若菜上 十七
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白峯神宮HPより:蹴鞠 |
柏木衛門督。ヒカルの親友・太政大臣の長子にして前途有望な若手である。
朱雀院には、帝の地位にあった頃から常に伺候して馴れ親しんでいた。どれほど女三の宮を大事にしていたかもよく知っている。だからこそ、誰よりも早くから妻にしたいと申し出ていたのだ。
なのに、結果はまさかのヒカル院への降嫁。
(親子ほども年上じゃないか)
諦めきれない柏木は、女三の宮付きの女房・小侍従に接触を図った。小侍従は宮の乳母子で、幼いころから傍近くに仕えている。
「なんてことだ……ヒカル院のご寵愛は未だ紫上にあって、女三の宮はないがしろにされていると?正妻扱いなのに?お気の毒に。私なら、宮にそんな辛い思いはさせなかった。身分さえ相応しかったら……ああもう。だがこの世は無常だ、もしヒカル院が出家を遂げられるようなことがあれば、ワンチャンある……前々から準備してるみたいだし、きっと遠い話ではないはず……!」
そんなことを小侍従相手にくどくどと愚痴り、日々思い悩み続けていた。
弥生三月。
うららかに晴れた日、六条院に兵部卿宮、柏木衛門督が参上した。
「いらっしゃい。もう静かな生活も飽きちゃってね。退屈で、何も気の紛れることがないんだよね、公私ともに平穏無事なのは有り難いけど。さて今日一日何をして過ごそうか」
ヒカルはのんびりそう言うと、
「今朝、夕霧が来てたと思うんだけどどこ行った?暇すぎて手持ち無沙汰だから、いつもの小弓の射的バトル見物とかすればよかったなあ。いかにもそういうのやりそうな若手もいたっぽいのに惜しい事をした。もう皆帰っちゃった?」
何処へ行ったのか家来に調べさせた。
「夕霧右大将の君は、丑寅の町(北東・夏の町)で蹴鞠をご覧になっているようです」
「蹴鞠か。またそりゃ野蛮だな。ただ派手で爽快な遊びではある。此方でもやってくれるよう頼んでくれ」
と手紙を遣わしたので、程なくドヤドヤとやってきた。若い公達も大勢いる。
「鞠は持ってきたか?あと誰と誰がいる?」
ヒカルの問いに夕霧が誰それと応えるうち、
「ああもう全員こっちに連れてきて!」
ということになった。
今ヒカルのいる寝殿の西面には女三宮の部屋がある。東面には桐壺女御の部屋があるが、母子ともに参内しているため今は無人である。この東面の辺りに集まった若者たちは遣水などを避け、蹴鞠に適した広い場所を探す。太政大臣家の公達は元服済の頭弁から、兵衛佐、大夫の君というやっと童から抜け出した者まで年齢はさまざまだったが、他に比べて容姿も身のこなしも段違いに優れていた。
風もなく蹴鞠には絶好の日和である。暮れかかる頃いよいよ熱く繰り広げられる戦いに、我慢できなくなった太政大臣の次男・弁の君が飛び入った。それを見たヒカルはさらに煽り立てる。
「おお、弁官までが!上達部とはいえこれは入りたくなるよね。衛府司の若手はどうした?私が若い頃は、ただ大人しく観てるだけって悔しくってもどかしくって居ても立ってもいられなかったものだけどね。この手の遊びって、ほんとその人となりが見えて面白い、うん」
この一言で夕霧も柏木も皆、庭に下り立った。
得もいわれぬ桜花の蔭、躍動する若者たちの姿が夕陽に映える。決して格好のいいものでもない、騒々しく落ち着きのない遊びだが、そこは場所や人が変われば観方も変わる。
趣ある庭の木立ちがすっかり霞に包まれて、今まさに蕾を開こうとするとりどりの花の色、わずかに吹いた芽の萌黄が滲む。その下に歓声が響き渡る。ただ鞠を蹴り上げるだけとはいえ、上手い下手の区別は確かにあり、我こそはと競い合う中にも、付き合いで参加しただけの柏木に勝る者はいなかった。容貌の美しさもさることながら、物腰は優雅でそつがなく、それでいて俊敏で的確な動きをみせる。
階の柱間に面した桜の木陰に寄り集まった人々が、花を愛でることも忘れて熱中するさまを、ヒカルや兵部卿宮など年配者は隅の高欄に出て見物する。
