若菜上 十
こんにちは!お久しぶり続きですね、せっちゃんこと宣旨の乳母です。ご無沙汰しております。お蔭様で、内裏は桐壺にてお勤めさせていただいてます。
明石の姫君改め、桐壺の女御さまは春宮さまのご寵愛も厚く、随分と長い間里下がりすることなく過されていらっしゃいました。今まで六条院で気楽に過ごして来たお若い女御さまには、いささかハードすぎる宮仕えではあったようです。
夏頃に体調を崩されて退出を願っておられたのですが、例によってなかなかお許しが出ません。困ったことと思っておりましたところ、なんと!ご懐妊でした!
まだ十二歳の女御さまにございます。いくら何でも若すぎますし、まして華奢なお身体の方ですから大事にしないと!ということで、ようやく六条院に帰ることができました。
先だってご降嫁された女三の宮さまのいらっしゃる寝殿の東面に、女御さまのお部屋が設営してあります。付き添われるのはもちろん明石の御方さま。まことに申し分ないご運勢をお持ちの方にございます。
ただ、女御さまが母と慕われる方はやはり紫上なんですよね。紫上も同じく実の娘として愛情深く慈しんでおられます。傍目からは完全に母娘としか思えません。産みの母である明石の御方さまはその辺しっかり弁えてらして、側近として完璧なまでのお心づかいを尽くされながらも、常に一定の距離を保っておられます。
産みの母、育ての母がただ桐壺女御さまお一人のためタッグを組み、それぞれの立場で出来ることをする。お互いに尊重しあい、信頼を置いているからこそできることです。まさに理想的なご関係、奇跡のようなお二人といえましょう。
そうそう、今回のお里帰りを機に、紫上と女三の宮さまのご対面もございました。其方のお話は右近さん、よろしくお願いします。
はい、右近です。
そもそもこのご対面は、紫上からのご提案だったようです。宮さまのお部屋、桐壺女御さまのお部屋のお向かいですから、むしろ何も声をかけない方がおかしいというか、気まずいですもんね。
「この際、宮さまにも中の戸を開けてご挨拶申し上げようかと思うのですが、どうでしょう?かねてより考えてはいたのですが、中々よい機会がなかったものですから……これで少しでもお近づきになれましたなら、わたくしも気持ちが楽になりますわ」
紫上の言葉にヒカルさまも微笑んで、
「それこそ願ったりかなったりのお付き合いというものだよ。宮はまだとても幼くていらっしゃるから、よくよく教えてあげてね」
手放しで同意されました。
そうと決まれば全力でお仕度にかかります。御髪を洗い、色襲も考え抜いて衣装を選び、香を焚き染め、お化粧もキッチリ念入りに。準備なさっているお姿が既にいつもの二倍増し、いや三倍増しくらいのお美しさです。もっとも、まだ見ぬ宮さまよりも、安定のハイセンスで品格ある明石の御方に対しての気合が主でしょうね。
ヒカルさまは先に宮さまの御方にお知らせに行かれました(もちろんこっそり後を)。
「夕方、あちらの対にお住まいの人が、桐壺(淑景舎)の女御にお目にかかろうと出て来ます。そのついでにお近づき申し上げたいということなので、お許しいただけませんか?気立てのとても良い人だよ。まだ若々しくて、お遊び相手としても不似合いでなかろうと思う」
「え……恥ずかしい。何をお話したらよいのか……」
「お返事はあちらの言う事に合わせればいいんだよ。余所余所しくせず愛想よくね。仲良くお過ごしなさい」
なんというか、妻同士って感じじゃないですね。
ヒカルさまも何とも複雑なお顔をされていましたが、だからといって「お近づきに」と仰る紫上のお気持ちを無下にもできません。どうなることやら。
右近からは以上です。では少納言さん、よろしくお願いいたします。
はい、少納言です。
紫上は、表立っては何も仰ることはありません。ですが、このところずっと物思いに沈んでおられます。手習いなどするにも、古歌ひとつとっても思い悩む歌ばかりが筆先に出て来られるようで、ご自分でも
「わたくし……余程、思うところがあったみたい」
とそっと笑いながら、
「二十年も寄り添ったわたくしが、今更誰かの下にならねばならないとは……所詮わたくしなど、元々後ろ盾も何もない身の上と見下されて引き取られたというだけなのだわ」
誰にも聞こえないところで、独り呟かれていたこともありました。
皮肉なことに、そうやって憂いを身に纏われている紫上はなお一層輝きを増して、女三の宮さまや桐壺女御さまなど、並以上の容姿の若い方々をご覧になっているはずのヒカルさまでさえ、すっかり目を奪われておいでです。普通なら長年連れ添ってきた妻など霞んでしまいそうなものですが、それどころではありません。
