おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

常夏 一

2020年11月6日  2022年6月9日 

 

 夏が来た。

 ヒカルは暑さに堪えかねて、息子の夕霧中将とともに夏の町・東の釣殿に出て涼む。親しい殿上人たちも大勢参上してきたので、西川から献上してきた鮎や近くの川で獲れた石伏魚(いしぶし)を御前で調理して振る舞う。例によって、内大臣の次男と三男、弁の少将と藤侍従の二人も夕霧の居所を追ってやってきた。

「おお、いいところに来たね。退屈で危うく寝落ちするところだったよ。どれ、酒を。あと水飯もね」

 乾飯に水をかけ、氷室から出した貴重な氷を浮かべる。夏の贅沢品を、皆で賑やかに食した。

 気持ちの良い風が吹いてはいるが、日は長く空は雲一つない。西日が射す頃には蝉の声さえ「苦しげに鳴く」のに閉口したヒカル、

※かはむしは声も耐へぬに蝉の羽のいとうすき身も苦しげに鳴く(河海抄所引-花山院集)

「水の上でも役に立たない今日の暑さよ。失礼をお許しいただけようか」

と物に寄りかかって横になった。

「これだけ暑いと管弦の遊びなんて考えたくもないし、普通に過ごすのもキツイよね。ましてこんな中でキッチリ着こんで宮仕えする君たちは堪え難いでしょ。帯も緩めてゆっくりしなよ。せめてここではダラダラくつろいで、最近流行ってるものとか珍しい事件とか噂とか、眠気も醒めるような面白い話を聞かせてくれないかな。この頃はすっかり世情にも疎くて、お年寄りみたいな気分だからさ」

 ヒカルが促すが、そうはいっても太政大臣が喜ぶような話というのがどんなものなのか、若手ばかりの面々には全く想像もつかない。いくぶん涼しい高欄に背中を預けて座りながら、お互い顔を見合わせるばかりである。

「そうだ思い出した。弁の少将、内大臣が外腹の娘を探しあてて大事にお世話してるとか、小耳に挟んだんだけど本当?」

 ヒカルに突然話を振られた弁の少将は狼狽えつつも応える。

「は、はい。仰々しくお伝えする程のことでもございませんが……今年の春頃、父が夢占いから聞いた『長年知られないままの子がいる』という話が、どこをどう巡り巡ったのかはわかりませんが、『お聞き下さい、大事なお話があります!』などと女が名乗り出てきまして。兄の中将朝臣が調査して、間違いないということで此方に引き取ったようです。私も詳しい事情を知る立場にはないのですが、文字通り世間では『最近の珍しい噂話』となっているようです。父にしてもどうしてこんな、家格を損ないかねない振舞いをなさったのか……お恥ずかしゅうございます」

「えっやっぱり本当だったんだ!へーえ」

 弁の少将の表情で全てを察したヒカルは一気に食いつく。

「あんなに子だくさんなのに、列を離れて後れをとった雁まで無理にお探しになろうとは、なんと欲深な。私など子供が少なくて、草の根分けても何とか種を見つけ出せないか常々願ってるっていうのに、とんと聞かない。まあウチなど名乗り出る甲斐なぞない一門と思われているんだろうけどね、羨ましいよ。内大臣は若い頃さんっざんチャラチャラやらかしてたから、その娘御にしても心当たりアリアリでしょ?それにしても曇りなき月の光も、濁り水に映せばどうなるか知れたものではないんだね、うん」

 言いたい放題である。顔を赤くして俯く弁の少将とその弟の藤侍従の傍で、夕霧中将が堪えきれず吹き出す。

「夕霧よ、何だったらその落ち葉拾ってあげたら?同じ梢に生い育った『同じかざし』、つまり一応姉妹ではあるんだし。不本意な評判のままよりはいくらかマシなんじゃないの?」

※わが宿と頼む吉野に君し入らば同じかざしをさしこそはせめ(後撰集恋四-八〇九 伊勢)

 ヒカルのキツイ冗談に口ごもる夕霧。周囲で漏れ聞いていた殿上人たちはクスクス笑う。内大臣の息子二人はしおれるばかりだ。

 表面上はたいそう仲のよいヒカルと内大臣だが、昔から事あるごとに競いあったりいがみあったりする相手でもある。まして雲居雁とのことでわが息子の夕霧が恥をかかされ、今もってその傷が癒えないでいる様子を察するにつけ、さすがのヒカルといえども腹に据えかねていたのだろう。

