おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

若菜下 十一

2021年4月23日  2022年6月9日 



 帳台って、つまりベッドですからね?布で囲ってあるだけの。いきなり寝室に案内したってことです。しかもアポなしで、ですよ?

 夜中のことですから、女三の宮さまはもちろんお休みになっておりました。

(あら?殿がお帰りに……?)

 気配を感じて目覚めたもののまだ夢心地の宮さまです。ここに気安く入って来るような人はヒカル院だけなので、勘違いしたのも無理はありません。

 が、すぐに違和感を覚えました。妙にギクシャクと畏まって、恐る恐る宮さまを床に抱き下ろすその手、気配は未知のものです。

(殿じゃない……誰?!これは夢?!)

 宮さまが暗闇の中目を凝らすと、明らかにヒカル院とは違う、見知らぬ男。しかも訳のわからないことをくどくどと囁きかけています。

 宮さまは驚きと恐怖のあまり、

「誰か……!誰かここへ」

 叫ぼうとしますが声が出ません。

 そもそも周りに女房は誰一人控えておりませんので、相当大きな声で叫んだとしても届かないでしょう。酷い話です。これもまた普通ならあり得ません。

 宮さまは全身がくがくと震え滝のように汗を流されて、何をどうすればいいのか全く頭が回りません。当然でしょう、寝ている間にいきなり男に忍び込まれたら誰だって怖い。お気の毒です。

 しかしそのいかにもか弱い、儚げなお姿は逆に柏木さまに火をつけてしまいました。

「数ならぬ身の私ですが、そうまで怖がられるような男ではありません。昔から分不相応な恋心がございました。ひたすら内に秘めたままにしておけば時とともに朽ちたかもしれませんが、そうは出来なかった。貴女へのこの気持ちは朱雀院の知るところともなりました。もっての外だと撥ねつけられはしなかったので、一縷の望みをかけておりましたが……身分がひと刻み足りなかったがために、人より深いこの心ざしは虚しくなかったことにされてしまいました。それが何とも残念でなりません……今となっては全てが無駄だと自分に言い聞かせても、どれほど深いところまで心に沁みていたのか、年月が過ぎてもなお口惜しく、つらく、不埒な思いも悲しみもいや増すばかりでした。どうにも我慢できず、こんな身の程知らずな姿を貴女の前に晒してしまい……まことに短慮もいいところでお恥ずかしい。これ以上の罪を重ねる気は全くございません……!」

 ここまで語られてさすがの宮さまも気づきました。

(もしやあの、よく文を寄越してきた方?たしか前の太政大臣さまの御子息で、夕霧さまの従兄弟とかいう。どういうこと?いきなりこんな所にまで入り込んで……)

 全く知らない男ではないということだけはわかったものの、何の慰めにもなりません。ただただ、夫でも恋人でもない男と二人きりという状況が恐ろしくてたまらない宮さまは、返事すら出来ずに震えています。

「お声も聴かせていただけないのですね。それも当然ですが、何も世間に例のないことでもございません。あまりに情のない仕打ちが辛すぎて、かえって一途なこの気持ちが抑えられなくなりそうです。どうか、哀れとでも仰ってください。さすれば、そのお言葉を胸に抱いて引き下がりましょう」

 柏木さまは何とかしようとあれこれ言葉を尽くします。

(朱雀院が掌中の珠として慈しんで来た内親王、と聞けばそれだけで畏れ多かった。到底馴れ馴れしくなど出来そうもないと。だから……ただ自分のこの想いの片端なりともお知らせし、それ以上は止めておこう、そう思って来たが……)

 目の前の宮さまには、近寄りがたい威厳などありません。子供のようにあどけなく、なよなよとして掴みどころのないその雰囲気を、柏木さまは比類なく上品で、他の女とは違う美点だと捉えたようです。まさに恋は盲目。

 もはや理性など吹っ飛びました。

「この宮を盗み出して何処かに隠してしまいたい。私も共に世を捨てて、跡形もなく消えてしまいたい……!」

 物語の主人公よろしく、情熱に身を任せてしまった柏木さま。

 女三の宮さまのお気持ち?

