出すたびに辛くなり、涙に沈む女二の宮は哀れであった。

 母御息所の嘆きはまた別のところにある。

(内親王ともあろう人がこのような憂き目に遭うとは、何と外聞の悪い……残念なこと)

 皇統の娘の結婚がこんな不幸な結末をみたことに、母として落胆しきりであった。

 柏木の父大臣、母の北の方の悲しみは言うまでもない。

「私が代わりに死にたい……子に先立たれるなんて世の道理に反している、酷すぎる!」

 と空を仰ぎ胸を焦がすが、何もかも詮無いことであった。


 尼となった女三の宮はどうだったか。

 柏木の身の程知らずな恋心には嫌悪感こそあれ、長く生きてほしいとは全く思っていなかった宮だが、亡くなったと聞けばさすがに哀れを催す。

(あの方……産まれた若君をすっかり我が子だと思いこんでいらしたけど、もしや本当にそうなのかしら。すべてはこうなる宿縁があってのことだった……と?)

 子供はヒカル院の子ではない。

 柏木の子だ。

 改めてそう確信した宮は、ただ独り自分の運命に慄き、この先の未来に怯えて、さめざめと泣いた。

参考HP「源氏物語の世界」他

<柏木 五 につづく  

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