若菜下 十三
少納言さん、大変な中ご報告ありがとうございました。
紫上の奇跡のご生還……まことに喜ばしく、胸を撫で下ろしています。本復を心よりお祈り申し上げます。少納言さんもくれぐれもご無理なさらず、御身を大切にお過ごしくださいませ。
紫上が身罷られたという噂は既に世に満ち、早や弔問に向かう人まで出る始末。全く縁起でもありません。
折しも本日は賀茂祭の帰りの行列でしたので、物見に出た上達部がたのお耳にも入りました。
「なんと、大変なことになったな。今を盛りと華やいでおられた方が光を失ったものだから、雨もそぼ降るのかもしれない」
などとポエミーな感想を述べる人、
「あれほど何もかも満ち足りている方は得てして長生きしないものだよ。『何を桜に』の古歌のようにね。こういう方がずっと世に永らえて楽しみを尽くせば、傍の人はたまったもんじゃない。
※まてといふにちらてしとまる物ならはなにを桜に思まさまし(古今集春下、七〇、読人しらず)
ま、これで二品の宮さまは、本来のご寵愛を得られるんじゃない?お気の毒にも、圧倒され通しだったからね」
そんなことを囁き合う手合いまで。赤の他人にとってはそんなものでございます。
さて昨日一日懊悩のうちに過した柏木さまも今日は、弟の左大弁さま・藤宰相さまと車に乗って祭り見物に出かけておられました。もっとも車内のお席は一番奥でしたけれども。
耳を澄まさずとも流れて来たこの噂に、
「何とおいたわしいことだ。しかし、どうしてこんな嫌な世の中で長生き出来ようか、いやできない」
と独りごちる柏木さま。
事実確認も兼ねて、そのまま車を二条院へと向けました。もっとも単なる噂レベルの話では滅多なことも言えないので普通のお見舞い名目でしたが、一歩足を踏み入れるや、邸内は女房達の泣き騒ぐ声で満ち満ちています。
「まさか……本当に?」
驚く兄弟の前を、紫上の父君・式部卿宮が沈痛な面持ちで中に入っていかれました。お三方以外にも訪れる人は引きも切りませんが、碌に取り次ぐ者もおりません。酷く混乱しているようでした。
そこにようやく、夕霧さまが涙を拭いながら出ていらっしゃいました。
柏木さまは従兄弟同士の気安さで声をかけます。
「夕霧、いったいどうなってるんだ?皆が不吉なことを言いまわっているものだから、とても信じられなくて来てみたんだが……君の義母君が長いこと患われているとの由、まずはお見舞い申し上げる」
「ありがとう……よく来てくれた。何日も重態が続いててね。今日の夜明け前に物の怪の仕業で息絶えられたが、少しずつ息が戻られたと聞いた。みな一安心しているところだけど、まだかなり弱っておられるから……気が気じゃないよ」
夕霧さまの泣き腫らした顔を柏木さまはじっと見つめてらっしゃいます。自分自身後ろめたいことがあるせいか、
(さして親しくもない継母のことをそこまで……?)
何某かを察したようです。
余りに多くの方々がお見舞いに現れましたことで、ヒカル院から直々にお言葉がありました。
「重病人が急変したように見えたため、女房達が動転して取り乱してしまい、お騒がせいたしました。私自身もまだ動揺が強く、平静ではありません……後日改めて、お見舞いへのお礼をいたします」
柏木さまの目が泳いでいます。こういったのっぴきならない事情でもない限りとてもヒカルさまの元には参上できず、顔もまともに見られないようです。秘密の重さからしたら夕霧さまのほのかな思いなど比ではない、とんでもない罪を抱えた柏木さま。
果たしてこれからどうなさるおつもりなのか、目が離せませんね。
さて次は蘇生された紫上の話題となりますが、少納言さんは暫く手が放せそうにありませんので、引き続きこの婆が語らせていただきます。よろしくどうぞ。
絶望のどん底から引き上げられた後だからこそ、また同じことになるのではないか……という不安と恐怖がいや増すものでございます。ヒカルさまは再び、ありったけの修法を尽くす加持を命じました。
(それにしても、あの女童の声、表情……おそろしいほどあの方に似ていた)
かつて葵上に憑りついた物の怪。
(ご存命の頃でもぞっとしたのに……今はこの世のものではない、異形のものになり果てたのだと思うとますます怖気が走る。秋好中宮のお世話をするのさえ避けたくなるほど……いや、そりゃちゃんとするけどさ……結局、女の身というものは皆等しく罪業の深いものなんだなあ。もう恋だの愛だのなんか関わりたくない気持ちになるよね……誰も聞いているはずもない、紫上と二人きりの時にひそひそ話してたようなことをまんま語ってたから、多分あの方で間違いないんだろう……ああ、嫌だ嫌だ)
ほほう……ご自分のおやりになったことは棚上げにしてからの女性下げですか。世が世ならばSNSで総叩き&炎上案件ですわね。
それはさておくとして、紫上です。
髪を下ろしたいという切なる願い、ここに至りヒカルさまとて無下に拒絶もできなくなりました。頭頂部の髪に形ばかり鋏を入れ、五戒のみ受けさせるという妥協案を呑まれました。
戒師が仏前にて戒めを厳守する誓いを述べられる間、ヒカルさまは人目も構わず紫上にぴったり寄り添い、涙を押し拭いつつ共に念誦していらっしゃいました。これほど何もかもが揃った立派な方でも、最愛の妻の危機にはとても普段通りではいられないということですね。
いったい何をすれば紫上の病が治り、現世に留めおくことができるのか、と朝から晩まで思いつめ嘆かれるヒカルさまはすっかり憔悴されて、お顔も少しお痩せになったようでした。
五月に入ると、ただでさえ芳しくない空模様にございます。紫上の病状はすっきり回復というまでには程遠いものの、一度息絶えられた時から比べればすこし良くなったように見えました。が、まだまだお体はお辛いようです。
あの物の怪の罪障を救うため、毎日法華経を一部ずつ供養し、他にも何くれとなく有り難い法事をさせました。病床のすぐ傍で、声の良い僧に不断の読経も行わせます。物の怪は時折現れては悲し気に何か申しますが、完全に消え去ってはくれません。
本格的に暑くなってくると息も絶え絶えに、弱っていかれた紫上でしたが、薄れがちな意識の下にもヒカルさまのご心痛を心苦しく思われたか、
「この世を去ったとしても私自身はもう心残りはありませんが、貴方がどんなに嘆き悲しまれるかと思うと、亡骸をお見せするのも申し訳ない気がしますわね……」
と気力を奮い起こされ、薬湯なども少しは取られるようになりました。その甲斐あって、六月には時々頭も上がるほど回復されました。
ヒカルさまもおお、やっとここまで!とお喜びでしたが、以前紫上から離れていた間に急変したことが大きなトラウマになっていて、六条院に渡ることはほんの僅かな間でさえまだお出来にならないのでした。
参考HP「源氏物語の世界」他
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