 もちろん玉鬘のことも心中にはある。

(どうやら内大臣の見つけた娘御は、到底人に自慢できるような女ではないらしい。当てが外れたというところか。とすると玉鬘の姫ならば、諸手を挙げて大歓迎だね。少なくとも軽い扱いはしないだろう。内大臣は白黒はっきりさせないと気が済まない、わかりやすい人だから、良ければ手放しで褒めちぎるし悪ければボロカスに貶しまくる。私が『娘を見つけ出した』から真似したんだろうけど、真相を知ったらきっとメチャクチャ腹立たしく思うんだろうな)

 想像すると思わず顔が緩んでしまう。

(一切情報を漏らさないまま、いきなり『実は君の娘なんだよ』とやったら、どれだけ驚くかな。感激の余り泣き出しちゃうかも。念には念を入れて、油断なくしっかりお世話することとしよう) 


 暮れかかる頃に吹く風はたいそう涼しく、みな何をするでもなくまったりと佇んでいる。主である自分がここにいる限り、若い客たちは帰るに帰れないだろうと、ヒカルは立ち上がった。

「私はそろそろ失礼するけど、皆いつまででも好きなだけ気楽に涼んでいたらいい。若者に交じり続けるのも似つかわしくない歳になってしまったからね」

 西の対に向かうヒカルに夕霧が付き従う。そこに弁の少将と藤侍従が揃って「お見送りを!」と駆け寄る。何が目当てなのかは明白だった。

 黄昏時の薄闇の中、三人とも同じような直衣姿なので遠目には誰が誰とも区別がつかない。ヒカルは奥に入って玉鬘の姫君に囁く。

「もうすこし外においで。実は内大臣のご子息の弁の少将と藤侍従が、夕霧と一緒に来ている。二人とも今すぐにでも貴女のもとに馳せ参じたいと思っていたようだけど、お堅い夕霧がなかなか気を利かせないものだから、私が連れて来てしまったよ」

 外にいる三人を、あれが次男の弁の少将、そちらが三男の藤侍従と教える。

「二人とも貴女のことが気になっているんだよ。大したことの無い身分の女でも、家の奥深くで大事にお世話されていればそれなりに気持ちを惹かれるものだから、まして我が家などはとんでもなく大袈裟なものに思われているらしい。実際は血筋も何もバラバラで、男が恋を仕掛けるに相応しい妙齢の娘は貴女が初めてなんだけどね。こうなってみると、女に言い寄る男の気持ちの深さ浅さがよくわかって、長年の望みがかなったような気がするよ」

 庭先にはただ撫子の花だけが整然と植えられている。唐撫子、大和撫子の垣は誰もが目を留める美しい造りで、夕映えに咲き乱れている。三人とも無下に花を手折ることもなくゆったりとその場に佇む。

「なかなかの嗜みだな、それぞれに立派な心がけだ。今日は来ていないが、貴女に手紙を寄越した長男の右中将はなお落ち着きがあって、こちらが気恥ずかしくなるほどの品格がある。あれ以来文はやり取りしてる?あまりそっけなく突き放し過ぎないようにね。それにしても」

 三人の中でも夕霧中将は際立って美しく、身のこなしも優雅に見える。

「あの夕霧を厭うなどと、内大臣にも困ったものだ。藤原の一族ばかりで繁栄しているから、皇孫の血筋の『大君』はお呼びでないのかな」

「……何故なのでしょう?『大君来ませ 婿にせむ』というものではありませんの?」

「何も『御肴』で存分にもてなせ、と望んでいるわけではないんだよ。ただ幼い者同士が契りあった心が解けないまま、長いこと仲を裂いているというそのお心向きがね。どうかと思うよ。夕霧がまだ身分が低くて世間体が悪いというなら、知らぬ顔で此方に任せてくれれば万事解決なのに」

 ヒカルのこの何げない愚痴は、玉鬘に少なからぬ衝撃を与えた。

(そんな揉め事が……これではわたくしが父君とお逢いできるのは本当にいつになるやらわからない)

