少々冷えてまいりましたね。出が遅いので寝て待つといわれる「臥待の月」もようやくにして顔を出しました。
ヒカル院が呟かれます。
「何とも心許ない光だね、春の朧月夜というのは。それに比べて秋の良さって、こういう楽の音色に虫の声が縒り合わさって無上の響きが添えられるってところだよね」
夕霧さまが口を開かれました。
「秋の夜の曇りなき月の下ではすべてがくっきりと見え、琴や笛の音も明るく澄み切った心地がするものですが、そのあまりに出来過ぎな空模様や花の露など、あちこち目移りし気が散って、音楽に集中できない気も致します。春の空のぼんやりした霞の間から覗く朧な月の蔭で、静かに笛を吹き合わせるのは秋にはない趣向にございます。笛の音もしっとりと何処までも響いて紛れることがない。女は春を憐れむという古き言葉がございますが、まさにその通り。何もかもしっくりと馴染み整うのは、春の夕暮れに勝るものはございますまい」
「いや……そこまで断定はできないんじゃない?昔から誰もが判断しかねていることを、まして末世の劣った我々が決められるわけもない。確かに、楽の調べや曲目では、秋の律を春の次に置いてあるのは、まあそういうことなんだろうけどね」
ヒカル院が議論モードに入られました。
「どうだろう。現在、有職と誉れ高いあの人この人、帝の御前などでたびたび演奏するのを聴いても、これは凄い!って人は少なくなったよね。昔確かにいたはずの本物の名手から何も学ばなかったのかな、ああいう人たちは。この六条院のわずかな御婦人方の中に交じったとしても、大して変わりがあるとも思えない。もしかしたら私も長年の隠居暮らしで、少々耳の調子がおかしくなったのかもしれないけどね、残念ながら」
またまた何を仰るやら、と少し笑いが漏れたところで、なお熱い語りは続きます。
「不思議なんだけど、芸事って得てしてその名目やシチュエーションによって、全然違ったパフォーマンスになるよね。今回の女楽、内裏の管弦の遊びに呼ばれる一流の楽士と比べても、決してひけは取らないと思うんだけど、どう?」
大きく出られました。夕霧さまがすかさず反応します。
「ちょうど同じようなことを申し上げようと思っておりましたが、私のような弁えない者が訳知り顔に、と躊躇っておりました。古の音楽は聴き合わせていないのでわかりませんが、現在のところ柏木衛門督の和琴、兵部卿宮の琵琶などが、珍しく優れた例に上げられるのではないでしょうか。名手と呼んで差し支えないと存じますが、今宵聴かせていただいた楽の音には、どれもこれも驚かされました……内輪の催し事とすっかり油断していた心が騒ぎ、唱歌にて入るのもいささか緊張いたしました次第です」
ストレートなお褒めの言葉を、生真面目に仰る。
「特に、和琴は……わが舅の致仕大臣だけが臨機応変にすべての楽音を巧みに操り、心のままに掻き立てて、他の追随を許さないものと思っておりましたが、なかなかどうしてしっかりと整った音色にございました」
「いやいや、さすがにあの大臣と比べられる程のレベルじゃないでしょ。よくもそこまで買いかぶってくれたものよ」
和琴は紫上のご担当ですね。そうは仰いながらも悪い気はしないヒカル院、ニッコニコです。夕霧さま抜かりない、と言いたいところですが、和琴びいきなのは別の理由でしょう。あっ、内緒ですよ。ここ削除で!
