若菜下 一
ColBase:牙彫猫置物 |
柏木衛門督は小侍従からの冷たい返事を当然のこととは思いつつも、
(いや、でも随分と酷い言い方だよね。何でこの私がこんな通り一遍にあしらわれて満足してなきゃいけないんだ。こんな『人伝てならで』、一言でも直に言葉を交わせる機会がないものか)
※いかにしてかく思ふてふことをだに人伝てならで君に語らむ(後撰集恋五-九六一 藤原敦忠)
よこしまな考えばかりが浮かんでくる。普段はヒカルを、かけがえのない素晴らしい人と崇拝しているにも関わらず。
その月、弥生三月の末日には、また大勢の人が六条院に集まった。柏木はとてもそんな気になれず煩わしかったが、「恋しい人のいる辺りの花の色でも慰みに見よう」と参上した。
内裏で二月に予定されていた賭弓は催されず、三月は帝の亡き母・藤壺女院の忌月のため何もない。皆が残念に思っていたところ、六条院にて弓の遊びがあると伝え聞き、いつものように集まった。左右の大将が身内枠で列席したことで、近衛府もまた左右ともに中将クラス以下詰めかけた。小弓といいつつ、大弓の名人も中にはいたので、呼び出して射させる。
殿上人たちも弓の心得のある者は皆出て、前方と後方で交互に組み分けをし競う。日が暮れゆくにつれ、春霞も今日で最後とばかり、夕風が慌ただしく吹き散らす。「花の蔭」から立ち去りがたく、人々はつい酔いを過す。
※今日のみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花の蔭かは(古今集春下、一三四、躬恒)
「この洒落た懸賞品の数々、選んだ人の心がわかるだろう?柳の葉を百発百中で当てるような舎人達が我が物顔で射とめるばかりでは面白くない。素人っぽい手つきの者同士でこそ競わせよう!」
とヒカルが言って、大将以下が庭に下りた。
柏木は誰よりも沈んでいる様子である。僅かなりとも事情を知る夕霧の目には明らかで、
「やっぱりいつもと違うよね。ややこしいことにならないといいけど」
と、自分までが悩みを抱えたような心地になった。
この二人、とても仲が良い。従兄弟の中でも特に気が合って親密にしているので、些細なことでも悩んだり困ったりしているのを見るのは嫌なのだ。
柏木自身はヒカルの顔を見ると無性に恐ろしく眩くて、
(いけない、こんな気持ちでいては。どんな小さなことでも、人に非難されるような怪しからぬ振舞いはするまいと思っていたのに。まして身の程を弁えぬ畏れ多いことを)
諦めなければと自分に言い聞かせながらも、
(せめてあの時の子猫を手に入れたい。心の内を語り合うことはできなくても、独り寝の寂しさを紛らわす慰めに手懐けたい)
などと常軌を逸した思いに囚われている。だが、子猫一匹ですら盗み出すのは難しいことだ。
柏木は気分転換しようと、妹の弘徽殿女御のところに参上した。
こちらは非常に慎み深く品格ある対応で、対面して話していても直に顔を見せることはない。たとえきょうだいであっても男女はこうして隔てられるものである。
(アクシデントとはいえ、ああいう風に顔を見てしまうというのは余程レアな経験だったんだな)
さすがの柏木も女御との違いは理解したが、恋の熱に浮かされた状態では、
(相手が軽率だったのではないか)
というところまでには思いが至らない。
次いで春宮のところにも参上し、
(女三の宮とはごきょうだいだ。きっと似通うところがあるにちがいない)
とじっくりその顔を見てみると、ぱっと目を引く華やかさこそないが、そこは次期帝たる貴人である。格別な気品と優雅さを身に纏っていた。
この宮にも猫が多い。内裏で飼われている猫の子をもらい受けてきたという。チョコチョコと歩き回る姿に例の猫を重ね合わせた柏木は、
「六条院の姫宮の御方にも猫がいらっしゃいました。あまり見ない感じで珍しく、可愛らしゅうございました。ほんのちょっと拝見しただけですが」
と吹き込んだ。猫好きの春宮としては見過せない。
「なんと。それはどんな?」
案の定食いついてきた。
「唐猫で、此方にいる猫とは違うような……同じ猫でも、性質がよく人に馴れていると不思議にかわいく思えるものですね」
わざと気を引くようなことを言う。
思惑通り、春宮は桐壺女御伝いにその猫を所望し、此方に連れて来た。
「まあ、本当にキレイな猫ですこと」
と女房達も可愛がる。
殿上童の頃より朱雀院に重用されていた柏木である。院が隠棲してからはその息子である春宮にも親しく仕え信頼を得ていた。数日後、琴など教えるついでにまた参上し、
「猫がまたたくさん集まっていますね。はて、私の見た人はどこに?」
と言いつつあの猫を見つけ出した。しみじみ可愛く思えて撫でていると、春宮が声をかけた。
「衛門督が言っていた通り美しい猫だね。ただ、まだ懐かないようなのは人見知りしているのかな。ここにいる猫たちも負けず劣らず良い猫だと思うけど」
「猫というものは普通そういった人見知りはしないものですが、そんな知恵もある賢い猫も中にはいるのかもしれません。此方にはもっと優れた猫がたくさんいるようですので、この猫は私が暫くお預かりいたしましょう」