 しみじみ悲しく、胸が塞がるばかりの玉鬘であった。

 月も出ない頃なので、燈籠に火を入れた。

「夏はやはり灯りが近すぎると暑苦しいな。篝火のほうがよい」

 ヒカルは人を呼び、篝火の台を設えさせた。美しい和琴があるのを引き寄せて掻き鳴らしてみると、律の調子によく整えられていて音色もよい。すこし弾くと玉鬘が聴き入っているのに気づいたヒカル、

「ほう、この方面のことは興味がないかと今の今まで思い込んでいたよ。和琴って奥が深いとまではいえないけど、秋の夜の月影が涼しい頃、虫の声に合わせて掻き鳴らすのにはちょうどいい。気軽に楽しめてなお華やかさもある楽器なんだよ。改まった演奏の場合はどうも扱いが定まらないけどね」

 嬉々として説明を始めた。

「和琴は、これ一つで沢山の楽器の音色や拍子を調えているところが優れてるんだよね。大和琴って聞くと大したことないみたいだけど、極めて精巧に作られてる。元々、外国のことなんて何も知らないっていう女性のための楽器だと思う。同じことなら、ちょっと頑張って他の楽器に掻き合わせる形で習うといいよ。深い心というほどのものはないけど、だからといって完璧に弾きこなせるかっていうと、難しい。今はあの内大臣に並ぶ者はいないだろうね。本当に繊細な、ちょっとした菅掻きの加減で、あらゆる楽器の音色が得もいわれぬ音で響き渡る感じなんだよね」

 玉鬘も少々だが琴の心得があり、もっと上達したいと常々思ってはいたので、強く興味を惹かれたようだ。

「六条院で、何かの管弦の遊びがある折にでも聞く事ができましょうか?和琴は田舎でも習う人が大勢いるようですから、総じて気楽に弾けるものとばかり……お上手な方はまるで違っているのでしょうね?」

「そうだね。和琴は東琴ともいうから鄙びたイメージを持つ人もいるんだけど、御前での管弦の遊びといえばまず和琴。異国はいざしらず、わが国では和琴を楽器の第一としているんだよ。その中でも第一人者の内大臣から直接習い取られたら、それは素晴らしいだろうね」

「はい。是非一度聴いてみたいと思います」

「あの方はこちらにもいらっしゃることはあるだろうが、どうだろう……和琴の技巧を惜しげも無く披露する、なんてことは滅多にないかもしれない。物の名人というのは、得てして気安くは手の内を見せないものだから。まあ、そのうちきっと聴く機会も巡ってくることでしょう」

 ひとしきり語り終えるとヒカルは和琴で楽曲を弾く。その姿はたとえようもなく素晴らしく、今風で洒落ている。

(この音色よりも勝るとは、いったいどれだけ凄い演奏をされるのか……わたくしの父君は。こんな風に目の前で、くつろいでお弾きになるのを聴ける日は来るのかしら)

 玉鬘の気持ちを知ってか知らずか、ヒカルは「貫河の瀬々の やはら手枕」という催馬楽を軽やかに謡う。「親離くる夫(つま)」の下りでは少し笑いながらも、何気なく弾きこなす菅掻きの音はえもいわれぬ美しさである。

「さ、貴女も弾いてみなさい。こういう芸事は人前だからと恥ずかしがっちゃダメだよ。女が夫を思う『想夫恋(そうぶれん)』だけは心に秘めて紛らわす人もあったみたいだけど、総じて遠慮なく、誰彼となく合奏した方が絶対いい」

 ヒカルはしきりに勧めるが、玉鬘にしてみればあの辺鄙な田舎で、「皇孫筋の京の者」と自称する老女から少しばかり教わった程度なので全く自信がない。ただただ気おくれして、手さえ触れられないでいる。

「あとほんの少し弾いていただければ……僅かなりとも理解できるやもしれません」

 玉鬘は和琴に目を奪われていざり寄る。

「如何なる風が吹けば、この弦からあんな素敵な音色が出るのかしら……」

 うっとりと眺めるその姿が火影に映え、殊の外愛らしい。ヒカルは笑って

「耳聡い貴女のためには、身にしむ風も吹き添うでしょう。さあ」

 と和琴を押しやる。

 女房達がすぐ近くに控えているので、いつものように戯れかかることは出来ない。

「おや、撫子を充分に鑑賞もしないまま、あの三人は立ち去ったとみえる。何とかして内大臣にもこの花園をお見せしたいものだ。世は無常、昔のことも何かの折に語ったことも、たった今のように思える」

