若菜上 十八
ヒカルが階に座る二人の姿に気づいた。
「上達部の席としてはあまりに軽々しいな。こちらにおいで」
と、東の対の南面に入らせた。兵部卿宮も席を改める。
低い身分の殿上人たちは、簀子に置かれた円座に腰を下ろす。まず椿餅、梨、柑子などがさまざまな箱の蓋の上に盛り合わせて出された。若者たちははしゃぎながらつまんでは食べる。
まもなく酒宴が始まった。肴は乾き物中心であくまで気楽な感じである。
柏木はすっかり思いつめた顔をして、ややもすれば花の木に目を遣ってはぼんやりしている。夕霧は、
(あの何ともあやしげな御簾の透き影を思い出してるんだろうな……)
とその心中を察しつつ、
(しかし、ちょっと御簾がまくれ上がったくらいですっかり見えちゃうような端近にいるってどうなの?あまりに軽率じゃない?普通、あのくらいの身分の女性なら絶対ないことだよね)
(そうか、そんな風だから父は……前評判が高かった割には寵愛が薄い理由がそれか)
独り考察にふける。
(やっぱり、何事にも配慮が足りず幼な過ぎるのって、そりゃ可愛いかもしれないけど危なっかしいよね。高貴な女でもそこら辺が緩いのはちょっとなあ)
すっかり見極めた夕霧であった。
一方柏木は、夕霧が気づいた落ち度の数々にはなかなか頭が回っていかない。ただ思いがけず御簾の隙間から垣間見たこと自体、
(これは以前からの私の思いが報いられたということでは?実は前世からの宿縁てやつ?)
などと都合よく解釈して舞い上がってしまい、どこまでも気持ちを募らせるばかりであった。
そこにヒカルが話しかけてきた。
「太政大臣が何かと私に張り合っていた中でも、蹴鞠だけはとても敵わなかった。何から何まで子に伝わるってものでもないけど、名人の血筋はやはり特別だね。今日の柏木は抜群に良かった」
柏木は微笑んで応える。
「公の政務にかけては劣っております家風が、蹴鞠の芸など伝えたところで、後世の子孫のためには大したこともございませんでしょう」
「またまたご謙遜だね。何であろうと他人より勝っている点は記録して伝えるべきだよ。家伝などに書き留めて入れておいたら面白かろう」
などと冗談をいうヒカルの顔は若々しく艶めいている。
(こんな人と常々一緒にいたら、まずもって心を移す女などいないだろう。いったいどうしたら、せめて哀れな思い人と認める程度の気持ちでも向けていただけるのか)
ヒカルと自分との圧倒的な差、すべてにおいて及ばない身の程が思い知らされ、ただ胸が塞がるばかりの柏木であった。
帰りは夕霧と同じ車に乗り雑談する。
「やっぱり春の遊びは六条院だね。楽しかった」
「父院も、今日みたいに暇を見つけて花の季節を逃さず参上せよと仰った。春を惜しみがてらこの月内に、小弓持参で集合しよう」
仲の良い従兄弟同士、別れ道にさしかかるまで語り合う。打ち解けた和やかな空気の中、柏木はやはり切り出した。
「ヒカル院って、やっぱり東の対の方にばかりいらっしゃるんだね。紫上へのご寵愛が格別ってことなんだろうけど、あの宮はどう思ってるのかな。父君の朱雀院がずっと並ぶ者なき扱いをしておいでだったのに、此方では然程でもなく、屈しておられるようなのは気の毒じゃない?」
「とんでもない!そんなことはないよ。紫上は父院に育てられたようなものだから、普通とは違った絆があるってだけだよ。宮の方が何事につけ格上として、立てていらっしゃると思う」
「いや、違うでしょ。私は全部聞いて知ってるんだ。時々、とてもお可哀想なことがあるって。あれほど世の声望高き宮だっていうのに、ありえない扱いだよね……。
どうして花から花へ飛び移る鶯は
桜を取り分けてねぐらとはしないのか
春の鳥が桜に留まらないなんて、私にはどうも納得いかない」
(いやちょっと待って……流石に差し出がましいでしょ。まったく、案の定だ)
夕霧は内心呆れながらも、
「深山木にねぐらを決めているはこ鳥も
どうして美しい花の色を嫌がりましょうか
その例えはよくわかんないよ。決めつけすぎじゃない?」
車中で言い争いはしたくないのでやんわりかわし、それ以上は言わせなかった。話をそらし紛らわせて、そのまま別れた。
柏木は、未だ太政大臣邸の東の対で一人住まいをしている。思うところあって独身生活を長年続けてきた。誰のせいというわけでもないのに無性に寂しく、心細い折々もあるにはあったが、
「私ほどの身分の者が、願いをかなえられないことなどあるはずがない!」
と強い自負心を保ってきた。
だがこの夕方から酷く気が塞ぎ、どうしようもない。
(何とかして、あの程度でもいいからちらっとでも姿を見られないだろうか。何をやっても目立つことのないような身分の女なら、ちょっとした物忌、方違えでの外出も身軽にできるから、どうにでもやりようがあるけど……無理だよね。あんな深窓に隠れた人に、どうやったら私のこの切ない心の内を知らせることができるだろうか)
何をしても胸が痛く、晴れることがないのに堪りかねた柏木は、例によって宮の乳母子・小侍従のもとに手紙を遣わす。
「先日、風に誘われて御垣の原(六条院)を分け入りましたが、さぞかし私を蔑まれたことでしょう。その夕方から気分が悪くなり『あやなく今日は眺め暮』らしております。
※見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮さむ(古今集恋一、四七六、在原業平)
よそながら見るばかりで手折る事のできない悲しみは深いが
あの夕方見た花が名残惜しく恋しい」
受け取った小侍従は、
(また今日は随分と大袈裟な。よほど宮さまにご執心なのね)
としか思わない。女主人の姿を見られてしまったなどとは全く知らなかったのだ。
女房達が少ない折だったので、宮の前にこの手紙を持って近づいた小侍従は微笑みつつ、
「あのお方がこんなに、忘れられない忘れられないと繰り返し手紙を寄越されるのが煩わしゅうございます。お気の毒そうなご様子を見るに見かねる気持ちが起こりはせぬかと、我ながらわからなくなりますわ」
と言った。宮は、
「まあ、なんていやな事を言うの」
と言って、何気なく小侍従の広げた手紙を見た。
在原業平の「見もせぬ」の歌を引いた箇所ですぐにあの失態……御簾の端が持ち上がったことに思い当たり、頬がさっと赤くなった。
(どうしましょう……殿があれほど、事あるごとに
「夕霧に見られないようにね。貴女は子供っぽいところがおありだから、知らず知らずうっかりして、覗かれてしまうようなこともあるかもしれない」
とご注意なさっていたというのに。もし夕霧右大将が『こんなことが』とお話されたりしたら、どんなに叱られるかしら……)
他人に見られてしまったということではなく、まず叱責されることを怖がる。それほどにこの宮は幼かった。
黙り込んでしまった宮から何の言葉も引き出せないまま小侍従は退いて、いつもの如く独断でこっそりと返事を書く。
「先日は知らぬ顔でいらっしゃいましたね。宮さまに失礼なことと許せませんでしたのに『見ずもあらぬ』とはどういうことでしょう?お慎みあそばせ」
サラサラっと一気に書いて、歌も詠んだ。
「今更お顔の色に出されないように
手の届きそうもない桜の枝に思いをかけたなどと
無駄なことですよ」
一刀両断である。
参考HP「源氏物語の世界」他

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