柏木 一
柏木衛門督は病みついたまま回復することなく、新しい年が明けた。
父大臣と母の北の方が嘆き悲しむのを見て、
(自ら命を終わらそうとしても終わるものではないし、罪深いことだ。それはそれとしても、どうしても此の世を離れられない、惜しみ留める程の自分か?幼い頃から意識高く、何事も他人より一段上にと励み、公私を問わず並以上だと自負していたが……そんなことは全然なかった)
一つ二つの躓きごとにプライドをへし折られ、以来世の中すべてが面白くなくなった。ならば来世の修行をと、出家に心が大きく傾いたが、親たちの嘆きを思うと踏み出せなかった。野山に彷徨い込もうにも、しがらみに足を取られて現実的には無理だったのだ。何やかやと紛らわしながら日々を過ごしてきたが、ここに来て遂に行き詰まった感がある。
(この世に生きていけないほどの尋常ではない悩みを抱えることになったのは、誰あろう自分自身のせいだ。身から出た錆。私は……進むべき道を誤った)
誰を恨むべくもない。
(神仏に不平をいう筋合いでもない、とすればこれは全部、ただ運命だったということか。「誰も千年の松ならぬ」此の世は誰しも千年も生きられるわけではない。少しでも人に惜しまれるうちに世を去り、誰やらに通り一遍の同情でもかけて貰えれば……「一つ思いに」燃え尽きた証ともなろう)
※憂くも世に思ふ心に叶はぬか誰も千年の松ならなくに(古今六帖四-二〇九六)
※夏虫の身をいたづらになすことも一つ思ひによりてなりけり(古今集恋一-五四四 読人しらず)
(無理に命永らえたとしても、そのうち噂が漏れ出して、私もあの人ものっぴきならない境遇に追い込まれるかもしれない。今死ねば、不届き者と心置かれているヒカル院もお許しくださるだろう。どんなことでも今わの際には一切消えてしまうものだ。他には何の過ちもない、長年何かにつけて親しくお召しをいただいていた私を、少しは憐れんでくださるかもしれない)
柏木は病床であれこれ考えをめぐらすものの、もうどうにもならない。
(なぜ……こんな短い間に何もかもダメになってしまったんだろう)
と目の前が真っ暗になったような気持ちで、ただ「枕も浮きぬばかり」に泣く。誰を恨むのでもなく存分に涙を流したことで、幾分気分が上向いた柏木は、親や女房たちが傍を離れた隙に女三の宮への文を書く。
「もはやこれまでという病状はお耳にも入っておられることでしょう。如何か、とだけでもお尋ねいただけないのですね。当然のこととはいえ悲しくてたまりません」
ここまでで全身が震え出し、書きたいことも書けなくなった。
「これを最期に燃え尽きる煙も燻って
絶えることのない貴女への思いがなおも残るでしょう
哀れ、とだけでも仰ってください。そのお言葉にて私は安らぎ、独り無明の闇に惑う道の光といたします」
柏木は小侍従に、
「もう一度、直接会って言いたいことがあるんだ」
と性懲りもなくまた連絡を取り、文を言づけた。
小侍従にとっては伯母の乳母子であり幼馴染である。宮への大それた執着には辟易させられたものの、子供の頃から馴れ親しんでいた柏木が此の世を去ると聞けば、悲しくないはずもない。
宮のもとに柏木の文を持参し、泣き泣き訴えた。
「どうか一言なりともお返事を……本当にこれが今生の別れにございますから」
「わたくしだって、今日か明日かの心地がして不安でたまらない。普通にお気の毒とは思うけれど……悩まされるのはもう懲り懲りなの。とても返事など出来ないわ」
宮は頑として筆を取らない。
これ以上罪を重ねまいという殊勝な心持ちでは勿論なく、ただただヒカルに気が引けて、機嫌を損ねられることが恐ろしいのだ。時折遠回しに嫌味を言われるのも辛かった。
そういった宮の性根を理解している小侍従は諦めない。硯を用意し、さあさあと責め立て続けた。渋々にとはいえようやく書きあげた宮の文を手に、小侍従は夜の闇に紛れ柏木の元へと走る。
柏木の父大臣は、葛城山から優れた行者を迎え入れ病気治癒の加持をさせた。邸内は修法や読経の声で沸き返っている。人に勧められるがまま、修験者という修験者をあちこちから呼び集めたのだ。世に知られず深山に籠っている者まで、弟たちを派遣して引っ張り出してきた。広く豪奢な大臣邸に、得体の知れない粗野な山伏どもが大勢ひしめいている。
柏木の病はこれといった症状もない。訳もなく気が塞ぎ、時折声を上げて泣く。
陰陽師の見立てによると、多くは女の霊が憑いているという。父大臣はそんなことがあるのかと驚いたが、一向にその物の怪が現れ出る気配はない。どうにも困り果てて、山奥の隅々まで聖を探し求めていたのだった。
今日やって来た聖は長身にして眼光炯々、荒々しい声で陀羅尼経を読む。
「ああ、嫌だ嫌だ。私は罪障が深いのか、あんな大音量で陀羅尼など読まれたらビクビクし過ぎて、ますます寿命を縮めそうだ」
