おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

若菜下 八

2021年4月15日  2022年6月9日 

 


女楽終了後、ヒカルは東の対へ帰った。

 紫上はその場に留まって女三の宮と語り合い、明け方に戻った。


 二人が目覚めた時にはすっかり日も高くなっていた。

「紫上、宮の琴の音はどうだった?かなり上手になったと思わない?」

「遠くからほの聴いていた初めの頃はあらあら……と思いましたけど、たいそう上達なさいましたわね。殿があれほど熱心にお教えになった甲斐がございましたね」

「そうそう!手取り足取り、懇切丁寧な指導ってやつね。とかく人にものを教えるのってメンドクサイことだし、手間暇も半端ないから出来ればやりたくない。だけど朱雀院からも帝からも、なんたってヒカル院だから琴の琴くらい教えてくれるよね!なんて聞こえてきたもんだからさ……保護者としての役割も期待されちゃってるからね……仕方ない、腹括ってやるかと」

 ヒカルはブツブツ言いながらも、

「昔、幼い貴女を引き取った時も思い存分お世話しようと思っていたんだけど、若いうちはなかなか暇もなくて、落ち着いてじっくり教え込むことは出来なかったんだよね。今に至るまで何となく日々に紛れて過してしまった。なのに、ろくすっぽ聴いてもあげなかった貴女の琴の音があれ程の出来栄えとは……実に誇らしかったよ。夕霧も熱心に聴き入って、いたく感嘆していた。予想をはるかに超えてきたね。本当に嬉しかった」

 紫上をこれでもかと褒めちぎる。

 美点は何も芸事だけではない。紫上は今や孫宮たちの義祖母として養育を一手に取り仕切っているが、こちらも何の不足もなく、稚拙なところも見当たらない。

(これ程に何もかも兼ね備えていて完璧な人が、長生きをしたためしはない)

 などと不吉な思いまでがヒカルの頭をよぎる。

 身分も容姿も性格もさまざまな女性を見て来たヒカルの目を以てしても、全く非の打ちどころがなく、実に比類なき女性というしかないのだ。

 そんな紫上も今年で三十七歳、女の厄年である。共に過ごして来た年月をしみじみ思い返すヒカル。

「必要な祈祷とか例年より手厚く準備して、今年は用心するんだよ?私は何かと慌ただしくて目の届かないこともあるから、自分でもしっかり気をつけてね。大がかりな仏事でも何でもしたらいい。あの北山の僧都がお亡くなりになられたのは残念だね。何かとお願いするにはうってつけの立派な方だったのに」

 北山の僧都は、紫上の祖母の兄である。

 幼い若紫を垣間見た遠い日を思い、ヒカルはしんみりと語り続ける。

 「私自身、幼くして人とは違った大層な生い立ちだったけど、今現在のこの威勢は過去にも例がないほど凄い。だけどその分、人一倍悲しい目にも遭ってきた。まず思う人には次々と先立たれ、残り少ないこの歳になっても悲しみが絶えることはない。不本意にもかかわるべきでないことにかかわってしまって、妙な悩みごとが頭から離れる間もなく過してきた。その代りって言っちゃなんだけど、予想よりは長く生きてこられたかなって思う。貴女の身の上には、あの……須磨に流浪した時の別離以上のことは、後にも先にもなかったよね。悩みに悩んで今にも折れそうになる、なんてことはさ。例えば后という身分の人でも、皆何かしら心配事はある。ハイレベル同士だからといって、些細なことで心を乱されたり、マウント取り合ったりってことは必ずあることだし、気の休まることはない。ましてそれ以下の人たちってなると推して知るべし。結局、親の庇護のもとで過ごすこと以上に気楽なことはないんだよ。その点、貴女は人よりラッキーな部類かもしれないね。親代わりでもあった私が夫になって」

 紫上は黙って聞いている。

「思いもかけず、あの宮がここ六条院に降嫁されて、色々しんどいこともあるだろうけど……私の貴女への愛情はむしろ増すばかりなんだよね。ご自分のことだからあまり気づかないかもしれないけど。いや、貴女くらい何事も心得ていれば、きっとわかってくれてるよね、ね?」

 ヒカルがややしつこく問いかけると、ようやく紫上は口を開く。

「仰るように、ふつつかなこの身には過ぎたことと世間には見えましょうが、心には絶えず嘆きばかりがつきまとっています。それ自体が私の祈りのテーマでしょうね」

 言いたいことを奥ゆかしく小出しに抑えながら、なおも言葉を接ぐ。

「正直申しますと、もう先行きが少ないような気がいたしますので、今年も同じように知らず顔に過すのがとても辛いのです。以前も申し上げたこと、どうかお許しいただけないでしょうか」

