おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

真木柱 七

2020年12月13日  2022年6月9日 

 


 二月になった。

 玉鬘は結局そのまま鬚黒大将邸に留まり、六条院に戻ることはなかった。

「何という情のないやり方だ。これほどアッサリ切り離されるとは思わなかった。油断したな……悔しい。完全にしてやられた」

 ヒカルは四六時中玉鬘のことが気にかかり、恋しい気持ちが無限大である。  

(運命などというのも決して馬鹿にするものではないが、この物思いの理由は明らかに私の内にある。さすがに度が過ぎてる)

 そうは思いつつも、寝ても醒めても玉鬘の面影が頭から離れない。


 ある雨の日のこと。

(どこにも出かけられないこんな日は、暇にあかせて西の対に渡ってお喋りしたもんだな……)

「右近?」

「はい、何でございましょう」

「これを大将邸に。こっそりね」

 我慢できず玉鬘に手紙を出した。とはいえ誰に見られるかもわからない。ごく婉曲に、ただ相手の推察に任せた内容であった。

「降り籠められてのどやかな春雨の頃

古里住いの私を如何に偲んでおられますか

 所在なさにつけ、恨めしく思い出されることが多くございますが……何と申し上げてよいものやら」

 人のいない隙を見計らってそっと届けられたその手紙に、玉鬘はほろりと涙を零した。

(夫は……決して悪い人ではないけれど、特に深い趣味も持たず愛想もない。ちょっとした冗談も憚られて、全然面白くないのよね)

(わたくし、余程我慢していたのだわ。こんな雨の日は、ヒカルさまがお渡りになられて色々お話をしてくださった。時折厄介なこともあったけれど、今思えば何と楽しい時間だったか)

(だからといって『恋しい、何とかしてお目にかかりたい』なんて言うわけにもいかない。人妻ともなれば実の父でも滅多に顔を合わせないというし、ましてヒカルさまになど。お返事もしていいものかどうか気が引けるけど、色めいた内容でもないのだし、逆に不審に思われては)

 散々迷った挙句、

「物思いにふけりつつ軒の雫に袖を濡らす私が

わずかな間でも貴方を思い出さずにいられましょうか

『程のふる』頃には、まさに格別な物寂しさも募りますこと。あなかしこ」

※君見ずて程のふるやの庇には逢ふことなしの草ぞ生ひける(新勅撰集恋五-九四五 読人しらず)

 殊更に丁重かつ礼儀正しく書いた。

 

 ヒカルは玉鬘からの返信を広げ、『玉水』が零れ落ちるような思いで胸が一杯になったが、人前では平静を装っていた。

※雨止まぬ軒の玉水数知らず恋しき事のまさるころかな(後撰集恋一-五七八 平兼盛)

(昔の、朧月夜の君を思い出すな。彼女も尚侍だった。朱雀院の母后が散々妨害してきたっけ……いや、これはなかなか堪えるな)

(そもそも恋愛脳の人って、芯からそういう恋に悩む自分が好きなんだよね。私はそんなのじゃないし。もうここにいない、望みもない女に心を乱されてどうする……年齢的にも、立場的にもまったく似つかわしくない相手なのに)

と強いて熱を冷ますのもやり切れず、琴を掻き鳴らす。やさしく弾きなしたその爪音にも玉鬘の顔が浮かぶ。和琴の調べを菅掻きにして「玉藻はな刈りそ」と謡い興じるヒカルの姿は、かの恋しい人が目にすればきっと感動せずにはいられないだろう。

 帝もまた玉鬘が忘れられずにいた。わずかに見た顔や姿を心にかけて、

「赤裳垂れ引きいにし姿を」

※立ちて思ひ居てもぞ思ふ紅の赤裳垂れ引きいにし姿を(古今六帖五-三三三三)

と耳慣れない古歌を口ずさみ物思いに耽っている。手紙もごく内密に、時折届いた。わが身を不運な境遇と思い込んでいる玉鬘は、こんな軽い気まぐれのやり取りすら自分には似つかわしくないと、打ち解けた返事もしない。

 それでも帝は、内裏での玉鬘の「ただ今からはそのように弁えましょう」と応えたその声と心ばせを何かにつけて思い出すのだった。


 三月。六条院の御前に咲き乱れる藤や山吹が夕陽に映える頃、ヒカルは一人春の御殿を出て夏の町に渡る。

 呉竹の籬に咲きこぼれる山吹がつやつやと美しい。

「色に心を」

※くちなしの色に心を染めしより言はで心にものをこそ思へ(古今六帖五-三五一〇)

 などと口ずさみながら、

「思いがけずに二人の仲は隔てられてしまったが

 言葉にできないまま恋い慕う山吹の花よ

『顔に見えつつ』」

※夕されば野辺に鳴くてふ顔鳥の顔に見えつつ忘られなくに(古今六帖六-四四八八)

 と詠んでも聞く人はもういない。

(不思議なものだな。こうして一人、無人の西の対に来てみて初めて、自分の中で玉鬘の存在が遠いものになっているのがはっきりした。もう、恋文など出すことはないな)

 それから程なくして、六条院への献上品の中に雁の卵がたくさんあるのを見つけたヒカルは、柑子や橘になぞらえてさり気なく玉鬘のもとに贈った。手紙は例によって誰に見られても支障のない真面目な内容である。 

「お目にかからないまま月日が経ちましたね。思いがけないおあしらいとお恨み申し上げるも、貴女一人のお考えからではないと聞いております。特別の場合でなくてはお目にかかることの難しいのを残念に存じます」

 いかにも親らしい調子で、

「せっかく私の所でかえった雛が見えませんね

どんな人が手に握っているのでしょう

 なぜ、そんなにも……まだ言い足りないですね」

 などとあるのを眺めている後ろから、いつのまにか現れた鬚黒大将が覗きこんで笑っている。

「娘というものは、実の親の住まいであっても余程の理由がなければ出向くことなどないというのに。まして父親でもないこの大臣が、なぜこんなにも再々と恨み言を仰るのだろうね?」

(またこの過干渉……いい加減にしてほしいわ)

 イラっとする玉鬘だが、面と向かってこうも言われてしまうとなかなか書きにくい。

「お返事は……差し上げないことにします!」

「そう?では私が書くとしよう」

(え?!)

 驚き慌てる玉鬘の目前で、

「巣の片隅に隠れて子供の数にも入らぬ雁の子を

どちらの方に取り隠そうと仰るのでしょうか

 ご機嫌のよろしくないご様子に驚きまして。懸想文めいていましょうか」

 と書いて出した。


「ほう、あの生真面目な大将がこんなに風流な歌を詠むとは知らなかった。珍しい事もあるものだね」

 大将の筆跡になる返信を開いて笑っていたヒカルだが、内心では

(もう玉鬘は俺のもの!ひ・と・り・じ・め!ってか)

 と忌々しく思っていた。

参考HP「源氏物語の世界」他

<真木柱 八 につづく

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