若菜下 九
こんにちは、少納言でございます。
この夜のことは、やはり私がお話せねばなりますまい。
ヒカルさまが女三の宮さまのお部屋に渡られた後、此方では女房達が物語などの読み聞かせを行っておりました。ヒカルさまがご不在の際の、いつもの過ごし方にございます。
私は紫上のすぐおそばに控えておりました。
どこか変わったところがあったかどうか?
いくら考えても、私には思い出せません。
ただ、こんなことをそっと呟いていらっしゃいました。
「こんな風に、世の習いとばかりに集めた昔語りの中にも、浮気っぽかったり女好きだったり、二心あったりする殿方がいるのね……そんな相手に関わってしまった女も、決まって頼もしい誰かに落ち着いて、めでたしめでたし、と」
「そうですね。まあお話ですからね」
「わたくしは、何だかふわふわ定まらないまま過して来た気がする。殿が仰られたように、他人よりは恵まれた運勢を持っているのかもしれないけど……世間の誰もが我慢できず逃げ出してしまうような悩みから離れられないまま、一生を終えてしまうのかと思うと、ちょっとげんなりしてしまうわ」
私は何も申し上げられませんでした。
今もって理由がわかりません。ヒカルさまはどうしてあのような話をされたのでしょう?
昔の女の話を、よりによって一番愛しておられる紫上になさるとは。
しかも、その直後に余所へお泊りとは。
紫上はその晩もいつものように、夜更けてからお休みになりました。
明け方。
胸騒ぎがしてふと目が覚めました。
声は何も聞こえませんでした。ただ嫌な感じがして、そっと紫上の寝間を覗きました。
横向きで突っ伏していらして、一瞬ああ、よく寝ていらっしゃると安心しかけたのですが、その肩が大きく上下しているのに気がつきました。
「どうなさいました?苦しいのですか?」
声をかけましたが、胸の辺りをぎゅっと押さえて荒い息をついていらっしゃいます。
「だい……じょうぶ。ちょっと……胸が痛くて……」
「お召し物を少し緩めますね」
触って気づきました。発熱されている……これはもうただ事ではないと、周りで寝ていた女房達を起こしました。
「お方さま、どうなさいました?!」「お方さま!」
女房たちが慌てて近寄って来ます。
「どなたかお水を。それと、殿にお知らせを」
「いいえ……!それは、なりません……!」
紫上は苦しみながらも、きっぱりと仰られました。
確かにまだ暗い中、私たちがバタバタと西の対までお知らせに行ったりしたら、それこそ大騒ぎになってしまうでしょう。
「正妻のところに泊まっている男主を、体調が悪いからと呼び戻した」体になってしまうのは紫上のお立場的には最も避けたいところです。
「どうしましょう……」「どのみちもう夜明けですわ、ヒカルさまもそろそろ帰ってらっしゃるのでは?」「そうね、いつもさして長居はなさらないですものね」「それよりお方さまの看病を」
ということで、お水を飲ませたりお体をさすったりと、思いつく限りのケアを続けました。
しかし、何故かこの日に限ってヒカルさまは一向に戻ってらっしゃいません。
たまたま明石女御さまから紫上宛にお手紙が参りましたのを幸いと、使者の方に「具合を悪くしている」旨お伝えしました。女御さまはすぐさま西の対にご連絡なさったようです。
「どうした、大丈夫か?!容態は?!」
足音高く戻られたヒカルさまは、慌てて紫上の枕元に座り込まれました。
「身体が熱い……どうして……厄年だから今年は気をつけてと、昨日話していたばかりだったのに」
お粥など差し上げても見向きもされず、ちょっとした果物さえも口にされません。ヒカルさまは一日中つきっきりで看病されました。
そうして寝たきりのまま、あっという間に数日が過ぎたのです。
ヒカルさまのみならず、周囲も大騒ぎです。
数えきれないほどの祈祷も始め、僧を呼び出して加持もさせました。
パッと見は何処が悪いのかもわからないのですが、一旦発作のようなものが起こりますと、それはもう見ているのも辛いほど胸を押さえて苦しまれます。
思いつく限りの養生をしてみても何の効果もございません。重い病状であっても、僅かなりとも回復の兆しが見えてくれば希望も持てますが、ただただ不安と焦燥が果てしも無く続くばかり。
