若菜上 十一
薬師如来坐像 |
ヒカルの四十の賀はまだまだ続く。
神無月(十月)、今度は紫上の主催で、嵯峨野の御堂にて薬師仏を供養する。あまり大がかりな催しはヒカルから厳に禁じられているので、出来るだけ目立たないよう準備した。
それでも、仏像、経箱、帙簀(ちす:経巻の包み)が整然と並ぶさまは極楽浄土とみまがう荘厳さだ。最勝王経、金剛般若、寿命経など多くの有り難い経が読まれるとあって、上達部も大勢参上した。
御堂とその周辺の景観はえもいわれぬ素晴らしさである。紅葉を踏み分ける野辺に始まり、どこもかしこも見ごろの秋景色なので、半分はそれを目当てに先を争って集まったのだろう。一面に霜枯れした野原のまにまに、馬車や牛車の行きかう音がしきりに響く。他の町の女君たちもこぞって御誦経を申し込んだ。
最終日の二十三日は精進落しの宴である。人も多く立て込んでいる六条院ではなく、今や紫上名義となった二条院にて催すこととなった。装束をはじめ諸々をみなこちらで調え、各町の女君たちも申し出て仕事を分担する。
女房達の局にしていた東西の対を片付けて、殿上人、諸大夫、院司、下人に至るまで接待の席を設ける。寝殿の広い放出をしかるべく飾りつけて式場とし、ヒカル院の席として螺鈿の椅子を立てる。御殿の西の間に衣装の卓十二を立てる。大量に積み上げられた夏冬の衣裳や夜具などは紫の綾布で奥ゆかしく覆い隠す。御前に置物の机を二つ、此方は唐の地の裾濃の布で覆う。插頭の台は淑景舎(桐壺)が担当し、沈の花足(けそく)の台にのった金の鳥が銀の枝に止まっている細工物など、明石の御方が全面的に差配した。どれも格調高く素晴らしい品である。背後の四帖屏風は式部卿宮提供である。よくある四季の柄だが贅美を尽くした逸品で、斬新な山水、潭(ふち)の表現が面白い。北の壁に沿って置物の厨子を二具立て、定まった形式通りに調度類を設置する。
南の廂に、上達部、左右の大臣、式部卿宮をはじめ、それ以下の人々が続々と参列してきた。舞台の左右には楽人の平張りを打ち、西東に屯食八十具、禄の唐櫃を四十ずつ並べてある。
未の刻(午後二時頃)に楽人が参上し「万歳楽」「皇しょう」などを舞った。日暮れ時には高麗楽の乱声をして「落蹲(らくそん)」が登場。滅多に見られないこの演目の終曲には、夕霧権中納言や柏木衛門督が庭に下りて「入綾」を舞い退場した。ほんの僅かな間だったが、二人が紅葉の蔭に消えた後まで余韻が残り、観客を唸らせた。
「思い出すねえ、あの見事な『青海波』……あれは朱雀院の御代の行幸だったか。懐かしいことだ」
「いや感無量だね。あの時のお二人のご子息がこうして立派に後を継いでいらっしゃるとは」
「容姿も立ち居振る舞いも、世間の評判も申し分ない上に、官位などは父君が同じ歳の頃より昇進しておられる」
「やはり前世からの宿縁が強いご両家ということだろうね。昔からこのように並び立たれて。実に素晴らしいご関係だ」
などと人々が口々に褒めそやす中、ヒカル院も遠い記憶を呼び覚まされ、しみじみと涙ぐむ。
夜に入り、退出する楽人たちに褒美が下される。北の政所の別当たちが下人を率いて禄の唐櫃に寄り、一つずつ取って次々渡していく。楽人たちが下賜された白い衣を肩にかけ、山際から池の堤を通り過ぎていく光景は、千歳を寿いで遊ぶ白い鶴といった風情でいかにも縁起が良さそうに見える。
管弦の遊びが始まった。各種の琴は春宮から用意された。朱雀院から譲られた琵琶、琴。内裏より賜った筝の琴。久方ぶりの懐かしい音色にヒカルは過ぎ去った昔を思う。
(参内していた頃は、何かにつけてこういう管弦の宴があったよね。内裏に行かなくなってどのくらい経っただろうか)
(もし藤壺の女院が……入道の宮が生きていらしたら、宮の四十の賀は私が仕切って、思うさま盛大に催したろうに。今となっては何をしてもこの気持ちが届くことはないけど……悔しいね)
今上帝にしても思いは同じであった。何かにつけて母宮の不在が物足りなく栄えがない気がして、せめてヒカル院……実の父とは明かせないが……を最高の地位に据えたいと望み続けている。叶えられそうもない願いと承知の上で、なおも諦めきれない帝は、この四十の賀にかこつけて再び行幸を、という構想も持っていたが、
「私的な祝いを国費で贖うなど以ての外にございます。お慎みいただきますように」
とヒカル本人から何度となく固辞され、口惜しくも思いとどまった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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