野分 一
八月、秋好中宮が六条院に里下がりした。秋の町は今まさに盛り、さまざまな色や種類の花、枝葉、黒木や赤木を結いまぜた籬など、殊の外みごとな眺めである。朝夕の露も玉と輝く野辺を見渡すと、春の錦とはまた違うしっとりとした面白さで、心も浮き立つようだ。春には春の町、秋には秋の町、と手のひらを返すように皆が心移りするさまは、時勢におもねる世の有様にも似ていた。
このようなまたとない秋の趣、管弦の遊びなどで飾りたいところが、八月は故前坊……中宮の亡父の忌月に当たっているため、ただ心静かに眺めを楽しんでいた。そこに、例年になく激しい野分が到来したのだ。
花々が萎れたり枯れたりするのはさして気にもならない女房達も、強風にあおられ吹き散らされる花や草木には哀れを覚えた。「散りしきる春の花を覆うばかりの袖」はこの秋の空にこそ欲しいところだ。暮れゆくにつれ、視界がきかないほど荒れてきたので、格子などはすべて下ろしたが、中宮は花の身の上を案じ心を痛めていた。
※大空をおほふばかりの袖もがな春咲く花を風に任せじ(後撰集春中-六四 読人しらず)
南の御殿でも、前栽の手入れをしていたちょうどその時に吹きはじめた。「もとあらの小萩」が待っていたにしては激しすぎる風に、枝も折れ曲がり露も弾け飛ぶ。そのすさまじさに目を引かれてか、紫上はいつもより端近に出て来ていた。
※宮城野のもとあらの小萩露を重み風を待つごと君をこそ待て(古今集恋四-六九四 読人しらず)
ヒカルがちょうど明石の姫君のところにいた頃合いだ。誰もが外の強風に目も耳も奪われて、いつの間にか妻戸が開いていたのにも、夕霧中将が様子を見に来たのも、まったく気づいていなかった。夏の町から東の渡殿に出ると、小障子の上からちょうどその辺りが見通せる。元より立ち居振る舞いの静かな夕霧なので気配も感じさせなかった。
屏風はすべて押し畳んで隅に寄せてある。何の障害物もなく、廂の間の御座所に座っている姿が素通しで見えた。他の女房たちとは見間違えようもない。気高く清らかで、そこだけ光り輝いている。
(おお、あれが……紫上?!)
まるで春の曙の霞の間から、咲き乱れる樺桜を見るようだ。遠目にみているこちらにも降り注ぐようなその魅力に、息をのむ夕霧。
御簾が吹き上げられるのを必死で押さえている女房達の傍らで、ふと微笑んだその顔は輝くばかりに美しい。花が心配なのか、中々奥に入ることが出来ないでいるようだ。他の女房達もそれぞれに小奇麗な姿ではあるが、到底比べ物にはならない。
(父君がここに私を絶対に近づけないのは、こんな……観た者の心をこれほどまでに動かす人がいらっしゃるからか。大らかにみえてかなり慎重なご性質だから、万一にも覗かれるようなことがあってはと懸念されていたんだな。もし……私が此処にいることがバレたら)
恐ろしくなった夕霧が立ち去ろうとしたちょうどその時、西の方から内障子を引き開けてヒカルが入って来た。
「これはひどい、うっとうしい荒風だ。御格子を下ろせ。その辺りに男どももウロウロしてるんだから」
思わずまた近寄って見ると、紫上が何かを話しかけ、ヒカルも笑ってその顔を見ている。わが親ながら信じられないほど若々しく美しく優雅で、まさに男盛りといった姿、その隣にいる紫上もしっとりした大人の女性といった風情で、何一つ不足のない完璧な一対であった。
夕霧は身に沁みるほどの感動を覚えるが、今立っている渡殿の格子を突風が吹き上げた。このままでは丸見えになってしまうと慌てて立ち退き、いかにも今来たと言わんばかりに咳払いしつつ簀子の方に歩き出すと、ヒカルの声が聞こえる。
「そらごらん、誰か来た。見えてしまったかもしれない」
妻戸が開いていたことに誰か気がついたのだろう、閉められてしまった。
(今日の今日までこんなことは露ほどもなかったのに。風こそはまさに巌も吹き上げてしまう力を持つものなんだな、あれほど用心深い人たちの心をも余所に向けたんだから。滅多にない、嬉しい目をみたものだ)