稽古を積んだ技の数々も見え、回が進むにつれ身分も何もない無礼講となり、額にぴっちり載せた冠も緩む。
夕霧も右大将という地位を考えると、いつにない羽目の外し方ではあったが、その姿は誰より若く美しかった。柔らかくこなれた桜の直衣、蹴りやすいよう心持ち引き上げた指貫の裾が少し膨らんでいる。だらしなく見えないギリギリの線を守って絶妙に着崩したその姿に、花びらが雪のように降りかかる。つと見上げると撓んだ枝を折り取って、階の中段辺りに座った。柏木もそのあとを追う。
「風で花がずいぶん散ってるね。桜は『よきて』吹けばいいのに」
※春風は花のあたりをよきて吹け心づからや移ろうと見む(古今集春下、八五、藤原好風)
口ではそう言いながらも、目は女三の宮の方を窺っている。例の如くこの催しに浮足立った女房達の、色とりどりの袖口は御簾から零れ出んばかり、透いて見える影は春に供える幣袋を思わせる華やかさである。
几帳類はみな片寄せしてありまるで緊張感がない。女房たちの気配があまりにも近く、声をかければ返事もしそうな、緩みきった雰囲気である。
突然、小さな唐猫が御簾の端から飛び出した。悲鳴が上がる。
大きい猫が子猫の後を追いかけ、あちらこちらと走り回る。その速い動きに翻弄され、キャーキャー言いながら右往左往する女房達、衣擦れの音も派手に聞こえて来る。
猫はまだよく人に馴れていないのか随分と長い綱に繋がれていたが、その綱が物に引っかかってまとわりついてしまった。なお逃げようと引っ張るうちに、ぴんと張った綱が御簾の側面にかかった。
一瞬の出来事だった。
斜めに引き開けられた御簾の向こうには、几帳も何もない。丸見えである。
直しに出て来る者もいない。柱近くにいた女房達はあらあらどうしましょうと慌てるばかりで、誰も手を出さない。
(……あれは)
寄せてある几帳の傍から少し奥まったところに、袿姿の女性が立っている。
階の西側にある二間の東端だったので、夕霧と柏木のいる場所からは何の障害物も無くすっかり見通すことができた。
紅梅襲か、濃き薄き色を細かく重ねたのが華やかで、まるで絵草子の端のようにも見える。表着は桜襲の織物の細長だろう。髪は裾まであざやかに黒く、糸を縒りかけたように靡いて、切りそろえられた髪先も美しく身丈より七、八寸ほど長い。衣裳の裾も余っていて、たいそう細く小柄なのがわかる。立ち姿、髪のかかった横顔は何とも品よく愛らしい。夕暮れ時でさやかには見えず、奥がほの暗いのももどかしい。
(あれが……女三の宮?)
花の散るのを惜しむ間もなく鞠を追う若公達に夢中の女房達は、女主人の姿があらわになっていることに全く気づいていない。
猫がしきりに鳴く声にふと振り返ったその表情や仕草に、
(なんと淑やかな……そしてなんと可愛らしい)
柏木の胸は打ち抜かれた。
夕霧も当然気づいてハラハラしていたが、自分がいきなり近づいて直すのも目立ちすぎるし立場上相応しくない。わざとらしく咳ばらいを繰り返すと、ようやく宮はすっと物蔭に入った。
それからすぐに猫の綱が解かれ、御簾も元に戻った。
(ああ、残念。もう少し見ていたかったかも)
と思わずため息をもらす夕霧。健康な若い平安男子としては、至極当たり前の反応である。
だが柏木の方はそれどころではない。
(大勢いる女房たちの中でもはっきりと際立ったあの袿姿……間違いようのない、あの……高貴な女性だけがもつあのオーラ……!)
脳裏に焼き付いて離れない。
素知らぬ顔を装っていたが、従兄弟にして幼馴染でもある夕霧の目は誤魔化せなかった。
(柏木だって絶対見てたよね?間違いない。これは困ったことになったぞ)
柏木は胸を締めつける切なさの慰めにと、あの猫を招き寄せて抱き上げる。猫はとても良い香りがして可愛い声で鳴く。まるで宮の分身のように思えて、愛しさで胸がいっぱいになる。
柏木はすっかり恋に落ちてしまったのだ。
参考HP「源氏物語の世界」他

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