 そんなもの丸無視ですね。


 柏木さまは夢を見ました。

 あの、自ら手懐けた猫が可愛らしく鳴きながら此方に寄って来ます。

(そうだ、宮にお返ししようと連れてきたんだった)

(……いや、返す?何故?)

 そこで目が覚めました。

 宮さまは眠るどころではありません。たった今我が身に起こったことが夢とも現とも思えず、胸が塞がって、ただただ混乱するばかりでした。

「こうなることは逃れられない前世からの宿縁だった、貴女と私の縁は浅いものではなかった。そう思し召しください。我ながら分別を無くしてしまいました」

 柏木さまはそう言って、猫が御簾を引き上げたあの春の夕べの件を語られました。

(あの時の……!やはり、見られてしまっていた……あれ程、殿に気をつけなさいと言われていたのに)

 宮さまの顔色が変わりました。

(その結果がこれ?前世からの宿縁って……こんなことが?こんな……ただ悲しくて辛い、こんな気持ちになることが?わたくしはいったいどうしたらいいの……殿に、もう顔向けが出来ない……!)

 宮さまは子供のように泣きじゃくり始めました。柏木さまもさすがに大それたことを仕出かした自覚はございます。その涙を拭って差し上げながら自らも泣けてきて、袖は露を含んで重くなるばかりにございました。


 そろそろ夜明けです。が、柏木さまはどうにも帰りたくない気持ちが大きくなるばかりでした。

「どうしたらいいのでしょう。こんなに憎まれてしまっては、もう一度お逢いすることは難しいのでしょうが……せめて、一言なりともお声をお聞かせください」

 手を変え品を変え口説きますが、宮さまにとってはただただ厭わしく煩わしいばかりで、ますます黙り込んでしまわれます。

「いやちょっと……おかしいでしょこういうの。普通じゃない」

 と、自分のやったことは棚上げして凹んでみせる柏木さま。

「ならば私などもう無用ですね。いっそ死んでしまいましょうか。捨てようのない想いだからこそこうして生きてきましたが……今宵限りの命となると辛いものもあります。少しでも私に心を開いてくださるのならば、それと引き換えに命を捨ててもいい……!」

 茫然とする宮さまを抱き上げて帳台を離れます。何をどうする気なのでしょうか。

 隅の間の屏風を目隠しに引き広げて妻戸を押し開けると、渡殿の南の戸が昨夜忍び込んだ時のまま開いています。まだ薄暗いのですが、ひと目お顔をみたいという気持ちからなのでしょう、格子をそっと引き上げつつ、

「こんなに冷たい仕打ちをされて、正気も失ってしまいました。すこしでも宥めたいお気持ちがあるなら、一言……哀れとでも仰ってください」

 脅すようなことを仰います。さしもの宮さまもこれには無礼と感じられたか、何か仰りたい風でしたが、戦慄くばかりで言葉が出ません。どこまでも子供っぽいお方でいらっしゃるのです。

 そうこうしているうちにも時は過ぎていきます。柏木さまは心急かれたか、

「由ある夢の話も申し上げたかったのですが、こんなに憎まれては。そのうちこの宿縁の深さに、思い当たるようなこともございましょう」

 慌ただしい中、秋の空よりも心尽くしの風情で歌を詠まれました。

「起きて帰って行く先もわからない明け暗れに

袖を濡らす露はどこから来るのだろうか」

 宮さまの袖を引いて胸の内を訴えられます。

(帰るのね。よかった)

 宮さまも即座に返されました。

「明け暗れの空にこの身が消えていかないかしら

ぜんぶ夢だったと済まされるように」 

 そのか細い、若く可愛らしい声をしまいまで聞かぬうちに、柏木さまは後ろ髪を引かれるように出て行かれました。

(魂が身を離れて宮のもとに留まっているような……)

