野分 二
夕霧が南の御殿に戻って来ると、格子は全部上げられていた。こちらの庭でも花々が見る影もなく萎れて倒れている。夕霧は階段に控えて、ヒカルに秋好中宮の返事を申し伝える。
「荒々しい風を防いでくださいましょうかと子供のように心細くおりましたが、今はもう安心しました、とのことです」
「ほう、妙に気弱いことを仰る。昨夜の様子では確かに、女ばかりでは空恐ろしかったに違いない。実に粗略な扱いともお思いになったのかもしれないね。よし、私も参上するとしよう」
ヒカルは身づくろいをしようと、御簾を引き上げて中に入った。低い几帳を引き寄せたときにちらと見えた袖口、
(きっとあの方だろう)
そう思っただけで胸がドキドキ高鳴り出す夕霧。どうにもきまり悪くなり、視線をそらした。
ヒカルは御簾の奥で鏡を見ながら小声で紫上に話しかける。
「夕霧の朝の姿は美しいな。まだ十五で幼いはずなのにいっぱしに見えてしまうのは、親ばかなのかね。ま、私ほどじゃないけど」
鏡の中の自分に見惚れつつ、
「それにしても中宮にお目にかかるのは中々面倒だな。特に目立って嗜み深いというわけでもないんだが、意識高くて気遣いなお人柄だから。おっとりして女らしい見た目の裏に、何か一物ありそうでね」
などと愚痴りながら外に出る。夕霧中将は思いつめたような顔でぼんやりしていて、ヒカルが出て来たのにも気づかない。察しのいいヒカルの目にはどう映ったか、御簾の内にそっと引き返した。
「あら、どうなさいましたの?」
「やっぱり昨日、あの暴風騒ぎのドサクサで夕霧に見られたんじゃないの?ほら、妻戸も開いてたし」
紫上はさっと顔を赤らめて、
「いやですわ、どうしてそんな。渡殿の方では物音ひとつしませんでしたのに」
と応える。
「そう?んー、何かヘンな感じがするんだよね」
などと独り言をいいつつも、夕霧を連れて秋の町へと渡った。
ヒカルが御簾の内に入ってしまったので、夕霧は渡殿の戸口辺りに寄って知り合いの女房達と軽口をたたくが、心に抱えるモヤモヤが晴れずイマイチ盛り上がらない。
秋の町からそのまま北の町へ抜けて、明石の御方を見舞う。家司らしき者は見当たらないが、物慣れた下仕えたちが草むらを踏み分けて片付けに勤しんでいる。丹精込めた竜胆、朝顔の蔓が這いまつわる籬もみな散り乱れてしまった。美しい衵姿の童女たちがのんびりと、蔓を引っ張ったり花を拾い上げたりしている。
明石の御方は何となく物悲しい気分で、筝の琴をもてあそびながら端近に座っていた。糊気のない着馴れた普段着姿だったが、ヒカルの来訪を告げる前駆の声を聞くや、衣桁から小袿を引きおろしさっと羽織って出迎えた。この辺りはさすがに抜け目ない心構えである。ところがヒカルは奥にも入ることなく、端の方から型通りの見舞いの言葉だけをかけて、あっさり帰ってしまった。
「ただ普通に荻の葉の上を通り過ぎる風の音も
つらいわが身にはしみいるような心地がして」
と恨みがましく独りごちる明石の御方であった。
夏の町の西の対では、みな風の音に怯えてまんじりともせず夜を明かした。そのせいで寝過して、今やっと鏡の前で身づくろい中だ。
「仰々しく先払いはするな」
というヒカルの言葉で一行はしずしずと近づく。屏風など畳んで端に寄せたままの御簾の内で、日の光が玉鬘の姿を明るく照らし出し、その美しさを際立たせる。ヒカルは例によってすぐ近くに腰を下ろすと、野分の見舞いもそこそこに鬱陶しく戯れかかる。玉鬘は眉間に皺を寄せて言う。
「こんな情けない目に遭うのなら、昨夜の風と一緒に飛んで行ってしまいとうございました!」
「ははは、面白いことを言うね。風と一緒に飛んで行くなんて随分軽はずみじゃない?とはいえ飛びっぱなしではいられない、いつかどこかに落ち着くよね。だんだんこういうお心向けが出て来たということ?なるほどそりゃ正しいね」
この手のかけあいでヒカルに敵うわけがない。玉鬘は自分でもおかしくなってつい笑ってしまった。その顔は酸漿(ぬかずき:ほうずき)のようにふっくらとして、髪の隙間からほの見える肌はつやつや輝くようだ。目元はいささか陽気すぎるようにも見えたが、その他は非の打ち所がない。
御簾の外で待機している夕霧にも、楽し気な様子は伝わってくる。
(何とか此方の姫君のお顔も見てみたい)
二人のいる隅の間の御簾をそっと引き上げて覗く。奥に几帳は立ててあったものの位置取りが適当で、他に障害物もなくほぼ素通しで見えた。
(……え、ちょっと待て。いくら親子でもこんな……近すぎない?)
