若菜下 二十
朱雀院の五十賀は、延び延びになったまま十月も過ぎてしまった。女二の宮主催の賀宴がことに盛大だったこともあり、身重の女三の宮が対抗するように催すのも憚られて、ある程度間を空けざるを得なかったのだ。
「霜月(十一月)は私の父、故桐壺院の忌月なんだよね。年が押し迫ってしまうと慌ただしいし、 貴女のお腹があまりに大きくなった頃だと待ち受けておられる朱雀院にも体裁が悪いけど……うーん、やはりこれ以上は延期しようがないね。くよくよ悩んでばかりいないで明るく振る舞ってね。そのやつれたお顔も何とかしないと」
あれ程キツイことを言ったものの、しょんぼり肩を落としている女三の宮を目の当たりにすると、やはり冷たくはしきれないヒカルであった。
問題は柏木である。
普段ならば、こういう風雅な催しの際には不可欠な人材として、必ず呼び出し相談もしていたというのに、長いこと手紙すら出していない。人が怪しむだろうと思いながらも、
(柏木衛門督の目にはさぞかしお間抜けに見えるだろうな。顔を合わせたらどうなることやら……とても平静でいられる自信がない)
何か月も参上して来ないのを咎めることもしなかった。
しかし柏木が長いこと病に伏していることは周知の事実だったし、六条院でも管弦の遊びなどは無い年であったので、殆どの者は特に不審にも思っていなかった。
ただ、夕霧だけは違う。
(おかしい。何か事情があるに違いない。柏木は恋愛脳だからな……私がおかしいと思ったあの垣間見で、逆に自制心が吹き飛んだのかもしれない)
何かあったのだろうと察しはついたものの、よもや本当に過ちを犯ししかもヒカルの知る所となっている、とまでは思い至らない。女三の宮のお腹の子の父親が誰かも。
十二月になった。
朱雀院の賀宴を十余日と定め、数々の舞の練習で六条院は大忙しである。長く二条院に留まっていた紫上は、この試楽を聴きたさに遂に戻ってきた。明石女御も出産のため里下がりし、またも男子を産んだ。一日中可愛い孫の遊び相手をして、これも長生きしたお蔭と喜ぶ紫上である。右大臣の北の方・玉鬘もやってきた。
夕霧は丑寅(夏)の町で練習を監督しており、花散里は毎日予行の演奏を聴いていたため、今回の試楽には参加しない。
このような催しに柏木衛門督を欠くことは如何にも栄えがなく物足りないし、さすがに皆が疑問に思うにちがいない。ヒカルは柏木を召し出そうとしたが、重病だとして参上しない。
(そこまで酷くもなさそうなのに。やはり来づらいのだろうな)
ヒカルはやや気の毒になり、再度手紙を遣わせた。父大臣も、
「なぜ辞退した?ヒカル院に何か不満でもあるのかと勘繰られてしまうよ?大層な病でもないんだし、どうにかして参上しなさい」
と促していたところ、ダメ押しにヒカルからの手紙も到着した。
(これではとても断り切れない)
柏木は辛い気持ちのまま六条院へと向かった。
まだ上達部たちも集まっていない頃合いだった。
到着した柏木を、例の如くすぐ傍の御簾の内まで入らせて、母屋の御簾越しに対面した。
(随分やせ細ってしまったな……顔色も良くない)
元来、弟たちのように陽気に騒ぐ性質ではない。思慮深げに落ち着いた佇まいが常だったが、今日は特に静かな様子である。
(どの皇女の隣に並べたとしても遜色ない男だけど……あの一件については二人とも、あまりにも思慮に欠けている。到底許せそうにないな)
ヒカルは柏木をじっと見つめながらも内心はおくびにも出さず、優しく話しかける。
「久しぶりだね。特に要件もなかったものだから、長く間があいてしまった。ここ何か月かはあちこちで病人の世話をしていて心の余裕がなくてね。此方の内親王が朱雀院の御賀のため法事をする予定になっていたのが、次々と支障が出て、こんなに遅くなってしまった。こうなると思うさま存分にってわけにもいかないから、型通りに精進料理を振る舞うくらいにしようと思う。御賀というと仰々しいけど、我が家に生まれ育った子供の数が増えたものだから、院にお見せしようと前々から舞を習わせてたんだよね。それだけは是非やりたくて。拍子を調えるのに誰に指導して貰うかと考えたら、やっぱり柏木なんだよね。お願いできるかい?何か月も顔見せがなかった恨みはもう捨てたから」
以前と何も変わらないヒカルの様子に柏木は却って身の置き所も無く、顔の色も変わっているようにも思えて、はかばかしい返事も出来ない。
「……ここ何か月も方々でご病気の由、承って案じておりました。私も春の頃より、常々患っておりました脚気がしばしば出るようになりまして、立ち歩くこともままならず……内裏にも参上しないで、世間とすっかり没交渉のまま数か月籠っておりました。朱雀院におかれましてはちょうど五十になられる年、人一倍しっかりとお祝いを差し上げるようにと、父の致仕大臣も常日頃申しており、さらに
『私は冠をかけ、車を惜しまず捨てた……引退した身であるから、前に進み出るのは相応しくない。身分は低くともお前ならば同じ深い気持ちを持っていよう。その心をお目にかけるように』
と催促されたこともあり、病身に鞭打って参上いたしました。……今の院の上は、ますますひっそりと悟り澄まされて、盛大な賀宴を催されることは望んでおられないように思います。諸々簡略化して、静かで深い語らいの願いを叶えて差し上げることが上策かと存じます」
ヒカルは、
(なるほど……贅を尽くしたという女二の宮主催の賀宴、すべては後押ししていた父大臣の意向であったと。中々の心遣いだね)
と思いつつ、
「私のところでやるのはただこれだけだ。随分手を抜いたものよと世間は嗤うかもしれないが、流石に柏木はわかってるね。これで安心して進められるよ。夕霧大将は、公務こそようやく役立つようになってきたけれど、こと風流の方面には性が合わないようでね。朱雀院はあらゆる芸事に通じておられるが、特に楽には造詣が深く精通してらっしゃる。出家して俗世を遠ざかっておられる今だからこそ、静かに心を澄ませて楽を堪能できるよう気を配るべきだね。夕霧と一緒に舞人の子供達の面倒をみて、心構えや嗜みをよく教えてやってくれ。何かの師匠という者は、だいたい専門外の事には疎くて残念なものだからね」
穏やかに役目を振る。
柏木は嬉しく思う一方で苦しく後ろめたく、言葉も出ず、一刻も早くヒカルの御前を辞去したい気持ちで一杯だった。いつもならば細々と世間話もするところ、何やかんやと誤魔化してようやく抜け出す。
その後は夏の町・東の御殿にて、楽人や舞人の装束の件などについて夕霧と意見を交わした。夕霧が精いっぱい考えて用意した案に、柏木がさらに細やかで的確な助言を添える。やはりこの手の催しには欠かせない風流人には違いないのだ。
参考HP「源氏物語の世界」他
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