 遠回しに玉鬘への愛しさを口にする。

「撫子の花の色のようにいつ見ても美しい貴女を見ていると

もとの垣根……母の行方を内大臣も尋ねずにはおかないだろう

 このことがどうしても気がかりでならない。『繭ごもり』、ひた隠しに隠したままなのも気の毒でね」

※たらちねの親のかふこの繭ごもりいぶせくもあるか妹に逢はずして(拾遺集恋四-八九五 柿本人麿)

 姫君は涙ぐんで、

「山がつの垣根に生えた撫子のような

私の母親など誰が尋ねたりしましょうか」

 と返す。取るに足りぬ者ですから、と謙遜するさまは如何にも若やかで健気である。

「もし来なかったなら」

 ヒカルは謡を口ずさみながら、

(これはまずいな。かなり重症かもしれない)

 玉鬘への思いが狂おしいまでに膨れ上がっていることをはっきり自覚する。


 玉鬘のもとに渡るのも、女房達の手前あまり頻繁にはならないように自制してきた。ただ、なんだかんだと用をこじつけて文のやり取りは絶やさない。このままの関係で自分を抑えきれるかどうかは、我ながら心許なかった。

(なんで私はこういうしなくていい、というかしちゃいけない恋をして、心の休まらない物思いをする羽目になるのか。そんな苦しい思いはしたくないから心の赴くままに!ってやっちゃったら世間の誹りを受けるのは必至。私は何言われたってどうってことないけど、まだ若い玉鬘の姫には気の毒すぎるよね。いくら好き!愛してる!っていっても、紫上と同等の扱いに出来る?っていったら、正直ありえないし)

(だからといって下の待遇にするっていうのもどうよ。玉鬘自身は誰より若くて綺麗なのに、数多の女君や女房たちの中で不安定な末席とかじゃ可哀想すぎる。そんなことになるくらいなら、どうってことない大納言程度の男でも、たった一人の妻とする!っていう方がよっぽどいいよね)

 ヒカル自身、玉鬘を手に入れることは無理があると承知している。

(いっそ兵部卿宮か、鬚黒右大将のどちらかに許してしまおうか。否応なしに自分も離れざるを得なくなるし、姫も連れていかれちゃったら諦めもつく。今更だけど本気で考えてみるか……?)

 だが、いざ玉鬘のもとに渡り顔を見てしまうとその心は挫けてしまう。まして今は琴を教えるという口実もあって、以前より傍近く、常に寄り添っている。

 姫君の方も、初めこそ気味も悪く嫌悪感が強かったが、

(距離が近すぎとはいえ穏やかでいらっしゃるし、心配するほどのお気持ちではないのかも)

 とだんだん慣れてきて、強く嫌がることはなくなった。折に触れての手紙も馴れ馴れしくない程度に取り交わす。良い感じに緊張がほぐれたことで、若い姫はいよいよ可愛らしく、華やかさも増して魅力的である。

(ああ、やはり他の誰かと結婚させるなんて無理すぎ。とても諦めきれない)

 堂々巡りであった。

それならば、結婚後もここに置いたまま大事にお世話して、折々にこっそり逢ってお話して、心を慰めることにしようか。男というものを全く知らないうちに口説くのはさすがに可哀想だし、絶対面倒なことになる。『関守』、つまり夫が手強くとも、玉鬘自身が男女の情を心得るようになればこちらも気楽だし、人目を気にせず存分に『思い入る』こともできよう)

※人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ(古今集恋三-六三二 在原業平)

※筑波山葉山繁山し茂けれど思ひ入るには障らざりけり(新古今集恋一-一〇一三 源重之)

 身勝手もここに極まれりだが、実際にはますます気が気でなく、恋し続けるにも辛い。程々に思い諦めることがとにもかくにも出来そうにもない、世にも珍しく厄介な二人の間柄であった。

参考HP「源氏物語の世界」他

<常夏 二 につづく


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