柏木は女房達にもう寝るから誰も近づけるなと申しつけて、そっと自室を出た。邸内で小侍従と落ち合うのだ。
父大臣はそうとも知らず、聖とひそひそ話し合っている。年は取ったものの陽気な性格は変わらず、よく笑う大臣がすっかり窶れて、普段なら縁もない野卑な者どもと対座し、柏木が病みついた時の様子、これといった理由もなく徐々に悪くなっていった経緯などを説明しつつ
「どうかこの物の怪が出て来るよう念じてやってくれ」
と頭を下げているのも哀れなことだった。
「小侍従、聞いたか?何の罪とも知らないものが、女の霊だと見立てるとはね。本当にあの宮の執念が憑いているのなら、この厭わしい我が身もうって変わって有り難いものになろうよ。それにしても……分不相応な思いをかけ、あるまじき過ちを仕出かし、相手の名を汚し我が身も省みないような恋は、昔の世にもなくはない。何も私が特別悪いわけでもない、そう思おうとしても、恐ろしくてたまらないんだ。ヒカル院に私の罪を知られて、おめおめ生き延びるなどとても無理なんだよ……合わせる顔がない、眩し過ぎて。そう、あの方はまさに『光の君』、特別な人なんだ。あの夕べ……目を見合わせた瞬間から胸が騒いで、まるで魂が抜け出て戻って来ていないような心地がする。小侍従、もし六条院で私が彷徨っているのを見たら、魂結びでもしてやってくれよ」
柏木はまるで抜け殻のようだ。今さめざめと泣いていたかと思えばいきなり笑いだしたりと不安定な有様で、ただ口だけは止まらずブツブツと話し続ける。小侍従は言った。
「宮さまも同じですよ。ヒカル院に対しとても顔向けできないと恥じ入って、うち萎れておられます」
その途端、柏木の脳裏に面窶れした宮の姿が浮かんだ。まるですぐ目の前にいるようなリアルなイメージに、
(本当に魂があの人の元に抜け出ていったのかもしれない)
と恐ろしくなった柏木はまたぞろまくし立てた。
「もう、宮の話は一切しないことにする……現世はこの通り儚く過ぎてしまったけれど、来世での長い障りになるかと思うとね。ただ気がかりなのは例のこと……宮のお産が無事に済んだとだけは聞いておきたかったなあ。それと、あの時見た夢。ただ私独りだけ『ああそういうことだったのか』って納得したけど、もう語るべき人もいない……このまま全部消えていくんだね……切ないなあ……」
「夢とは?何のお話でしょうか」
「猫だよ。宮に猫をお返ししたんだ……」
(宮への想いが嵩じて、おかしくなっていらっしゃる。何故こんなにまで思いつめられてしまったのかしら)
小侍従はぞっと総毛立つ一方で、この幼馴染が可哀想でならない。涙を堪えきれず一緒に泣いた。
紙燭を持って来させて宮の文を開く。手蹟は相変わらずたどたどしいが、読みやすくは書いてある。
「貴方の病状を心苦しく耳にしながらも、どうして尋ねたりできましょうか。お察しするばかりです。『残る』とありますが、
私も一緒に煙となって消えてしまいたい
辛いことを思い悩んでいるのは私も同じ
どうして後れをとりましょうか」
柏木はいたく感じ入って、
「いや……これは畏れ多い。してみるとこの煙ばかりが此の世での思い出ということか。何とも儚い人生だったね私も」
ますます泣きに泣く。
宮への返事は寝たままで休み休み書いた。言葉も切れ切れで、鳥の足跡のような筆跡である。
「行方も知らぬ空の煙となっても
思うお方の傍は離れません
取り分け夕暮れには眺めてみてください。咎め立てされる方の目も、もうお気になさることもなくなりましょう。何の甲斐もありませんが、憐れみだけはお忘れなきよう」
書き終わると柏木は苦しくてたまらなくなり、
「小侍従、もういいから、あまり夜が更けぬうちに帰参して、最期はこうこうでしたと伝えてくれ。こんな時まで誰かに怪しまれないようにと、人生終わった後のことまで心配している自分が情けない。いったいどういう宿縁とやらで、こんな恋に憑りつかれてしまったんだろう」
泣く泣く自室へといざり入っていった。小侍従は、
(以前は……いつまでたっても延々と引き留めて、宮のことならどんな小さなことでも引き出そうとしていらしたのに。もう、その気力もないのね。本当にこれでお別れだと……お気の毒に)
と思うと帰るに帰れない。
邸内にいる小侍従の伯母……柏木の乳母……も柏木の病状を語り、涙にむせんだ。
父大臣の心痛は大変なもので、
「昨日今日と少しはよくなってきていたのに、どうしてこんなにも弱ってしまったんだ」
と嘆き騒いだ。
「どうしても何も……私はもう死ぬのですから」
柏木はそう言って、自身もまた泣いた。
参考HP「源氏物語の世界」他
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