見つからないかと気が気ではなかったが、あまりの光景に目を離すことができない。柱の蔭にいた玉鬘が背中側からヒカルにぐいっと引き寄せられ、長い髪がさらりと揺れてこぼれかかった。嫌がっているようにも見えたが、それでも強く抵抗するでもなく大人しく背中から抱かれるままにいる。
(何だこれ……今日初めてって感じじゃない。親密すぎ。ていうか、完全に恋人抱っこだよねアレ。ドン引き。いやマジでどういうこと?綺麗な女子は身分関係なく見逃さない父君だから、最初から育ててなくて自分の子っていう実感がない娘にはその気にもなっちゃうのかな……男だからある程度仕方ないのかもしれないけど、いやちょっと無いわ流石に)
(父君でこれなら、自分は?きょうだいといっても異腹だし少し遠いし……って、いやいやいや何考えてんだ。ありえないでしょ)
ふと浮かんだ邪念を慌てて振り切る。
(それにしても綺麗な人だな。昨日見たあの方には及ばないけど、ひと目で惹かれる感じは互角かも。今を盛りと咲き乱れる八重山吹に露のかかる夕映えのような)
すっかり詩人と化す夕霧。晩秋の今では季節外れの例えだが、脳裏に描いたイメージは如何にもピッタリ嵌るような気もした。ただ花の命は短く、割れてそそけた蕊(しべ)なども目に入る。今現在の玉鬘は何にたとえようもない。
普通なら近くに控えているはずの女房たちは誰もいない。出て来る気配もない。二人だけでこそこそと話すうち、ふいに姫君がすっくと立ち上がる。
「吹き乱す風のせいで女郎花は
萎れ死んでしまいそうな気がいたします」
はっきりは聞こえないが口ずさんだ歌の内容は何とかわかった。
(何かを拒絶したんだろうか。面白くなりそうだけど、顛末を見届けるまで此処にいたら、あの勘のいい父君にはきっと悟られてしまう。残念だけど、さっさと退散した方が良さそう)
夕霧はさり気なくその場を去った。
ヒカルの返歌は、
「下葉の露に従う女郎花ならば
荒い風には萎れないでしょう
どんな風にも折れぬなよ竹をご覧なさい」
であった。今日のところは完敗といった体である。
ヒカルは最後に東の対、花散里のもとに渡った。
今朝の肌寒さのせいか、すわ冬支度とばかりに各々仕事に勤しんでいる。御前では古女房達が大勢で縫い物をし、端の方で若い女房が細櫃らしきものに真綿をひっかけて伸ばしていた。季節柄に合った美しい朽葉色の羅や、流行りの色目を見事に艶出しした布など、一面に引き散らかされている。
「そちらは夕霧の下襲か。しかしこの野分の後では、御前の壺前栽の宴もきっと中止になろう。これだけ何もかも吹き散らされたのでは何もできないね。つまらない秋になりそうだ」
ヒカルは言って、様々な色遣いが美しい着物に目を留める。
「素晴らしい。この染めの技は南の御殿にも負けないね」
「ありがとうございます。そのお直衣の花文綾(けもんりょう)、近頃摘んで来た花で薄く染め出しました」
「なんと繊細な色目だろう。夕霧にこういう直衣を着せてやるといい。若者にこそ似合いそうだ」
などと褒めそやし、帰っていった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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