若菜下 十
こんにちは、典の局こと源典侍にございます。
六条院はただ今、大変なことになっておりますね。まずは紫上の一日も早いご回復を、心よりお祈り申し上げます。
少納言さんのみならず、右近・侍従・王命婦トリオなど昔から馴染んだ女房たちは皆、心ここにあらずといった状況にございます。
そんなわけで今しばらくは、この婆がもうひとつのお話を語らせていただこうと思います。なお例によって、わたくしの主観・独自解釈もところどころ入っておりますので、その辺はご了承いただければ幸いです。
さて猫を手に入れた、あの柏木衛門督さまはどうしていらしたでしょうか?
この年、柏木さまは順調に昇進され、衛門督と中納言を兼任することとなりました。今上帝の信任も厚く、まさに今を時めく若手官僚にございます。が、こうして地位が高まるにつけ、叶わなかった望みはますます胸の内でささくれ立っておられましたとか。
そんな柏木さまも三十一歳。年齢的にもお立場的にもさすがに独り身のままは外聞も悪うございます。遂にご結婚の運びとなりました。お相手は女二の宮さま。朱雀院さまの娘御のお一人にして、女三の宮さまの腹違いの姉君にございます。「妻に持つなら内親王」と常々ご本人が仰っていたご希望通り、まさにうってつけのご縁談です。
ところが、
(うーん。普通の女よりは確かに優れてるけど……更衣腹なんだよね。身分的には、女御腹のあの方より少し落ちる)
柏木さまはなおご不満のようでした。もちろんあからさまに態度には出されません。他人に見咎められない程度の、最低限の夫婦仲を保っておいででした。
女三の宮さま方の女房、小侍従を覚えておいででしょうか?
はい、宮さまの乳母の娘ですね。実はこの乳母の姉が、柏木さまの乳母でございます。世間は狭いですね。
そういうわけで柏木さまと小侍従は幼い頃から懇意にしておりましたし、宮さまが如何にお美しいか、父帝(朱雀院)が如何に大事に傅いていらっしゃるかをよく耳にしてもおられました。何のことはない、早いうちから恋せよと刷り込まれたようなものです。(はて、何処かで聞いたような経緯にございますね)
主であるヒカル院がご不在の今、六条院は人も少なくひっそりとしています。よからぬことをたくらむには最高のタイミングでしょう。
柏木さまはこれ幸いと小侍従を呼び出し、例によって恋の相談です。
「私は昔から命がけの恋をしていたんだ」
その目は熱に浮かされたように潤んでいます。
「小侍従、君みたいな幼馴染がいてくれてすごく助かってる。彼方の様子を教えてくれるし、私のこの溢れんばかりの想いも伝えてくれてるんだよね?ただ……今まで彼方からは何の音沙汰もないのがすごく辛い……」
憂いを含んだ眼差しを小侍従に向けながら、ひたすら思いのたけを吐き出されます。
「朱雀院だって、
『あんなに沢山の女君たちの中、他の妻に気圧される体で独り寝をかこつ夜も多く、所在なさげに過してらっしゃいます』
なんて話を人から聞いて、少々後悔なさってるようだった。
『同じ降嫁させるなら、気安い臣下の者を後見に定めればよかったのかもしれない。宮一筋に、真面目に仕えてくれる人を。女二の宮のほうがかえって将来も安心で、行く末長く幸せに過ごすかもしれないな』
って、もうね。お気の毒やら口惜しいやらでもう、頭ん中グチャグチャだよ。確かに同じ血筋の姉妹をいただいたんだけど、それとこれとは別なんだよなあ……」
溜息をつく柏木さま。小侍従が呆れて、
「何という大それたことを。別って……ではいったい何をどうなさるおつもりですの?」
と言うと柏木さまは笑って、
「ああ、そうだった。女三の宮に身の程知らずにも求婚していたことは、院も帝もご存知だもんね。相応しからぬことなどないよと何かの折にも仰っておられたのだが、いや、もう一歩のお気持ちが足りなかったんだろうね」
「聞き捨てならないですわね。運命とか申すものもございますし、あの!ヒカル院さまが!お引き受けすると丁重に仰ったんですよ?あの方と対等に張り合って阻止できるとでもお思いだったんですか?それこそ身の程知らずでしょ。近頃はようやっと大人らしく、お召し物の色も濃くなったようですけど?」
歯に衣着せぬ小侍従の言葉に、ぐうの音も出ない柏木さまにございます。
