篝火
「内大臣が最近引き取った姫君」、近江の君の噂はあちこちに広まっていて、時折ヒカルの耳にも届く。
「うーん。よくわからないけど、人少なな田舎で平穏に暮らしてた娘さんを、色々こじつけて鳴り物入りで引き取って、女房として人前に引きずり出して、挙句アレコレ言いたい放題に言われちゃう、ってどうなのよ?内大臣は昔からやたらと私に対抗心を燃やす人だから、深くも調べず突っ走ったんだろうけど、思ってたのと違う!ってなったときにどうするか考えてなかったんだね。やり方ひとつで、もう少し慎重に事を運ぶこともできたろうに。今はどちらにとっても、逢わない方がマシだったって状況だよね」
酷い内容の噂と、ヒカルの言葉に玉鬘は震える。
(わたくしも……実の親とは申せ、人となりも、長年どう思われていたのかも知らないままお傍に上がっていたら、近江の君と同じような辱めに遭っていたのかも……)
右近も何かにつけて言い聞かせる、
「ほんに、六条院においでになってようございました」
と。
「父親」ではないヒカルは、気持ちのままに突っ走ることはしない。ただいや増すばかりの愛情に、姫君の方も徐々に馴染みほだされていく。
秋になった。
初風が涼しく吹き出して物寂しい折節、ヒカルは切なさを胸に頻々と玉鬘のもとに渡り、琴を教えるという名目で一日中入りびたる。
五、六日の夕月はすぐに沈み、夜空には薄く雲がかかる。風が荻の葉をかさこそと揺らす。
二人は琴を枕に添い伏している。まったく親子の姿ではない、しかし夫婦でも恋人でもない。世にも珍しい関係。
溜息とともに夜は更けていくが、琴の音が消えてから間が空きすぎた。そろそろ女房たちも不審に思うだろう。ヒカルは立ち上がり、供人の右近大夫に命じて庭の篝火を点け直した。こちらに渡る際に消えかけていたのが気になっていたのだ。
涼し気な遣水のほとりに、風情ある様に枝を広げる檀の木。その下にさり気なく積み置いた松の割木の少し後ろに篝火がある。御前の辺りまでは熱は届かず、明るさも良い加減で、ほんのりと光に映える玉鬘の姿は見れば見る程美しい。手に触れる長い髪は凛として冷たく、身を固くして恥じらうさまもたまらなく愛おしい。帰るに帰れないヒカルは、再び右近大夫に命じる。
「誰か火の番をせよ。夏の月のない頃は、庭に篝火の光がないと薄気味悪いし不用心だから」
そのまま玉鬘の耳元にそっと囁く。
「篝火とともに立ち昇る恋の煙こそ
永遠に消えることのない炎、私の心です
いつまで待てと仰るのか。燻る火ではないが苦しき下燃えだ」
玉鬘は、
(やっぱりこんなことはおかしい)
と内心思いながら詠み返す。
「行方なき空に消してくださいませ
篝火とともに立ち昇る煙と仰るなら
……人が怪しみましょう」
ヒカルもさすがに潮時と、「さて」とばかりに外に出る。と、東の対から美しい笛の音が筝の琴と合わさって聴こえてくる。
「ほう、夕霧中将がいつもの面々と合奏しているな。あの笛は頭中将だろう、まことに見事な音色だ」
思わず立ち止まって聞き惚れるままに、
「西の対にて、涼し気な篝火の火影に引き留められています」
と文を書いて遣ったので、夕霧と内大臣の長男・次男が連れ立ってやってきた。ヒカルは、
「秋の気配は風の音に知るというが、聞こえてきた笛の音が堪えられなくてね」
と、琴を取り出して軽やかに弾き始める。夕霧が「盤渉調(ばんしきちょう:冬の調子と呼ばれる)」に合わせ美しく笛を吹く。内大臣の長子たる頭中将は気後れして謡いだせない。ヒカルが「遅い」と促すと、次男の弁少将が拍子を打ちつつゆったりと、鈴虫とみまがう美声を響かせる。二度ほど謡わせて、和琴を頭中将に押しやった。名手である父大臣のつま弾く音に少しも劣らず、華やかで素晴らしい演奏である。
じっと耳を傾けているらしい玉鬘の気配をうかがいつつ、ヒカルが呟く。
「御簾の内には物の音を聞き分ける方がいらっしゃるかもしれないよ。今宵は、酒なども過さないようにしないと。盛りを過ぎた者は、酔い泣きしつつ言わなくてもいいことまで言ってしまうかもしれないから、ね」
親と同様、きょうだいの関係もまた切れることはない。玉鬘は人知れずこの弟たちの姿を見、話す声、謡う声、楽の音などを耳に留めているが、今此処にいる三人は知る由もない。特に以前玉鬘に恋文を出した頭中将は、このまたとない機会に胸を躍らせ、知らぬ顔を装うのに精いっぱいである。琴を弾くのも気楽にとはいかず、内心緊張しきっている。
月なき秋の夜を照らす篝火は、それぞれの心も知らずただちらちらと揺れるばかりであった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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