柏木 三
西山の寺に籠る朱雀院にも、女三の宮が無事出産を終えたとの報は届いた。
「よかった、おめでたいことだ。ああ、我が娘とその孫に逢いたいものだ」
と喜んだのもつかの間、その後相次いで寄せられるのは宮の体調不良の知らせばかりである。
「どういうことだ?大丈夫なのか?」
と、勤行も手につかなくなるほど心を痛めた。
ただでさえ産後で衰弱している宮が何日も碌に食べず、いっそう頼りなげな風でいるらしい。
「長年お父様とは離れて暮らし、寂しいとも思ったことはなかったのに、今は恋しくてたまらない……二度とふたたびお逢いできないまま終わってしまうのかしら……」
などと言って泣いている、という話を確かな筋から耳に入れた朱雀院は、もはやいてもたってもいられない。夜の闇に紛れ、山寺を発った。
事前に手紙も何もなく、突然六条院に現れた朱雀院にヒカルは驚き、恐縮しつつ対面する。
朱雀院は開口一番、
「出家の身でもう現世を顧みるべきではないと思っていたが、やはり迷い、捨てきれないものは子を思う闇だね。勤行もおろそかにしたまま、もし子に先立たれるという逆縁の別れでもあれば、逢わずじまいの恨みがお互いに残りはせぬかと気が気ではなく、世間の誹りも構わずに駆けつけたのだ」
率直に気持ちを吐露した。
僧形となっても変わらないその優雅で懐かしい姿に、ヒカルの胸は締めつけられた。人目に立たないよう、正式な法服ではなく簡素な墨染の衣をまとって身をやつしているが、その神々しいまでの清らかさは隠しようもない。
ヒカルにすれば羨ましい出家暮らしであり、思わぬ再会にまず涙が零れる。
「宮が患っておられるといっても、どこがどう悪いというわけでは……ただ、ここ数か月体調が良くなかったところにあまり食べ物も召しあがらないので、徐々に弱ってしまったかと」
弁解しつつ、
「急なことで、ちゃんとした御座所ではないですが……」
宮の帳台の前に敷物を敷かせて院の座とした。女房達が宮を介抱しつつ身なりを整えて、床に座らせた。朱雀院は几帳を少し横にずらして、
「夜居の加持僧のような恰好だけれど、まだ霊験あらたかとはいかない修行の身だからね、恥ずかしながら。貴女が逢いたがっておられたこの父の顔を、とくとご覧になってください」
と涙を拭う。宮は、
「これ以上生きていける気がいたしません……お父様、」
弱弱し気に泣きながら、だがはっきりとこう言った。
「せっかくおいでになられた機会に申し上げます。どうかわたくしを……尼にしてくださいませ」
朱雀院は一瞬息を呑んだが、
「……そのようなご決心はたいそう尊いことだけれど、寿命というものは人にはわからないものだよ。まして行く末の長い若い貴女なら、途中で何か間違いを起こして、世間に謗られるようなことにもなりかねない」
落ち着いた声で言い聞かせると、ヒカルに顔を向けた。
「宮がこんな風にご自分から仰るとは余程のこと。もうこれで最期ならば、一時的にでも志を叶えてやって、少しでも功徳を得させたいと……私は思うのだが」
「近頃はよくこのように仰るのですよ。物の怪が人の心を誑かして出家させるように勧めるということもあるようなので、私はまともに取り合っておりません」
ヒカルはきっぱりと否定したが、朱雀院は引かない。
「物の怪のせいだとしても、悪事をたくらむなら何としても引き留めなければならないが、そうではなかろう。こうまで衰弱した人が最後の望みとして尼になりたい、と仰ることを聞き過ごしてしまうのは、後々悔やまれて苦しむことにならないか?」
(ヒカルならきっと誰よりも安心だと降嫁させたが……さして寵愛も深くなく、思うようにはならなかった。何かにつけそんな話を聞いても、正面切って批判するようなことでもなく……世間に面白おかしく取り沙汰されているのも残念でならなかった)
朱雀院は思いを巡らせる。