密かにこの野分に感謝したくなる夕霧だった。
家司たちがわらわら春の町のヒカルのもとに集まって来た。
「これからますます酷くなりそうな風の勢いでございます。丑寅(北東)の方から吹いてきますのでこちらの庭先は静かですが、夏の町の馬場御殿、南の釣殿などは危なそうです」
六条院内は暴風対策の作業に大わらわとなった。
「夕霧はどこから入ってきた?」
何気なく聞いてきたヒカルに、夕霧は素知らぬ顔で冷静に応える。
「三条の宮におりましたら『酷い風が吹き出した』と聞きましたので、気になって参上いたしました。あちらは人も少なく心細いのと、お祖母さま……大宮さまが今は幼い子のように風の音を怖がられるので、もう失礼して戻ろうかと」
「そうだね、早く行ってあげなさい。歳は取るばかりで再び若返ることはありえないが、老人は得てして子供返りをするものだからね」
と同情しつつ、手紙も持たせた。
真面目で几帳面な夕霧なので、常々祖母のいる三条宮邸と六条院と両方ともに参上し、顔を出さない日はない。内裏の物忌などでどうしても宿直せねばならない日以外は、公事や節会などが立て込んでも、真っ先に六条院に参上し三条宮から出仕する。まして今日のような空模様、激しく吹き荒れる風よりも先に立つ勢いであちらこちらと動き回るさまは、いかにも孝心深く見える。
大宮はもちろんたいそう喜んで待ち受けていた。
「この年になるまで、未だこんなに激しい野分には出会わなかったわ……大きい木の枝などが折れる音も気味が悪いしおそろしい。御殿の瓦さえ残らず吹き飛ばされる風の中、よくぞおいでくださいましたこと」
ガタガタと震えながら訴える。祖父の太政大臣が健在だった頃は栄えに栄えていたこの三条宮邸も今は昔、ひっそりと寂れている。もちろん名家としての世間の声望が揺らぐことはないが、大宮にとっては孫の夕霧一人だけが頼りだ。息子の内大臣とは雲居雁の件以来すっかり疎遠にしていた。
夕霧は一晩中激しく吹きすさぶ風の音を聴きながら、何とはなしに胸が騒いで眠れない。いつも心にかけて恋しく思っていた雲居雁の姫君のことが差し置かれて、先ほど春の町で垣間見た面影が頭から離れない。
(これはいったいどうしたことだ。相手は父君の、畏れ多くも太政大臣の最も寵愛する妻。こんな風に思い出すことすらありえない、恐ろしいことだ)
強いて他の事を考えて気を紛らわせようとするが、ふとした時にやはり心にちらついてしまう。
(昔も、きっと将来にも、滅多にお目にかかれない素晴らしい方でいらした。あのような非の打ち所の無いご夫婦に、どうしてあの夏の町の……花散里の御方が妻の一人として肩を並べられたんだろう、まるで比べ物にならないのに。なんともお気の毒な……いやそうじゃない。父君が凄すぎるんだ。懐が大きい)
(同じ結婚するなら、あんな美しい方をこそ妻にして、日がな一日見て暮らしたいな。限りある命もそれだけで延びるんじゃないかな)
人柄が誠実で堅物な夕霧なので、不埒なことを考えたり、まして実行に移したりは決してしないが、そこはまだ十五歳の若者、紫上の美しさを忘れ去ることは無理だった。
明け方に風が少し湿気を含み、村雨のように降り出した。
「六条院では離れた建物が幾棟か倒れたそうな」
などという話が流れてきて、夕霧ははたと気づいた。
(広々と高さのある六条院で暴風が吹き巻いたらどうなるだろう。父君のいらっしゃる春の御殿辺りには家司たちが大勢詰めていようが、夏の町、特に東の対などは人も少なかろう。どれほど心細いことだろうか)
まだほんのり夜が明けるか明けないかのうちに、花散里のもとに向かう。
道中は横なぐりの雨が酷く冷たく吹き込む。空模様もおどろおどろしいせいか、何とはなしに魂も抜け出るような心地がする。
(なんだこれは。何かまた悩みの種が加わった気が……いや無理だから絶対!ああ、もうどうかしてる)
モヤモヤを振り払いつつ東の対にまず参上し、すっかり怯えきっている花散里の御方を慰め、人を呼び集め、修繕すべき箇所を命じおき、南の御殿へと移動した。此方はまだ格子も上げていない。