「わかったよ、過ぎたことは言わないようにする。ただ、今って滅多にない機会だよね?是非宮の御前で、この胸の内に抱いた想いの片端なりとも申し上げたい。いや、大それた下心なんてないよ?傍で見てれば?大丈夫、恐ろしすぎて近寄ることもできないって」
「宮さまと直に対面だなんて、それ以上に大それたお心がありましょうか。なんて不埒なことを思いつかれるのかしら。私は一体何しにここに呼ばれたんですかね」
小侍従は口を尖らせます。
「まあそう言うなよ。さすがに大げさすぎない?此の世には確かなことなんて何もないんだよ。女御や后といえども、何かのはずみで過ちを犯すこともなくはない。まして、生活保障のための結婚で、大してご寵愛を受けてるわけでもない。外からは比類なき高貴な方と羨まれるお立場だけど、内実は面白くないことも多いんじゃない?あの朱雀院が、大勢のお子さまの中でも誰より大事に育てて来た宮なのに、大した身分でもないご夫人がたと立ち交じってるんだよ?下々の者が目障りな、って思わないわけない。私は全部聞いてる。世の中は無常なものなんだから、そんなに凝り固まって無下に斬り捨てるものでもないよ」
「他の方に負けているからといって、じゃあ別のもっと良い縁談をってわけにはいかないでしょう。ええ、たしかに普通のご結婚とはいえませんが、ご後見がないまま寄る辺なく暮らすよりはという親心でお譲りになられたわけですからね。そこはお互い納得ずくでございましょう?言いがかりにも程がありますわ。宮さまにも失礼すぎます」
「まあまあ、そう怒らないで。正直いって、あの世にも稀なる超絶イケメンのヒカル院を常日頃見慣れている方に、私のような量産型のフツメンふぜいがお目に留めて貰えるなんて、さらさら思ってない。ただ一言、物越しに想いを伝えたいだけなんだ……それだけなのに、どうやったら宮を貶めるようなことになるのさ。神や仏に思うことを言うのは罪なの?絶ーっ対によからぬ振舞いはしない!誓うよ」
遠慮ない物言いも、慣れ親しんだ幼馴染同士の気安さにございます。裏返すと、そこが隙とも言えます。初めはあるまじきこと!とんでもない!と頑として聞き入れなかった小侍従も、所詮は思慮の浅い若い女に過ぎません。目の前で、命に代えても!と真剣に頼まれ続けて、いつまでも断り切れるほど気強くはありませんでした。
「もし……そういう隙があれば、こっそりご案内いたしましょう。とはいえ、ヒカル院がいらっしゃらない夜は几帳の周りに女房が多く控えていて、御座のすぐ傍にはしかるべき側近が必ず付き添っています。私一人しかいないなんてことはまず、ありえません」
つまり無理!ってことですよ、と言いつつ小侍従は帰っていきました。
それからというもの、柏木さまは毎日毎日、今日はどうだ明日はどうだと催促し通しでした。小侍従もいい加減うんざりしてきた頃合いに、思いもかけない絶好の機会が巡って来たのです。手紙を受け取った柏木さまは喜んで、目立たない地味な恰好でこっそりと六条院を訪れました。
ご本人も、これがあるまじき振舞いであることは重々承知の上でした。ただ、下手に近づいたことで余計に悩みが深くなることまでは予想できていません。
(ほんの僅か、衣装の端先だけ見たあの春の夕方……何年経っても忘れられないあのお姿を、多少なりとも近くで拝見して、この想いを届けたい……一言、一行のお返事でもいい……可哀想にとでも思っていただけたら)
ただ自分の想いばかりで頭が一杯にございました。
これが四月十余日のことで、賀茂祭は目前にございます。御禊の式を明日に控えた斎院に付き添う女房十二人、特に上臈というほどでもない若い女房や童女などが各々縫物をしたり化粧したりする傍ら、個人的に物見をしようという女房達も準備に大わらわで、宮の御前周辺はすっかりお留守になっておりました。
折しも、いつもはすぐ近くに控えている按察使の君という女房もその日は不在でした。時々通って来る恋人の源中将に強引に呼び出されたのです。宮さまの御前に小侍従一人だけという滅多にないチャンス。小侍従も些か舞い上がっていたのでしょう、事もあろうに帳台の東面の端に座席を作り、柏木さまを迎え入れたのです。
いや、いくら何でも近すぎでしょうそれは。ありえません。
参考HP「源氏物語の世界」他
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