真木柱 四
※「真木柱 二」に訂正あり
「もうお一方、式部卿宮のご子息・兵衛督さまはなお憂鬱なことが重なっておりました。鬚黒大将の北の方は妹君です。自分の思い人を奪われた上に、妹までが愚弄されるというこの事態に嘆かれるも、」
×妹→〇姉 です。失礼いたしました(訂正済です)
-----ここから本編--------
こんにちは。先ほど木工の君よりご紹介にあずかりました、鬚黒大将邸の北の方付きの女房、中将の御許と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
お方さまのご病状は芳しくありませんでした。いくら修法を行ってもいっこうに物の怪が去らず、怒り狂い大声でわめきたてています。
頭から灰をかぶせられた大将殿は
「次に何が起こるか知れたものではない、さらに恥を上塗りすることになっては」
とすっかり怖気づかれ、もう邸に寄りつきもしません。たまに帰られても此方の対屋に顔を出されることはなく、別室にお子さま方だけを呼び出されてお会いになっておられました。
お方さまは、ここ数年来殿とは隔たりがちになっていたものの、十二歳の姫君とその下に男の子二人という三人のお子さまをかすがいに、れっきとした正妻として並ぶ者もなく暮らして来られました。その、細くはなりましたがまだまだ盤石とみえた夫婦の絆が、この度のことで遂にぷつりと切れてしまったようです。
「いよいよこれでお終いかしら……」「仕方ないとはいえ悲しいこと……」
と女房一同、囁き合っておりました。
こうした事態は程なく式部卿宮さまのお耳にも入ったようです。
「もう答えは見えているではないか。別居したばかりか、様子を見にも来ないのだから。意地を張っても物笑いの種になるだけだし、そんな不面目な扱いを受け入れることはないだろう。この父が生きている限りは、そこまでしてあの婿の言いなりにならなくてよいのだ。帰っておいで」
そのように仰られて、お迎えを差し向けられました。
その頃にはようやく物の怪も去り、ほぼ平常通りのお方さまでいらしたので、
「こうなった以上無理に居座ったところで、いずれ完全に捨てられるのを待つだけ。お父さまの仰る通り、そこまでしてみっともなく妻の座に縋りつくかと世間に嗤われるわね……」
とうとうお心を決められました。
弟君の兵衛督さまは上達部ゆえ仰々しすぎるとのことで、外腹のごきょうだいの中将さま、侍従さま、民部大輔さまなどが車三台ほどを連ねてお迎えにいらっしゃいました。
いずれは、と常々予想はしておりましたが、いざ今日が最後となるとやはり寂しいものでございます。女房同士でもほろほろ涙をこぼし嘆き合いました。
「お方さまの実家とはいえ、長年離れていた余所の住まい。ここより手狭な上に気の置ける場所で、どうしてこんなに大勢の女房が仕えられましょうか。何人かは各々里に下がって、落ち着かれてからまた……」
宮邸に行く者、大将邸に残る者、里に下がる者を決め、邸から荷物を運び出します。結局はみな散り散りになってしまうのでしょう。必要な調度類の荷造りなどしながら、上から下まで泣き騒いでいるさまは、たいそう気の滅入る光景でした。
お方さまは、そんな中無心に歩き回っているお子さま三人を集め座らせて、懇々とお話をされました。
「わたくしは、このとおり我が辛い宿命を見定めましたから、この世に何の未練もございません。どこへなりとただ去っていくだけ。だけど将来のあるあなた方には、家族が別れ別れになるのは悲しいことでしょうね。姫君はともかくもわたくしについていらっしゃい。男の子たちは……そうね、この先もお父様のもとに参上して、顔を合わせないわけにはいかないわね。きっとあなた方にお心をかけてはくださらないでしょうし、かといって離れるわけにもいかない。どっちつかずで彷徨うことになるかも……父宮が生きていらっしゃるうちは型通りに宮仕えはできても、何しろあの大臣がたのお心のままのご時世ですからね。『例の、油断ならない一族の者よ』と見做されて、立身することも難しいでしょう。だからといってわたくしの後を追って山林に入り世を捨てるというのも、来世に障りが出ましょうし……」
内容をすべて理解はできないにしろ、欝々と語り続けるお方さまにただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、三人とも泣きだされてしまいました。
「昔物語にもありますものね。人並に愛情深かった親でさえ、時勢に流され、人の言いなりになって、冷たくなっていくという試しは。まして形だけの親で、あれほどあからさまに変わってしまったお心では、とうてい頼りになるような扱いはなさるまい」
乳母たちも集まって、みな嘆き合ううちに日も暮れてまいりました。今にも雪が降ってきそうな空模様も心細い頃合いにございました。
「ひどく荒れてきましょう、お早く」
