若菜上 五
閑話休題。
はい、ヒカルついに受けてしまいました。女三の宮との結婚。
私自身も以前から疑問だったところです。え、何で承諾したのバカなの???と。原文を何度も読み返してみましたが、やりとりしてる言葉だけを見ていると、ヒカルが受けようと決意した瞬間がイマイチわかりません。ただ最後に引き受けた、と書いてるだけ。初めは明らかにかわそうとはしてるんですよね。朱雀院も全くはっきりとは言ってない。
そこで、こういう時は源典侍さん!と思い、いつもの独自解釈でいってみました。会話の内容は殆どそのままなんですが、間をおいて心の声を入れてみるうち、やはり何となく察せられるものが……朱雀院はもう最初からヒカル以外にいないという体で全力でかかって来ている。人伝てならばのらりくらりとかわし続けられるけれど、出家し山籠もりする予定の病弱な兄に直接会って話したいと言われて、いつまでも断り切れるものではない。会わないまま亡くなったりしたらそれこそ寝覚めも世間体も悪い。ヒカルが夕霧を伴わない単独訪問を敢行したところで、既に話は決まったも同然だったのかもしれません。
そう思って読むと、途中でヒカルも諦めてますね。これはもう、何を言っても無駄だと。意に染まない提案には沈黙で応え、決して自分では決めない、常にヒカルに問うて、最終的に自分の望みの形に持っていく。この真綿で首を絞めるようなじわじわ感、相当のイケズで頑固者ですね。さすがはあの大后の息子です。
「女三の宮の源氏への降嫁自体、朱雀院の復讐である」とはどなたの説だか忘れてしまいましたが、案外本当にそうなのかもしれないな……と書いてみて思いました。さて、ヒカルのこの選択はどういう波紋をもたらすか。一番影響が強いのはやはり紫上です。
ここは初めから紫上を見ている少納言さんに語っていただきましょう。(原作ではもう出ていらっしゃらないですが、一番の理解者だと思うので)。
はい、少納言でございます。
ヒカルさまがお帰りになられる前、既にそのお話は流れてまいりました。得てして、この手の情報は光の速さで漏れ出すものにございます。ですが、俄かに信じがたい内容でございましたので、私たち女房はもちろんのこと、紫上も本気にはしておりませんでした。
「ヒカルさまがまさか、あのようなお若い方を娶るなど……朝顔の前斎院さまの時はあれ程熱心に言い寄ってらしたのに、結局何も無く終わったのですもの。きっと間違いなのでしょう」
しかし、六条院にヒカルさまの車が着き、此方に入ってこられるそのお姿を目にした時、おや?と思いました。何がというわけではないのですが……どこか違和感があったのです。
紫上はましてどのように感じられたかわかりませんが、その晩は何一つ聞くことなくすぐにお休みになられました。
翌日は雪のちらつく寒い朝にございました。冬の空の下、いつものようにお二人で語り合っておられた時、ヒカルさまが何気ない風に昨日のご訪問のお話をはじめました。
「朱雀院のご容態が思わしくないのでお見舞いに伺ったが、いろいろと胸に沁みることが多かったよ。女三の宮のことをどうにも思い切られず、繰り返し仰って泣かれるものだから、お気の毒でね……断れなかった」
断れなかった。
何気ないふうに、しかしはっきりと仰いました。几帳の向こうで控えていた私の耳にも届きましたから。
「驚かないね……もう何かしら聞いていた?きっと、世間は大袈裟に言いまわっているんだろうね。私はもうそういった縁談が似合う歳でもないし、関心もないから、人伝てにほのめかされる間は何とかかわせたんだけどね。目の前でしみじみ深いお心の内を吐き出される院に、すげなくいや辞退いたしますとはとうてい言えなかった」
紫上のお声はおろか、身じろぎする音すら聞こえません。
「朱雀院が深山の寺に移られる頃には、此方にお迎えすることになると思う。さぞ面白くなくお思いだろうけど、何があろうと、貴女にとって今までと変わるようなことは決してない。どうか心配しないで。むしろ私のような年寄りのところに来る若い姫宮こそお気の毒だろうから、生活面は見苦しからずお世話しようと思っている。誰も彼も心穏やかに過ごしてくれればそれで満足なんだよ、私は」