(この状況とタイミングで世を捨てたとしても誰が笑おうか。なさぬ夫婦仲を恨んでのことかとは言われないだろう。ヒカルならきっと一通りの面倒はみてくれるだろうから、ただそれだけをお預けした甲斐があったものと思い成して、あてつけがましく出て行くのではなく……宮に相続させた広く立派な御殿、そこを修繕して住まわせればよい。私が存命の内に、其方でも困らないように処置を施しておくとしよう。ヒカルも、さすがに無慈悲に見捨てたりはしないだろうが……その態度も見届ける必要はある)
「此処に私がいる、今がよい折だ。宮に授戒をさせよう。以て仏と縁を結ぶこととする」
きっぱりと言い放った。
ヒカルは宮を疎ましく思う気持ちも吹っ飛び、
「なんてことだ、これは一体どういう……」
几帳の内に入り、宮に訴えた。
「何故、この余命いくばくもない私を捨てて若い貴女が尼になるなどと……もうしばらく時間を置いて心を落ち着けて、薬湯を呑みしっかり食べてください。尊いご決意とはいっても、お身体が弱っていては勤行もままならないでしょう?まずはご回復をみてからですよ」
何を言っても、宮は辛そうな顔で頭を横に振るばかりであった。
(表立って何も言わないし態度も変わらないから、あまり構わずとも平気だとばかり……やはり恨めしくは思っていたのか。私は……なんと不憫なことを)
ヒカルは後悔したがもうどうにもならない。とにかく思い直して貰おうと言葉を尽くし、引き留めているうちに夜明けが近づいた。
朱雀院が山に帰るにしても、人目につく日中は憚られる。急がねばならない。
院は祈祷に来ていた中で、特に位の高い尊い僧ばかりを呼び集めた。
宮の、若い盛りの清らかな長い髪が削ぎ落されていく。
授戒の儀式の間、ヒカルは余りの悲しみと口惜しさに堪えられず、泣きに泣いた。
朱雀院にとっても、元々誰よりも可愛がって手塩にかけた内親王である。現世ではその甲斐もなくなってしまったことの嘆きは尽きない。憔悴しながらも、
「尼姿とはなったが、身体を大事にして、念誦に勤めなさい」
と宮に言い置き、夜が明ける前にと出立の準備を急いだ。
宮は今にも命が絶えそうな衰弱ぶりで、父院を見上げることもままならず、言葉も出ない。
ヒカルは
「まるで夢を見ているかのように思われて、心が千々に乱れております。昔を思い出させるこの度の御幸に何もおもてなし出来ず、失礼をいたしました。後日必ず参上いたしまして、この埋め合わせを……」
と挨拶をして、院の一行に護衛をつけさせた。
朱雀院はヒカルに言った。
「私の寿命も今日か明日かと思われた頃、他に保護者もない、寄る辺ない暮らしが避けがたかった宮だった。貴方の本意ではなかったところを無理にお願いして、これで安心と思っていたんだけどね……もし宮が生き永らえたら、周りとは違う尼姿で、人の出入りの多い今の住いは似つかわしくないだろうが、かといって人里離れた山に籠るのも心細かろう。どうであろうと尼の身に応じて、今まで通りお見捨てなきよう」
「この上そんなことまで仰せられては、かえって恥ずかしくて消え入りたくなります。今はとにかく動揺しておりまして、何も弁えられませんが……必ずきちんとお世話いたしましょう」
ヒカルは言って、沈痛な面持ちの院を見送った。
後夜の加持の際、物の怪が現れ出た。
「ざまを見ろ。一人は見事取り返したと思ってる様子がメチャクチャ腹立たしかったから、この辺りに気づかれぬようずっと来ていたのさ。さて、もう帰るかね」
とあざ笑う。
ヒカルはぞっとして、
(さては紫上に憑いていた物の怪が此処に?逃げ去ったのではなかったのか。宮の出家もこいつが?)
悔しがったが、もう取り返しはつかない。
宮はすこし持ち直したものの、まだ危なっかしい感じに見える。傍仕えの女房達もすっかり気落ちしていたが、ヒカルは、
「もういいか、元気になられるならこの際尼になろうが何だろうが」
と気を取り直し、再び修法を延長して休みなく行わせるなど、宮の回復のため奔走した。
参考HP「源氏物語の世界」他
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