「さすがは我が弟子たち、まずますの出来といったところだね。ただ琵琶だけは私が口を出すところはないが、そうはいってもこの六条院での演奏は一味違ったよね。初めて聴いたのが慣れない場所だったせいか、これは珍しい!と感心したものだが、その頃よりずっと上達してる、うん」
などと、まるで自分の手柄のように大威張りで仰るヒカル院。女房たちも、顔を見合わせ肘でつつき合いながらくすくす笑っています。まことに和やかな、楽しい宵にございますこと。
「どんな芸事もさ、それぞれ本格的に稽古をつけてやってみると、上を目指すのが如何に際限のないことかがわかるし、自分自身が満足するだけと思ったところで、それすら習得するのは並大抵ではない。今の世にはそこまで深いところまで極めた人は見かけないし、一部分だけでもそこそこ無難にものにできた人は、それで満足してもいいっちゃいいんだけど……琴はその辺り面倒で、手を出しにくいものなんだよなあ」
ヒカル院が、お手元の琴をつま弾かれながらなおも語られます。
「古来奏法に則って琴を極めた昔の人は、天地をも揺るがし、鬼神の心も和らげ、すべての楽の音がこれに従い、深い悲しみも喜びに変わり、卑しく貧しい者も高貴な身となり、宝を手に入れ、世に認められる……なんてことも多かったらしいね。この国に弾き伝えられる初めは、多くの年月を他国で過ごし、身を粉にして琴の真髄を習得しようと彷徨うもなかなか叶わず、奥義を得るに至る者は僅かだった。実際、優れた琴の音が空の月星を動かし、時ならぬ霜や雪を降らせ、雷雲を騒がせる……そんなことが遠い昔の世では起こったらしい」
あらまあ、本当でしょうか。そんな万能だったんですね琴って。陰陽師っぽい。
「こんな果てしのない楽器をその伝法通りに習い取る人って滅多にいないんだよね。今は末世だからか、どこかにその時代の一部なりとも残っているのかもしれないけど。何しろ鬼神の耳に留まるような演奏だよ?どんだけだよと思うよね。想像もつかない。生半可に手を出して思うようにはいかなかった、なんてことも多かったもんだから、『琴を弾く人は禍を招く』なんて迷信まで生まれちゃってさ、色々と面倒なのもあって今は中々伝える人もないんだってね。残念でならないよ」
ほーっと溜息をつかれるヒカル院。鬼神を召喚する琴の音……たしかにちょっとやってみたい気もしますね。少々、いえかなり盛った話のような気もしますが。
「琴の音がなかったら、いったいどの弦楽器を以て音律を整える基とするのかって思うよね。ホント、どんなことでも衰え出すとあっという間な、嫌な世の中だよね。独り故国を離れ志を立て、唐土、高麗と世界を彷徨い歩き、親や子とも縁が切れて偏屈な変わり者になり果てる、まではいかなくても、琴の道が何処に通じているか、片端なりとも知りたいものだよ。曲一つ完璧に仕上げるのさえ計り知れない難しさなのに、多くの曲、特に面倒な曲目を弾きこなすのは至難の業だよね。私自身どっぷり嵌っていた頃には、世のありとあらゆる、我が国に伝わってきている楽譜の限りをすべて見比べてたものだよ。しまいには師とすべき人もいなくなるまでのめり込んだけど、それでも昔の名人には遠く及ばない。まして後の世となれば、伝わるべき子孫もいないのが何とも寂しいね」
おっと、これは夕霧さまにはグサーっと来ましたね。流石に表情には出てませんけどね。
「今上帝の御子たちが大きくなって、そうだな……大人になる頃まで私が生き永らえていたら、我が拙い技でもお伝えしようか。特に二の宮には、今からその素質が見えるから」
ああ、これは明石の御方さま嬉しい一言ですね。涙ぐんでらっしゃいます。
明石女御さまは筝の琴を紫上にお渡しして、寄り臥してしまわれました。
紫上の弾いていらした和琴はヒカル院の御前に回り、よりくだけた雰囲気での演奏になりそうですね。
「葛城」が始まりました。子孫繁栄を謡うこの催馬楽、はなやかで気持ちが明るくなります。リピートの部分でヒカル院が声を添えられるのがたまりませんね……たとえようもなく慕わしく、尊いことこの上ありません。
月が高く差しあがってまいりました。
花の色香もひときわ引き立ち、心にくいばかりの景色にございます。
筝の琴は……女御さまの爪音は可憐で愛らしく、母君の奏法が加わって、揺の音が深く澄んだ響きをたたえておりました。紫上のそれは、また様変わりして、ゆったりとした癒し系といいますか、聴く人が思わず知らず引き込まれて酔いしれてしまうような力があります。複雑な装飾音を出す輪(りん)の手などの技巧にも優れ、確かな才能を感じさせる琴の音色にございます。
演奏も終盤に入り、いま一斉に呂から律へと転調しました。
掻き合わされる音が何とも斬新ではなやかなこと。
琴の琴は、五つの調べにある多数の技巧の中でも特に難関な、五絃と六絃を合わせて弾く箇所があるのですが……綺麗に弾き通されましたね。女三の宮さま、まことに素晴らしい!
