蛍 四
端午の節句が過ぎた五月雨の頃、例年になく長雨が続いた。少しの晴れ間もなく欝々と所在なさに沈みがちな中、六条院では方々で絵や物語などが大流行した。もとより紫上は大の物語好きである。春の町の女房達は日がな一日何かを書き写し、明石の御方からは春の町の姫君のために、ありったけの趣向を凝らして仕立てた絵草子が山と送り届けられた。
夏の町ももちろん例外ではない。田舎育ちの玉鬘にとってはまして「物語」自体珍しく、たちまち強く心を惹かれた。
(嘘か本当かはともかく、こんなにたくさんの物語の中にも、わたくしと同じような経験をした人はいないのだわ)
(『住吉物語』の姫君は、すんでのところで主計頭(かずえのかみ)の妻にされそうになった。あのおそろしい大夫の監を思い出す……やはり途轍もなく危ない状況だったのね。逃げ出せてよかった)
さまざまな物語に自らの過去を重ね合わせたり見出したりで、飽きることがない。
「やれやれ、どこにいっても同じ風景だね」
絵や物語が散らかる西の対をヒカルが覗きこむ。
「女性というのは、どうしてこうも人に騙されることを厭わない生き物なのかな。物語の中に真実なんて殆どないってわかってるでしょ?なのに絵空事にのめりこんで謀られながら、この蒸し暑い『五月雨の、髪の乱るる』も構わず書き写しているなんて」
※ほととぎすをち返り鳴けうなゐ子がうち垂れ髪の五月雨の空(拾遺集夏-一一六 凡河内躬恒)
女たちの間から少し笑いが洩れるが、誰も手を止めようとはしない。玉鬘も手元の冊子に目を落としたまま顔も向けない。
「まあずっと雨続きだもんね。実際こういう古物語でなくては慰められない退屈というのもある。虚構の世界なんだけど、ああそういうのあるある!ってぐっとくるようなことがつらつら語られてたりするし、かと思えばたわいもないことなのに何だか無性に心が騒いだり、可愛らしい姫君が物思いに沈んでるシーンだけで気持ちが引っ張られたりもするよね。えーこんなことあり?ナイナイ!大げさすぎ!って思うような突拍子もない話でもついつい引き込まれて一気読みしちゃったりして、後々落ち着いて読み返すと何でこんなのに?!ってイラっとしたりもするけど、やっぱり面白いじゃん!って思うことも多々ある。そうそう、最近女房たちが明石の姫に読み聞かせしてるのをたまに見かけるんだけど、すっごい上手い子もいるね?もしかして普段から嘘偽りが上手いのか、なーんてね。どうなんだろう?」
この言葉にはさしもの玉鬘も反応した。硯を押しやり、きっと顔を上げる。
「仰る通り、嘘偽りを口にすることに慣れた方だからこそ、そう汲み取られるのでしょうね。わたくしには真実のこととしか思えませんので、喜んで謀られ続けております」
「これは失礼、お好きなものをけなしてしまって無粋でしたね。そもそも物語というものは、神代の昔から世にあることを書き記してきたものだそうだ。『日本紀(日本書紀)』などはほんの一面にしか過ぎない。物語にこそ、理にかなった事柄が詳細に書いてあるのでしょう」
微笑みつつ持論を繰り広げるヒカル。
「誰それの話といっても、真実ありのままに全てを物語ることはまずない。良くも悪くも世に在る人の有様を……見るにも飽かず聞くにも余りある、後世にも語り伝えたい事を、心の中だけに留めがたくて、まず言の葉に置き換える。善きように言おうとする余り、善い事ばかりに偏って選り出したり、ウケようと思って荒唐無稽な悪のナントカをかき集めたり、と色々だけれど、すべてこの世にあるもので、どこか別の世界から降ってわいたようなものではないんだよね」
玉鬘は黙ってじっと聞いている。
「時代物は構成こそ今とは違うけれど、同じ日本国のことだからね。そりゃ時代の差はあるし、深さ浅さもあるけど、一概に全てを作り話と言い切ってしまうのもそぐわない気がするね。仏教においてもそう。まことに立派なお心で説き置かれた御法文にも方便というものがあって、悟りなき者はあちこち矛盾する箇所に戸惑うんだよね。特に『方等経(ほうどうきょう)』の中に多いけど、せんじ詰めれば結局同一の主旨に落ち着く。菩提と煩悩との隔たりって、物語の中での善人と悪人との違い程度のものなんだよね。言ってみれば、すべて何ごとも虚しからず、と」
