若菜下 十二
少納言でございます。
割り込んでしまってすみません、どうしても語らねばならないことがございます。
ちょうど、ヒカルさまが六条院に戻られて間もなくのことでした。
「お方さま?お方さまあっ!」
「少納言さん、来てください!お方さまが!」
息をしておられません。
その言葉を聞いてから後のことは、正直申しましてよく覚えておりません。ただ、ヒカルさまをすぐお呼びするべく手配したのは確か、私だったと思います。
「紫上が息を引き取られた」
という話は瞬く間に辺りに広がりました。
二条院にほど近い大通りでも、既に大勢が泣き騒いでいたといいます。六条院からの短い道中にその光景を目にしたヒカルさまは、中に入った時点で我を忘れておられました。何しろ、院内はさらなる悲嘆の声で溢れていたからです。それはもう禍々しいほどに。
「この数日は少しお加減がよろしいようでしたのに」「急に……本当に急に息が止まられて」「私も、お後を……」「私も」
女房達全員がパニック状態です。胸に突き刺さるような嗚咽の声の中、既に修法の壇も解体され、お坊様たちも主だった者だけ残り後は帰り支度とばかりにバタバタしておりました。
「……嘘だ……これで、これでもう最期なんて……!」
その時のヒカルさまの表情、今も……いえ、一生忘れられないでしょう。鋭利な刃物で切りつけられたような、取り乱した心が一気に醒まされるような、そんなお顔でした。
「待て!鎮まれ!」
ヒカルさまの一喝が響き渡りました。
「物の怪が誑かしていることだってあり得る!決めつけて騒ぐな!」
即座にいくつかの大願を立て、選りすぐりの修験者たちをありったけ召集されます。
「限りある寿命がこの世で尽きようとも、ただ、今しばらく延ばしたまえ。不動尊の経本にも猶予ありとの由。せめてその日数だけでも命を繋ぎ留めてくださいますよう、何卒」
頭から黒煙が出るといわれるまさにその通りの、壮絶な加持祈祷が始まりました。
ヒカルさまの悲痛な有様はもう、見ていられないくらいでした。
「もう一度、もう一度だけ目を開けて、私を見てくれ……こんなにあっけなく、しかも今わの際に傍にいられなかったなんて……悔やむに悔やみきれない……」
もしこのまま紫上が逝ってしまわれれば、ヒカルさまはきっと生きていられない。誰もがそう思いました。
その強い想いを仏もご覧になったか、この数か月間まったく現れることのなかった物の怪が、小さな女童に憑依し大声で喚き始めました。
すると、何としたことか……!
「誰か、お方さまが!」「息を、息をしてらっしゃる!」
微かではありますが、紫上の胸が上下しています。お顔に血の気も戻ってきました。
みな嬉しいやら恐ろしいやら、大騒ぎになりました。
物の怪は強く調伏されて息も絶え絶えになりながら、
「他の人は皆去れ。ヒカル院お一人にお聞かせしたい」
と言いました。ヒカルさまは人払いをさせ、お一人でその物の怪に対されます。
私は、いつものように声が聞こえるギリギリの所に身を置き、紫上から目を離さず耳だけこっそりと傾けました。
女童は、別人のような……まるで大人の女のような声でゆっくりと語り出しました。
「わたくしを調伏し続けたこの数か月……何と薄情な、苦しい目に遭わせること、同じことなら貴方にも思い知らせてやろうと思っておりましたが……さすがに、貴方ご自身のお命が危うくなるまで骨身を砕いて嘆き悲しまれるのを拝見しては……わたくしも、今でこそこのようなあさましい身ですが、昔の恋心も残っておりますからこそ、此方に伺ったのですから……貴方の苦しみを見過しにはできず、こうして表に出てまいりました。決して知られないようにと思っておりましたのに」
髪を振り乱して泣くその姿は……ヒカルさまには心あたりがあったのでしょう、忌まわしい気配を纏うこの女童の手を取って座らせて、丁重に扱われました。
「本当に、あの方なのか?よからぬ狐のようなものが誑かして、亡き人の不名誉になるようなことを言い出すこともある。はっきり名のられよ。でなければ、他人は知らないが私にならわかるようなことを言ってみるがいい。さすれば多少は信じてやらないこともない」
ヒカルさまの言葉に、女童はぽろぽろと涙を零して
「我が身はこんな変わり果てたさまになってしまったのに
知らない振りをする貴方は昔のままの冷たさですね
辛い……とても辛うございます」
泣き叫びますが、どうしたものでしょうか……どことなく品の良さを感じます。我が身を恥じているような。ヒカルさまは青い顔でその姿をご覧になっています。
「中宮のことも……まことに嬉しく有り難いことだと、天翔けりつつ見ておりましたが、彼の世のものとなりましたせいか、子の身の上まではさほど深くも気にならず……やはり、自分自身が辛い思いをした愛執だけが残っております。その中でも……生前に、他の方より低い扱いをなさって捨てられたことよりも、ご夫婦同士の世間話ついでに、わたくしのことを……思い込みの強い、扱いにくい女だと仰いましたわね……それが何より恨めしくて。今はもう此の世に亡い者なのですから大目にみていただいて、他人が悪口を言ったなら、貴方ばかりはとりなしてくださってもいいではありませんか。そんなことを思ってしまったばかりに、こんな酷い有様になったのです」
女童が此方を振り返りました。寝ている紫上を指差し、なおも語り続けます。
「この方を、心底憎いと思っているわけではございません。ただ貴方は神仏の加護が強く、遠く離れているような心地がして、とても近づけない。声だけはほのかに聞こえますが……どうか、この私の罪を軽くするような供養を……大きな修法や読経の声は、私には苦しいばかり……炎となって纏わりついて、仏の尊きお声が聞こえません……とても悲しゅうございます」
さめざめと泣きながら、
「中宮にも、この由をお伝えくださいませ。宮仕えの間、ゆめゆめ他人と争ったり嫉んだりはなさいますな、斎宮でいらした頃の罪障を軽くするような、功徳となる勤行を必ずなさいませ、と。長く仏道から離れてしまったのはまことに残念なことでした……」
とめどもなく話は続きます。
ヒカルさまはさすがに気味が悪くなられたか、
「あまりに長く物の怪と話し合うのもよろしくない……頃合いだな」
と呟かれて、そっと調伏の再開を命じられました。
紫上は密かに、離れた場所へとお移しいたしました。
まだまだ予断を許さない状態ではあります。今からも女房一同、全身全霊を込めて看病いたす所存にございます。
では、典局さまにお返しいたします。少納言でした。
参考HP「源氏物語の世界」他
にほんブログ村
コメント
コメントを投稿