「二人といない。滅多にない美しさだ」
あのヒカルさまをしてそこまで言わせる程の今の紫上、元から整った容姿に加え、年齢を重ねていっそう華やかかつ優雅な立ち居振る舞い、まさに女盛りといった風情です。去年より今年、昨日より今日と、その魅力はいや増して見飽きることなどありえません。
「どういう徳を積んだらこんなにも美しく産まれてこられるのか」
ほとほと感心するばかりです。
何気なく書き散らされた手習いが硯の下に隠してあったのをヒカルさまが見つけて、じっくりご覧になっておられました。気を抜いて書かれているので整ってはいませんが、全体に品よく可愛らしい感じです。
「身近に秋が来たのかしら、みるみるうちに
青葉の山も色が移ろってきました」
という歌にヒカルさまが返歌を書きつけておられます。
「私の心は水鳥の青羽のように色も変わらないが
貴女の心は萩の下葉ばりに様相が変わってるね」
いつも通りを装いながらも辛い心の内もほの見える……その健気さに胸を打たれ、愛しくてたまらないといったご様子でした。
ただ……それ程に深い愛情を持っておられながら、今宵一人になったのをいいことにこっそりお出かけになられるヒカルさま。行き先はおそらく二条宮……朧月夜の君のところでしょう。
酷い事、あるまじき事だという自覚はおありなのに止められない、まことに詮無き男の業といったものでございましょうか。
では、次は右近さん、よろしくお願いいたします。
はい、再び右近です。
まず久しぶりの桐壺女御さま、暫く見ない間に見違えるほど大人びられて、愛らしい事この上ないお姿でした。お二人で打ち解けた会話を存分に楽しまれた後、いよいよ中廊の戸を開けて女三の宮さまとの初のご対面です。
女御さまもほっそりした方なのですが、宮さまは更にお小さい上に、顔つきから何から明らかに幼い。ひとつ年上のはずが二つ三つ下に見えます。
紫上は、この部屋を取り仕切る中納言の乳母をもお召しになって仰いました。
「血筋を辿りますと、宮さまの母君とわたくしの父宮とはきょうだいの間柄、つまり従姉妹同士にございます故、畏れ多くも親しくしていただければと存じておりましたが、中々機会もなく失礼いたしておりました。これからはお心置きなく、わたくしどもの方にもおいでくださって、行き届かない点などご注意いただけましたら幸いにございます」
乳母が応えます。
「頼みとしておられた方々にそれぞれお別れ申し上げて、心細くしていらっしゃいます宮さまですので、このようなお言葉をいただきまことに有り難く存じます。御出家あそばした院の上のご意向も同様に、まだまだいとけないご様子の宮さまを他人扱いではなく、親しくお育ていただきたいとのことでございます。内々にも、繰り返し念押ししておられました」
「まことに畏れ多いお手紙を頂戴しまして以来、是非お力になりたいとばかり存じておりましたが、何事につけても数ならぬ身にございます。お役に立てるかわかりませんが……」
如才ない受け答えで難なく乳母の心を掴んだばかりか、宮さまからも巧みに話題を引き出され、絵や人形遊びなどの話を楽しく盛り上げられる紫上です。
「ヒカル院の仰っておられた通り、本当に若々しくて感じの良い方……」
宮さまも幼いながらにすっかり打ち解けられたようでした。
それからというもの、宮さまと紫上の間では手紙のやりとりが常となりました。何か面白い遊びごとがある都度、分け隔てなくお便りを交わされているようです。
世間のお節介な向きは、すわ、やんごとなき方々のゴシップ!とばかりに食いつき、
「紫上はどうお思いなのかしら」「ヒカル院のご寵愛だっていくら何でも今までのようにはいかないわよね」「少々は落ちるわよねえ、お可哀想に」
などと口さがなく噂していましたが、ヒカル院と紫上の仲は以前よりもなお睦まじく、より一層深い愛情を窺わせました。それはそれで、
「これは……宮さまの辺りと揉めるのでは?」
と言う者もおりましたが、揉めるどころか和気あいあいと交流なさって、皆平穏に暮らしているという事実が広がるにつれ、おかしな噂は消えて無難に収まっていきました。まことに紫上の比類なき人間力、舌を巻きました次第にございます。
以上、右近でした。
参考HP「源氏物語の世界」他
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