物語は経典と同じように大したものだと持ち上げる一方で、
「ところで……今までご覧になった昔物語の中には、私のように律儀な痴れ者の話はあった?物語に出て来るどんな気難し屋の姫君も、貴女の心のようにつれなく、そら惚けてはいないと思うよ。さあ、私たち二人の仲を類まれなる物語として世に伝えようか」
とにじり寄りつつ囁く。玉鬘は顔を引っこめて答える。
「わざわざ物語になどしなくても、こんな珍しい関係は世の語り草となりそうなことでございましょう」
「珍しいとお思いか。なるほど、世にまたとない心地はする」
などと言いつつ、更に接近してしなだれかかるヒカル。
「思い余って昔の物語を探してみましたが
親に背いた子の例はありませんでした
親不孝は仏道でも厳しく戒めています」
詠みかけたが玉鬘は顔も上げない。その髪を撫でながら何だかんだと口説き続けるヒカルにたまりかねたか、やっとのことで口を開く。
「旧き物語を探して読んでみましたが、仰る通り
ありませんでした、この世にこのような親心は!」
見事な切り返し。さすがのヒカルも、それ以上は絡むことなくスっと離れた。この二人、これからどうなっていくのやら見当もつかない。
さて隣の春の町。紫上も姫君がせがむのにかこつけて物語に夢中である。「狛野(こまの)物語」の絵を、
「本当にうまく描かれているわ」
と感心しながら眺めている。幼い女君があどけなく昼寝をしている場面だ。
(まるで昔の自分を見ているよう。何も未来を知らなかったころの)
いつのまにかやってきたヒカルが言う。
「こんな子供同士がなんとませた振舞いを。私なんぞまだまだだね。世の語り草になりそうなほどの気の長さは、誰にも負けない自信がある!」
紫上は絵から目を離さない。
「姫君の前では、こんな色恋沙汰の物語など読み聞かせないようにね。秘めた恋ステキ!なんてことにはならないにしても、こんなことが世の中にはあるんだわ~なんて当たり前のように思われちゃ困る」
今さっきの夏の町での振舞いなど忘れたかのように、シレっと父親ぶりを発揮するヒカルに、何も知らない紫上が反論する。
「思慮の浅い方が軽がるしく物語の真似事をなさる、たしかに見るに耐えませんわね。でも『宇津保』に出て来る藤原の君の娘はどうでしょう?いかにも重々しい有能な方で過ちなどなさいませんが、そっけないお返事もそぶりもおよそ女らしさに欠けます。そういう方もある意味浅い方と言えるのでは?」
「実際、そういうものだよ。一人前にそれぞれ主義主張を異にして、加減というものを知らない。それなりの親が手塩にかけて育てた娘が、無邪気さだけが唯一の取り柄で後は足りないことばかり、なんてこともある。一体どう育てて来たらこうなるの?親何やってたの?ってなるのは困るよね。身分に相応しい品位があると思えるなら育て甲斐もあるし面目も立つ。だけどこっちが気恥ずかしくなる程皆に褒めちぎられてたのに、実際言ったことやったことが全然パっとしなかったら、メチャクチャみっともないよね。どうってことない人に娘を褒められたくないんだよ」
「……物語と何の関係があるのか今ひとつわからないですが、とにかく姫君が値踏みされるのがお嫌ということなのですね。随分とお気の早いこと」
紫上は半ば呆れ顔で、
「物語の中には意地悪な継母のお話も多いですが、姫君はちゃんと現実との区別はついておられますわよ。最近では『なんだか見え透いていて好きじゃない』なんてことも仰るから、厳選に厳選をした上で女房たちに書き写しや絵を描くのを頼んでいますの。さて、わたくしもそろそろ作業に戻らせていただきますね」
そう言ってまた絵草子などに目を落とすのだった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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