柏木 二
柏木が文を受け取った同じ日の夕方、女三の宮は産気づいた。
傍仕えの女房達が大騒ぎして知らせてきたので、ヒカルも慌てて西の対へと向かう。
内心では、
(ああ、残念だな。何もなければおめでたく嬉しいことに違いないのに)
と思ってはいたが、もちろんおくびにも出さない。修験者を召し出した上、元より続けている御修法のうち特に霊験あらたかな僧を残らず呼んで、派手に加持を行わせた。
陣痛は一晩中続き、翌朝日が差し上がる頃に産まれた。男子であった。
ヒカルは、
(何と……不義の子がもしかすると、実の父に似た顔つきで表に出ることになるのか。キッツイな……女子なら何気に誤魔化せるのに。大勢に顔を見られるなんてことはまずないから)
と憂慮する一方で、
(いや待てよ、後ろ暗い疑いのある子だからこそ、女子より世話のいらない男子でかえってよかったのかもしれない。それにしても不思議だな、人生で一番恐ろしいと思った私の罪……藤壺の宮との密通、成した子は帝にまでなった……これはその報いなのか。しかし現世のうちにここまで思いもよらない応報に遭うなら、後世の罪障も少しは軽くなるのかも……?)
とも思う。
他人は与り知らぬことだ。年を取ってからの子、しかも女三の宮という最も高貴な妻が産んだ子として、どれほどの寵愛を得ることかと誰もが思い、それはそれは大事に世話をする。
産屋の儀式は厳粛にして盛大であった。六条院内の女君たちからも次々と出産祝いが贈られた。折敷や衝重、高坏など競い合うように趣向を凝らしたものばかりだ。
五日目の夜、秋好中宮からも正式な公事としての産養があった。産婦の宮へは粥、女房たちへの身分に応じた饗応物、五十組の弁当、参会客用の酒肴まで揃え、六条院の下仕えの人々や院庁の召次所、その他下々にまで振る舞われた。宮司や大夫をはじめ、冷泉院付きの殿上人も皆参集した。
お七夜の産養は内裏から、此方も公事として大々的に催された。
ヒカルの親友・致仕大臣は本来このような祝い事には誰よりも気合を入れるはずの人だが、長男・柏木の病気でそれどころではないのだろう、通り一遍の祝いがあったきりであった。
その他親王方、上達部など訪問者は数知れない。
ヒカル自身はどうだったか。
表向きはこの上なく大事にしているように見せかけていたが、本心は複雑だった。自らはなやかに盛り上げることはせず、管弦の遊びも行わない。
女三の宮は、か細い体で出産という過酷な経験をしたことですっかり憔悴し、薬湯さえ口に出来ないでいた。我が身の運命の無残さにかこつけては、
(いっそこのまま死んでしまいたい)
とまで思う。
ヒカルはいつも通りを装っているが、産まれたばかりの赤子を碌に見ようともしない。
老いた女房などが、
「なんとまあ、冷たいなさりようですこと。久しぶりに産まれたお子さまが、これほどまでに……そら恐ろしい程に可愛らしくいらっしゃいますのに」
と愚痴っているのを漏れ聞いた宮は、
(そういう余所余所しいお振舞いは……この先もっと増えていくだろう)
ヒカルも自分自身も恨めしく、
(いっそ尼になってしまおうか)
という気持ちに傾いていった。
ヒカルはもう西の対には泊まらない。日中の間たまに顔を見せるだけだ。
「世の無常を見続けていると、人生は短く心細いものと思われて、ついつい勤行にかまけてしまってね。もう私には出産後の賑わしさが似つかわしくない気もして、あまりこちらにも伺わなかった。どうだい、少しは御気分もすっきりしたかな?心配でね」
几帳の蔭からヒカルが覗きこんだ。宮は頭をすこしもたげて、
「やはりもう生きていられないような心地がいたします。わたくしのような罪障の重い者は……尼になることで、生き永らえられるかどうか試したくもございます。もし亡くなったとしても、罪障は無くなるのではないでしょうか」
と、いつもより大人びた物言いをする。
「何を仰る、縁起でも無い。どうしてそんなことをお考えに?出産は命がけのことではあるけど、皆が皆死んでしまうわけではないよ」
ヒカルは即座に否定したものの、
(本当の本気でそう思ってるのなら、望みどおりにしてやるのが思い遣りなのかもしれない。このまま夫婦でいても、何かにつけ疎まれちゃ辛いだろう。私自身ももう気持ちを立て直すのは無理!だから、ついつい冷たくしちゃいそうだし、誰かに気づかれるのも時間の問題だよね。あんまり考えたくはないけど、朱雀院の耳に入ったら最後、ぜーんぶ私が至らないせいってことになるんだろうな……この際、体調不良にかこつけて願いを叶えてやるか?)
とも思ったりするが、いざ目の前にすると如何にも惜しく哀れでもあり、これ程若く、行く末遠い髪をむざむざと断ち切ってしまうのも忍びない。
「気をしっかりお持ちなさい。心配することは何もない。これで最期かと思われた人が回復された例も近くにあるじゃないか。まだまだ此の世も捨てたものではないよ」
宥めすかして薬湯を飲ませる。宮は痩せて肌は青みがかり、弱弱しく儚げに伏している姿はゆったりと美しい。
(どんな酷い過ちを犯したとしても、うっかり許してしまいそうな姿だな)
思わず見とれてしまうヒカルであった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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