お迎えの公達が促しますが、皆涙を拭うばかりですぐには立ち上がれません。殿がたいそうかわいがっていらっしゃる姫君は、
「お父さまにお目にかからないまま、どうして出て行けましょう。さようならのご挨拶もしていないし、またお会いできるかどうかもわからないのに。とても出られないわ」
と突っ伏してしまわれました。
「なんという情けないお心かしら」
お方さまが宥めようとしますが、
「お父さま、お帰りになってほしい、今すぐに。それまで待ってる!」
と聞き入れられません。しかし既に夕暮れのこの時に、殿があちらを動こうはずもございません。姫君も薄々わかってはおられたのです、父君が今何処にいるのか。自分たちが何故ここを出て行かねばならないのか。
姫君はようやく顔を上げられました。その目の先には、いつも寄りかかられていた東面の柱……後から此処に来るであろう、見知らぬ誰かに譲らねばならない……姫君は桧皮色の紙を重ねて、さっと筆を走らせました。
「今はもうこの家を離れていきますが、馴れ親しんだ
真木の柱は私を忘れないでね」
最後まで書き切らないうちにその両目から大粒の涙が零れ出します。姫君はその紙を小さく折り畳み、笄(こうがい)の先で柱のひび割れた隙間に差し込まれました。
お方さまはにべもなく、
「いいえ。
いかに馴れ親しんだ思い出があったとしても
どうしてここに留まっていられましょうか」
と吐き捨てるように仰って、姫君を連れて車に乗り込まれました。
お傍に仕える女房たちももうバラバラに散っていきます。
「普段どうとも思わなかった草木までも、もう二度と見ることがないと思うと切ないわねえ」
と目を留めては鼻をすすりあいました。
私はお方さまに付いて宮邸に参りますが、木工の君は殿付きの女房として此方に残ります。同じお方さまに仕え、同じ殿の召人として、ある意味戦友ともいうべき私たち、離れるのはあまりに寂しゅうございました。
「浅いけれど岩間の水は澄み(住み)果てて
宿を守るべき方がかけ離れてしまうとは
貴女が残ってお方さまが出て行くなんて思ってもみなかった。あまりにあっけないお別れで」
木工の君も返しました。
「とにもかくにも岩間の水は凍りついています
私もいつまでここにいられますことやら
なんともはや……」
二人手をとりあって泣きました。
車が邸を出ました。おそらく、もう二度と此処を訪れることはないのでしょう。姫君は、木々の梢にも視線をさまよわせながら、見えなくなるまで振り返り振り返りご覧になっていました。誰の住まいということではなく、長年時を過した……ひとつの家族の、穏やかで幸せな暮らしがあった場所にございます。どうして名残惜しくないことがありましょうか。
式部卿宮邸では皆さまお揃いで待ち受けておられました。宮さまの北の方……お方さまの母君は泣き騒いで、
「太政大臣殿をまことに結構なご親戚と存じておりましたが、どれほど昔からの仇敵とお思いなのかしらね。娘の王女御も、何かにつけてぞんざいな扱いをされたものですが、
『それは大臣と私の間の恨み言が解けていない、思い知れということであろう』
などと宮さまご自身も仰せになるほどで、世間の声も調子を合わせる始末。そんなことがあっていいものなの?宮さまはあの方の須磨行きに何一つ関わっておられないというのに。あちらの女君一人を大切になさるのであれば、その縁者もお蔭をこうむるものではありませんか。なのに……その上こんな歳になってから、筋違いの継子のお世話などして。大方、ご自分が飽きられたのを下げ渡されたのでしょうよ。生真面目で浮気心のない者をと横から引っ張っていって、婿として持て傅くなど……あまりにも酷いなされようではありませんか」
耳が痛くなるほどのキンキン声で仰られます。宮さまも閉口されたか、
「やめなさい、聞き苦しい。世に非難する者とてない大臣を、口から出まかせに貶めるものではない。賢き人は事前によく考え置かれるものだ。その上でのご判断であり、そんな風に思われてしまった私自身の不幸なのだ。追い落とされた時の報復は何気なく、浮かべるも沈めるも巧妙に考えてらっしゃる。私一人をしかるべき親戚だと思し召して、先年もあれほどの……世間で語り草になるほどの、我が家には過ぎた祝賀を執り行ってくださったではないか。あれを生涯の名誉と思い、矛をおさめるべきなのだろうよ」
宥めようとされましたが、北の方はますます腹を立てられたか、いっそう不穏当な言葉を撒き散らしておられました。私は今までまったく存じ上げませんでしたが、相当に性格のキツイ、難しいお方という印象でした。お方さまは本当に此方に帰って来てよかったのかどうか……これからの生活が思いやられます。私、中将の御許からは、以上です。
参考HP「源氏物語の世界」他
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