我ながら何と意味不明の言い草かと思いながらも、申し出は受理された。首尾よく猫を手に入れた柏木は、夜も傍近くに置いて寝る。
夜が明ければまず猫の世話をして、始終抱いて撫でさする。初めはそっけなかった猫も柏木にはよく馴れて、ともすれば衣の裾にまとわりつき、寄り添って甘えかかるのを、心底愛しいと思う。端近に寝転んでただぼんやりと物思いにふけっていると、寄って来て「ねう、ねう」と可愛い声で鳴く。たまらずかき撫でて、
「寝よう、寝ようと鳴くとは随分と積極的だな」
と呟いて微笑む。
「恋詫びる人のよすがと手懐けていると
どういうつもりでそんな鳴声をたてるのか
これも前世からの宿縁というものだろうか」
猫の顔を見ながら詠むと、ますます愛らしく鳴くので、懐に入れてまた物思いに耽る。女房達は、
「これはどうした風の吹き回し?急に猫に夢中になられるなんて。今までああしたペットなどには関心のない方だったのに」
と訝しんでいる。春宮から戻すようにと言われても返さず独り占めして、猫相手に秘密の恋を語る柏木であった。
鬚黒左大将にしても、次世代国家の重鎮となるべき有力者である。
真木柱の姫君は、自身の母君が未だに病的で普通でなく、廃人同様の暮らしをしていることが辛すぎて、継母のいる元の邸を羨み、憧れていた。ごく普通の今時の女子なのであった。
ヒカルの仲の良いきょうだいである兵部卿宮もまた独り身であった。心にかけて望んだ人は誰も彼もどうにもうまくいかず、面白くない上に世間体もよろしくない。
「いい加減に何とかしないと。このまま負け戦ばかりに甘んじて過してなるものか」
と思い、ダメ元で式部卿宮に打診してみたところ、
「そもそも大事にしたい娘なら、まず宮仕え、次は親王がたにこそ娶わせたいもの。臣下の、真面目で無難な人だけを有り難がる今の風潮は品のない態度だ」
どうぞどうぞと言う体で、殆ど悩むこともなくあっさりと承諾した。
兵部卿宮は、口説くまでもなく決まったことに物足りない気もしたが、相手も相手なので今更やめますとも言えず、婿として通い始めた。式部卿宮はもちろんたいそう丁重にもてなした。
「娘が多いと何かにつけ嘆かわしいことも多いから、結婚などもう懲り懲りだと思ってもいたけれど、やはりお若い姫君のことは放っておけない。母君はあの通りの物狂いで、年々悪くなっていくばかり。父親の左大将は自分に従わないからといって、無下に見捨てた。実に不憫な子だからね」
と、宮自ら部屋の設えから案内まですべて取り仕切った。
兵部卿宮は亡くした北の方をずっと忘れられないでいた。
(妻に似た感じの人と再婚したいと思い続けてきたが……この姫は、うーん。悪くはないけど、違うんだよね……残念)
通い出して間もないのに、あからさまなガッカリ感を醸し出している。
「なんと心無い仕打ちか」
式部卿宮は嘆き、病みつかれた母君も、
「口惜しい、嫌な世の中ですこと」
とますます厭世感を強くする。
父の鬚黒左大将も、
「ああやっぱり。色好みの親王だから心配だったのに……初めから反対だったんだ私は」
と苦々しく見ている。
かつて兵部卿宮に求婚されていた玉鬘もこの話を聞いて、
(もしわたくしがあの方と結婚して、同じような目に遭ったとしたら、六条院や太政大臣家の皆さまはどうお思いになられただろうか)
と、なんとなく可笑しいような、気の毒なようなほろ苦い気持ちになった。
(あの時も、宮さまとの結婚など思いもよらなかった。ただ、いかにも優しい、情愛深いお言葉を下さっていたのに、余りにあっけなく結婚してしまって……さぞ軽率な女と軽蔑されただろうと恥ずかしくて堪らなかった。今でも、あの時の気持ちは忘れない)
(こうなった以上、今後は彼方でわたくしの話がお耳に入ることもあるでしょう。よくよく気をつけなければ)
玉鬘は継母として、真木柱の君のために出来るだけの支度をした。冷たい夫婦仲は知らぬ振りで、兄弟の公達を差し向けて親族としての好意を示した。兵部卿宮としても、さすがに若い新妻を哀れと思いこそすれ、離縁する気持ちまではない。
が、例の式部卿宮の妻・大北の方は黙っていない。
「親王がたというものは浮気心なくお一人だけに落ち着いておられることが、華やかさのないお暮しの慰めになろうというものでしょう。なのにこれはどうしたこと?」
兵部卿宮の耳にもその怨嗟の声は漏れ聞こえてくる。
「なんと、そこまで言うか。昔も、一番愛している人を差し置いて些細な浮気ごとは絶えなかったが、ここまで酷い恨み言は聞いたことがない。不愉快だ」
宮は余計に昔が恋しくなり、自宅に籠って物思いに耽る日が増えた。
とはいえ、そのまま月日を過せばお互いに目馴れて、二年後には普通の夫婦仲に落ち着いたのだった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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