春秋どの季節にも調和する調べではありますが、明らかに「春」を意識しておられますね。ヒカル院の「四季折々につけ弾き方を調整すべし」という教えに違わず、よく心得て弾いてらっしゃる。
どうですか、ヒカル院のあの得意満面といったご様子!まあ、確かに師としては喜ばしいこの演奏でしょうね。お見事でした。
笛担当の男の子たちも申し分なく、最後まで本当に一生懸命吹いていました。
ヒカル院が目を細めつつ、
「眠くもなってきたろうに。今宵の遊びはこんなに長いことじゃなくて、ササっと終わるつもりでいたんだよね。いずれ劣らぬ楽の音が素晴らし過ぎて、ついつい止まらなくなってしまった。一つ一つ聞き分けて、全部楽しみたい……!って思ってたらこんな夜中になってしまった。小さい子にはハードすぎたね、申し訳ない」
と仰って、笙の笛を吹く玉鬘の君のご子息に盃を差し出され、ご自分の衣を脱いでその肩にかけられました。横笛の、夕霧さまのご長男には紫上より織物の細長に袴などを添えて、形ばかりにさり気なく。
夕霧左大将さまには、女三の宮さま方より盃と、宮さまの御装束一領が授けられたようですね。ヒカル院がすかさずまぜかえされます。
「あれ?ご褒美ならば、まず師である私に用意するものじゃないの?あーあ、ガッカリだなあ」
一同がどっと沸く中、宮さまのいらっしゃる几帳の辺りからスッと笛が出て来ました。立派な高麗笛です。笑って受け取られたヒカル院、早速吹き鳴らされて……帰ろうとしている皆さまも思わず足を止めましたね……夕霧さまも立ち止まられて、息子さんの持っていた笛を取られ、それは見事に吹き合わせられました。思わぬアンコール演奏、まことに素晴らしい音色でしたこと!
どの方も皆、受け継がれたお手並みの程がこの上ないハイレベル。まさに華麗なる六条院の名に相応しい、今宵の「女楽」にございました。ヒカル院もさぞかしご満悦でしたでしょう。もちろん私も十二分に楽しませていただきました。
お名残り惜しゅうございますが、この辺でそろそろ実況を終わらせていただきます。深夜まで長時間のおつきあい、誠にありがとうございました。
六条院から、右近でした。それでは、おやすみなさいませ。
月が明るく澄む頃、夕霧は子供二人を一緒に車に乗せ、六条院を辞した。
道すがら余韻を愉しむ。特に、筝の琴の聞いたこともない素晴らしい響きがまだ耳に残っている。
(わが北の方……雲居雁は、亡き大宮のお祖母さまに琴を教えて貰っていたはずだけど、さほど熱心にも習わないうちに別居しちゃってそれきりだからなあ。私の前じゃ恥ずかしがって弾いてくれないし)
あれほどの才気あふれる女君ばかり揃えている父が、すこし妬ましい。
(子供の世話に追われてるから仕方ないんだけど、割と大雑把だしハイ次はこれ次はあれって感じで、およそ風流とは縁がないよねえ……焼餅焼きですぐふくれるのもまあ、可愛いっちゃ可愛いんだけど)
愛情が醒めたわけでは決してないが、自分の家庭とは余りにも違う、超絶ハイレベル・ハイクオリティな暮らしをこれでもかと見せつけられた夕霧の心は複雑であった。
参考HP「源氏物語の世界」他
<若菜下 八 につづく>
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