 出家である。

 ヒカルはとんでもない、と即座に拒否する。

「貴女と離れてしまった世に私だけが残るなんて、何の甲斐がある?ただこんな風に何となく過ごす年月、明け暮れ顔を合わせること以上に幸せなことなんてないんだよ。私がどれほど貴女のことを思っているか、どうかずっと傍で見ていてほしい」

 予想通りの返事ではあったが胸を痛め、涙ぐむ紫上。その姿がなお愛しくて、何とか紛らわせようと昔話を始めるヒカル。

「さほど数多くの女性を知ってるわけでもないけど、人柄が良くて落ち着いた人を見出すのってつくづく難しいことなんだよね。夕霧の母君とは元服してすぐに結婚して、もちろん大事にすべき妻だとはわかっていたけれども、夫婦仲はよろしくなくてね。ついに距離を縮められないまま先立たれてしまった。今思うと、もうちょっとやりようあったよね。私も若かった。とはいえ実の所、私一人の過ちとばかりはいえないよねって思ってもいる。貴婦人然として、何が足りないっていうわけじゃなかったんだけれど、あまりにも弱みをみせない。あまりに四角四面で、少々出来過ぎな人だった。離れていれば条件は揃っていて完璧なんだけれど、面と向かうのには気づまりだったね」

 紫上の立場的にはコメントに困る話題である。が、興味は惹かれる。

「誰よりも嗜み深く優雅な人としてまず思いつくのは、秋好中宮の母御息所だろうね。ただ、逢うのも大変だったし、気を遣いすぎて疲れてしまった。私の方にも確かに非があったにはあったんだけど、些細な事も忘れず長く思いつめるものだから、随分と恨まれてしまったのは大分キツかったね。常に緊張しっぱなしで、私も相手もリラックスして一日中ただイチャイチャする、なんて望むべくもない。なかなか難しい方だったから、うっかり気を抜いて適当な振舞いをしたら軽蔑されちゃうかも、と背伸びばかりしてたね。そんな無理が長く続けられるはずもなく、ついに破局したわけだ」

 ヒカルは自嘲気味にフフっとしつつ語り続ける。 

「父の早世したきょうだい、春宮妃だった方相手にあるまじき浮名を立てた挙句、身分に見合わない結末に至ってしまった。そりゃあ嘆くし悩みもするよね。本来のお人柄を考え合わせても私が全面的に悪かったと思う。本当に申し訳ない気持ちで一杯だったから、せめてもの償いにと、彼女の娘を中宮に取り立てた。これも御縁と思い成して、世間の非難や恨みつらみも気にせず精一杯お世話申し上げた。あの世からも見直していただいてるといいんだけど。今も昔も私は、チャラチャラしたほんの気まぐれで行動しちゃって、後悔することも多かったんだよね……」

と、過去の女性関係の話を少しずつ語って、

「内裏の、明石女御を後見している人はね、正直大したことはないだろうと初めは侮って気安く考えてたけど、とんでもなかった。未だ心の底が見えない、際限なく奥行きのある人だよ。上辺は人当たりが良くておっとりしてるけど、どこか打ち解けない雰囲気が内に籠ってて、そこはかとなく気が張るところがあるよね」

 ついに身近な明石の御方に言及する。紫上は、

「他の方は逢った事がないのでわかりませんが、その方とは何度となくお話する機会もございました。たしかにあまり馴れ馴れしくするような感じはなく、常に一歩距離を置いてらっしゃる。私のように誰彼構わず仲良くしようとするような女をどう見てらっしゃるのか、と思うと気が気ではないですわ。女御はその辺見て見ぬふりをしてくださるでしょうけど」

 といって微笑む。

 あれほど目障りだと心置いていた人を、今は気を許して交際しているのも、ひとえに明石女御を第一に考えているからである。ヒカルにはその真心が身に沁みて有り難い。

「何を仰る、貴女だからこそうまくいくんだよ。内心蟠りを抱えていても、相手に合わせ、状況に応じて、上手に使い分けられる。私の見る限り、貴女ほど出来た女はいないよ。時々、焼餅が過ぎるのが玉に疵だけどね」

「まあ、酷い」

 二人笑い合って、出家の話はどこかに消えてしまった。


 和やかな雰囲気の中、ヒカルはさり気なく切り出す。

「そうそう。宮にも、たいそう上手く弾き通されたとお祝いを申し上げなくてはね。彼方へ行ってくるよ」

 夕方には西の対へと渡った。

 女三の宮は、自分のせいで誰かが心を痛めているなどと想像したことはおろか、考えてみたことすらない。ただただ幼いばかりのその手で、一心に琴の練習にのめり込んでいる。

「もうその辺でおしまいにしてお休みなさい。習い事は師匠を満足させてこそ。あの大変だった日々の練習の甲斐あって、安心して聴いていられましたよ」

 ヒカルは言って、琴を押しやった。その夜はそこで泊まった。

参考HP「源氏物語の世界」他

<若菜下 九 につづく 

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