何を仰っておられるのか。ちょっとした遊びの浮気ごとでさえ気に病んで、動揺される紫上ですのに、ましてこんな大ごとを「心穏やかに」などと……ハラハラしながら見守るうち、ようやく紫上が口を開かれました。
「それは本当にお辛いご依頼ごとでしたこと。わたくしがどうして面白からぬ気持ちになぞなりましょうか。あちらさまから目障りな邪魔者とお咎めを受けるようであれば別ですが……母君の源氏女御さまはわたくしの叔母に当たりますから、いとこ同士にございます。親しい者と思っていただけるでしょうか」
静かな声でした。震えたり上ずったりなどはない、まったく心の揺れを感じさせない、落ち着いた話し方でした。
「いや……まさかこんなにアッサリ快く許して貰えるとは。かえって不安になるね」
ヒカルさまは少しほっとされたようで、声が明るくなりました。
「本当言うと、そんな風に大目にみてくれると助かる。此方もあちらもお互いに心得て、平和に暮らしていけるならますます有り難いことだ。根も葉もない噂は耳に入れないようにね。大方の世間の口ってものは、誰が言い出したってことじゃなく、身の回りの夫婦の話なんかを混ぜて歪めて、とんでもないフェイクをでっちあげて来るものだから。何を聞いても心に収めて、成り行きに任せるのがいいよ。早まって騒ぎ立てたり、しなくてもいい嫉妬をしないようにね」
俄然、饒舌になられたヒカルさまの言いようを、黙って聞いておられる紫上。そのお顔は依然こちらからは窺えません。
ヒカルさまが部屋を出られた後も、此方から何か申し上げるなど到底できませんでした。紫上が非常に落胆していたとか、怒っていたとか、ではありません。まったくいつもの通り、昨日まで続いていた日常の風景そのままにございました。紫上と余程近しい女房であっても気づけないほどに。
ですが、紫上が赤子の頃からずっと生活を共にしてきた乳母の私には、むしろこの「いつも通り」が過ぎていると感じられました。昨夜お帰りになられたヒカルさまのお姿を目にした時の違和感と同じく、事の重大さに比べてあまりにも「普通」過ぎたのです。
私と二人きりになった僅かな間に、顔も見ないままそっと呟かれたのは、やはり誰かに吐き出さずにはいられなかったのか……おいたわしいことでございました。
「空から降ってきたようなお話だもの、逃げようもなかったのでしょう。恨み言など申し上げますまい。わたくしに遠慮してご破算にできるようなことでもないし、そもそもご当人同士の恋愛沙汰というわけでもなく、堰き止める術はないものだから。みっともなくくよくよ悩んでいるなどと噂されたくない。父君の……式部卿宮の大北の方は、始終此方を呪詛するようなことを仰って、まったくお門違いの鬚黒右大将の件ですら変に恨んだり嫉んだりなさっているというのに、ましてこんなことを聞かれたら……きっと、ついに呪いが成就したと喜ばれるでしょうね」
元々は楽天的な性格の紫上です。常に前向きで明るいそのお心にここまで影を落としたヒカルさまのご決断は、あまりにも重いものでございました。
先帝の内親王である女三の宮がご降嫁されるとあらば、当然扱いは「正妻」です。「何も変わらない」ことなどありえない。長年押しも押されぬ六条院の女主として、誰に気兼ねすることなく過ごして来た紫上が、実情はどうあれ押しのけられる形になるのです。世間の人の目は残酷なもの、人の不幸は蜜の味とばかりに口さがなく騒ぎ立てることでしょう。これからどれだけの屈辱に堪えていかねばならないか……その不安や焦燥は如何ばかりだったことか。
紫上はそれでも決して、心の内を表に出すことはございませんでした。ただただいつも通り、穏やかに振る舞ってらっしゃいました。
参考HP「源氏物語の世界」他
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