仕方がないので近くの高欄に寄りかかりながら見渡すと、築山は木が何本もなぎ倒されて、枝も多数折れて落ちている。草むらはいうに及ばず、桧皮、瓦、あちこちから立蔀、透垣などの一部が飛んで散らばっていた。
日がわずかに差し出した頃、憂い顔をしていた庭の露がきらきら光り輝き、空には寒々と霧がかかっている。わけもなく涙が落ちたが、拭い隠して咳払いをすると
「おお、夕霧中将がご挨拶だ。夜はまだ深かろうに」
と微かにヒカルの声がした。何を話しているのか、ヒカルの笑い声がして、
「貴女には昔にも味あわせることのなかった暁の別れというやつだね。今更経験されるとはさぞかし辛いでしょう」
などと暫くの間二人が語らう気配に、夕霧は強く心を引かれる。女君の答えは聞こえないが、ほのぼのと戯れかかる言葉の端々から、
(なんと、揺るぎない夫婦仲よ)
と聞く。
ヒカルが手ずから格子を引き上げる。
(しまった、近くに寄りすぎていた)
夕霧は慌てて引き下がりかしこまった。
「どうだった?昨夜は。大宮はお待ちかねだったろう。お喜びになったか」
「はい。ただちょっとしたことでも涙もろくなられていますので、中々大変でございました」
「はは、それはご苦労なことだった。だがあの方ももう残り時間はさほど残っていないからね、よくよくお世話して差し上げるといい。『息子の内大臣には細やかな情愛がない』とよく愚痴をこぼしていらした。確かにあの人は、妙に派手好きで、男のメンツ的なことに拘るようなところがあるんだよね。親孝行も見た目重視で、世間を驚かしてやろうっていう気持ちが先に立って、真実心にしみるような深い情愛を示す、なんてことはない。一方で腹の中は見せないことの方が多いんだよね。とても賢い人なのは確かだ、この末世では過ぎるほどの学識はある、それはもう嫌味なほどに。まあ難のない人というのは中々いないものだよ」
どう返事をしていいかわからず困惑する夕霧をよそに、ヒカルはさらりと話を変える。
「それにしても酷い風だった。秋好中宮の御方には、しっかりした宮司などは控えていたかな。使者として秋の町の様子を見に行ってくれないか?
『昨夜の風の音はいかがでしたでしょう。吹き乱れておりましたが、あいにく風邪をひいたようでしんどいものですから、養生しております』
とでも伝えてくれ」
夕霧中将はヒカルのもとを辞して、春秋の町の境、中廊の戸を通って秋の町へ向かった。朝日を受けたその姿は凛々しく美しい。東の対の南側に立って寝殿の方を窺うと、格子はやっと二間ばかり上げたところだ。まだほの暗い朝ぼらけ、御簾を巻き上げて女房達が座っている。若い女房達が大勢高欄に寄りかかっている。どんなに気を抜いていようと、早朝の淡い光の下では、色とりどりの衣装を着た姿は誰も彼も良さげに見える。
童女が庭に下りて、虫籠の虫に朝露を含んだ草を与えている。紫苑、撫子、濃き薄き色とりどりの衵の上に、女郎花の汗衫といった季節に相応しい衣装で四、五人連れだち、あちこちの草むらに近づく。持ち歩く籠も色とりどり、撫子などの可憐な枝を幾本も取って献上する。霧にさまよう色彩ははなやかに美しい。
吹き来る追い風は、紫苑の花がことごとく匂う空も、香のかおりも運ぶ。中宮が触れられた移り香かと思うとまことに慕わしい。
(御前だ。気持ちを引き締めないと)
夕霧は小さく咳払いして歩み出た。女房達はさり気なく奥へと入っていく。
中宮が入内された頃、夕霧は童殿上していた。御簾の中にも普通に出入りしていたので、女房達も気安いものだ。見舞いの言葉を伝えた後は、宰相の君や内侍などとひそひそ話す。こちらはこちらで格式高く暮らしているので、幼い頃のさまざまなことを思い出す夕霧であった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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