他の事を考える余裕などありません。賀宴の準備も中断となり、楽の音も止みました。朱雀院さまからは、丁重なお見舞いがいくたびも六条院に遣わされました。
紫上は良くも悪くもならないまま、はや二月も過ぎてゆきます。
ご心痛のヒカルさまは、試しに場所を変えてみようとお考えになり、紫上を二条院にお移しになりました。六条院は上を下への大騒ぎで、泣いている女房も多くおりました。
冷泉院さまの知るところともなり、
「大変なことになった。もし亡くなられたりしたら……ヒカル院は必ずや出家を遂げられてしまうだろう」
と嘆いておいでとのこと。
夕霧さまも紫上のご快癒をはかるため東奔西走しておられます。
本当に皆が皆何とかならないかと、出来ることを探しておりました。御修法などは通常のものの他、ヒカルさま自ら特別にお選びになったものも加え、盛んにさせておりますが、何の効果もみられません。
紫上は少しでも意識が戻ると、
「お願い申し上げていることを……聞き入れていただけないのが辛うございますわ」
と仰るのですが、ヒカルさまは頑として出家をお許しになりません。
寿命が尽きてやむなく別れるならともかく、目前で、紫上自らのご意思で世を捨てる、つまりご自分が捨てられる形になることがどうしても耐えられないのです。
「私の方こそ昔から出家を望んでいたのに。貴女を残していくのに忍びなくて、此の世に留まってきたんだ。なのに、逆に貴女が私を捨てようと思われるなんて。ダメだ、絶対に許さない」
そのように仰るばかりでございました。
そのせいかどうかはわかりませんが、紫上はますますはかなげに弱っていくばかりで、このままもう……と思う折々も多々ございました。
どうしよう、いっそ出家を許した方がいいのか、いやでも、と狂わんばかりに思い惑われ、迷いに迷っていたヒカルさま。到底、女三の宮さまのところへお渡りになれるはずもございません。琴など楽器類も片付けられ、しまい込まれてしまいました。
私を含め、主だった女房たちはほとんど二条院に参集してしまったので、六条院はまるで火が消えたように寂れてしまったといいます。ただ女君たちとその側近ばかりが残っておられますが……まこと六条院の華と申しますのは紫上お一人であったと、そう実感しております次第です。
明石女御さまも二条院にお渡りになり、ヒカルさまと一緒に看病されることになりました。
「貴女は……普通のお体ではないのに、病の物の怪がある中にいらしてはいけないわ。早くお帰りなさいませ」
紫上は苦しい息の下、女御さまを気遣われます。若宮がたいそう可愛らしく座っていらっしゃるのをご覧になって、
「大人になられる姿を見られそうにないわね……きっと忘れてしまうでしょうね」
と泣きながら仰るので、女御さまも涙を堪えきれません。ヒカルさまは、
「いや、縁起でもないことを考えてはいけないよ。そこまで悪くはないんだから。心の持ちようで、人は如何様にでも変わるものだ。器の大きな者には、幸せもそれに応じて大きく与えられ、狭い者にはそれなりなんだ。高貴な身分であっても、大らかにゆったり構える姿勢のない性急な人は勢いが長続きしない。心穏やかでおっとりした、貴女のような人は長生きするものと相場が決まっている!」
強気でそう仰られると、仏神に対しても紫上のお心ばせが如何に素晴らしいか、罪障が軽いかを訴えられ、祈りを捧げておられました。
御修法の阿闍梨たち、夜居の僧たちなどお傍近くで勤められる者は皆、憔悴しきったヒカルさまのご様子に同情して、一心に祈っています。
すこし良くなったように思える日が五、六日ほど続いては、また重くなるということを繰り返し、予断を許さないまま月日だけが過ぎていきました。
「ああ、どうなるんだろう……回復する気がしない」
さしものヒカルさまも弱気なことを口走られるほどに、一向に光明が見えないままでした。
物の怪が出て来て何か言うわけでもありません。どこがどう悪いともはっきりとはわからないまま、ただ日に日に弱っていかれるように見えました。
ヒカルさまはますます心を痛められ、紫上の傍から片時も離れることはありません。他に何も考えることはできなくなっておられました。
参考HP「源氏物語の世界」他
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