 あくまでもすれ違うお二人の心にございました。


 六条院を出た柏木さまは、妻の女二の宮さまのもとではなく、実家の邸にこっそり帰られました。横たわったものの眠れるわけもございません。夢か現かも定かではない儚い逢瀬……夢の中で見た、手に入れた時のままの猫の姿が恋しく思い出されます。

(それにしてもとんでもない過ちを犯してしまった。もう顔を上げて歩けない……)

 今更ながらに恐ろしく身もすくむ思いで、外に出る気にもなれません。宮さまのためにはもちろんのこと、自分自身にとってもあるまじきことを仕出かしてしまった……その罪の意識にさいなまれ、気ままにそぞろ歩くことなど到底できなくなりました。

(帝の妻を寝取り露見したとしても、本気で愛した相手なら、命を捨てることはむしろ本望だろう。しかし大した罪にはならなくても、あのヒカル院に睨まれたら、と思うとメチャクチャ怖いし辛い……)

 

 高貴な女性と言っても色々でございます。表向きは嗜み深く童女のように純真無垢ですといった顔をしていても、その実すっかり世間ずれした裏の顔を持ち、誰彼となく靡いて情を交わす向きもいないではありません。が、女三の宮さまは違います。

 男女がどうとか恋がどうとか、そんなことは一切何も考えておられない。ただただ、むやみに怖がられるばかり。今にも誰かに見られたか聞かれたかのように、顔も上げられず、恥ずかしく思っておいでなので、明るい場所に出ることすらできなくなってしまわれました。背負ってしまった運命は、この宮さまにはとても対応できる重さではありません。

 女三の宮さまの様子がおかしい、という報が二条院にもたらされました。紫上のご病気で頭が一杯だったヒカル院は驚いて、すぐさま六条院に戻られます。

 しかし逢ってみても、身体の具合は特に悪そうでもありません。ただ酷くおどおどして、目を合わせようともなさらない宮さまのご様子に、

(長いこと放置してたから拗ねておいでなのかな?無理もない)

 と誤解したヒカル院、切々と紫上のご容態を説明します。

「もう最期かもしれないんだ。こんな時だから薄情だと思われないようにと付き添っているんだよ。幼い頃から育ててきたから放ってはおけなくてね。何か月も、何もかも捨てて看病してきた。また時期が来れば貴女にもよく思い直していただけるでしょう」

 何も知らない院の言葉が宮さまには後ろめたく心苦しいばかりで、人知れず涙を零されるのでした。


 柏木さまの方は、宮さま以上に辛い気持ちでおられました。寝ても覚めても、一日中苦しくて仕方がありません。折しも賀茂祭で、先を争って物見に向かう公達がしきりに誘いに来ますが、体調が悪いとすべて断り、臥せったままぼんやりしておられます。

 女二の宮さまを丁重に扱ってはおられるものの、さっぱり打ち解けるさまも見えず、自室に離れて籠りきり。女童が手に持った葵の葉をご覧になって、

「口惜しいことに罪(摘み)を犯してしまった葵草よ

 神の許したかざしでもないのに」

 などと詠まれます。なまじ逢わない方がマシでしたねこれでは。

 祭りに浮かれて行きかう物見車の音も他人事のように聞き、自ら招いたこととはいえどうにもならない苦しみに悩み続ける柏木さまにございました。

 女二の宮さまも我が夫の冷たさにはとうに気づいておられました。事情は何もご存知ないにせよ、さぞかし傷つかれたことでしょう。本当に罪深い恋ですこと。

 女房達もこぞって物見に出かけたので、邸内は人少なく静まり返っています。徒然の手慰みにと、筝の琴を弾くともなしに弾くそのお姿、優しい音色は、さすが内親王といった優雅さにございます。ですが柏木さまは……

「同じ皇女でも、もう一刻み上なら……思うようにならぬ運命だ。

 劣った落ち葉のような方をなぜ拾い上げたのか

 同じ院の姉妹ではあるけれども」

 などと、密かにとはいえ失礼千万な歌を詠む始末にございました。

参考HP「源氏物語の世界」他

<若菜下 十二 につづく

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