蛍 三
翌日は五月五日である。ヒカルは夏の町にある馬場御殿での催しついでに西の対にも渡った。
「昨夜の首尾は如何でした?兵部卿宮はけっこう夜更けまで粘ってらした感じ?あまり距離を縮めすぎないようにね、割とチャラいところもある人だから。女性の心を傷つけたり、過ちをしでかさないような男は滅多にいないものなんだよ」
などと、褒めるのかけなすのかわからない体で玉鬘の姫君にお説教するヒカルは、お肌ツヤツヤ目もイキイキで心底楽しそうである。色鮮やかなキラキラ衣に無造作に重ねた直衣の色合いも此の世ならぬ美しさで、人の手で染め出したものとも思えない。普通の色模様の衣裳だというのに見たこともない素晴らしさで、漂う薫りも雅やかである。
「何もなければ、手放しでウットリできるのに」
と姫君はこっそり溜息をつく。
兵部卿宮からお文が届いた。白い薄様で、とても優雅な筆跡である。見た目は美しいが、歌の出来はそれほどでもなかった。
「今日まで引く人もなく水の中に隠れて生えていた菖蒲の根のように
貴女に相手にされない私はただ声を上げて泣くだけなのでしょうか」
後々話の種にもなりそうなくらい長い長い菖蒲の根に結んであった。
ヒカルは一瞥して、
「今日中にお返事しとくんだよ!」
と出て行った。女房達もみな早く早くと急かすので、姫君はアッサリ薄墨で走り書きした。
「すっかり見せていただき、ますます浅く見えました
わけもなく泣くと仰るあなたのお気持ち
随分お若くていらっしゃること」
端午の節句の祝いで贈られた邪気除けの薬玉をひとつ選んで、手紙に添えて返した。
「ああ、やられた。とはいえそこまで筆は上手くないかな」
と宮も負け惜しみのように愚痴るのだった。
姫君は長年の辛苦の跡形もない暮らしで、心に余裕が出来たこともあり、
「同じことなら、誰も傷つけるようなことのないよう終わらせたいものだ」
と願っていた。
ヒカルはその足で、東の対の花散里のもとに立ち寄った。
「今日の左近衛府の競い弓ですが、夕霧中将が男連中を大勢引き連れて来るようなことを言っていたので、そのおつもりでいてください。日があるうちに揃うと思います。どういうわけか、いくら目立たないように内輪でと思っても、いつの間にか親王たちが聞きつけて見物にいらっしゃるんですよ。自然と大袈裟になりがちなんで、心の準備を」
花散里の御方は微笑んで頷く。
馬場御殿は夏の町の東側にあり、春と夏の町両方から見渡せる場所にある。
「若い女房達も渡殿の戸を開けて見物したら?今の左近衛府にはけっこうイケメン官人が多いよ。そんじょそこらの殿上人なんてメじゃないね」
ヒカルの言葉に、女房達は色めき立つ。
廊の戸口に青々とした御簾を掛け渡し、藍の裾濃の几帳をいくつも並べ立てた辺りを、童や下仕えたちが行き来する。下仕えは楝(おうち)の裾濃の裳と撫子の若葉色の唐衣で、端午の日の正装である。西の対から出て来た童女は四人、菖蒲襲の衵に二藍の羅の汗衫。東の対の童女は、濃い単衣襲に撫子襲の汗衫をゆったりめに着こなしている。それぞれが競い合うように行きかう様子は見応えがあった。
昼過ぎに夕顔中将が近衛府の官人を従えて内裏より退出して来た。夕霧についてきた若い殿上人たちは御簾の内の気配に視線をさまよわす。未の刻、ヒカルが馬場御殿に現れた頃には、兵部卿宮をはじめとした親王の面々も大勢集まっていた。競い弓は公式のそれとは趣向が異なり、中将や少将が入り乱れて身分の別なく一日を遊びつくす。
見物の女たちも細かい事はわからずとも、舎人連中までが雅な晴れ着で着飾って、競技に集中し盛り上がる姿はさぞかし目の保養であったのだろう、時折あちこちで熱のこもった嘆声が洩れた。
左が勝ったといっては奏でられる「打毬楽(たぎゅうらく)」、右が勝ったといっては奏でられる「落蹲(らくそん)」。勝った負けたとの大騒ぎは日が落ちて何も見えなくなるまで続いた。舎人たちの位階と戦績に応じて禄を下賜し、夜更けてお開きとなった。
ヒカルは花散里のもとに泊まる。
「親王の中ではやはり兵部卿宮が抜きんでて優れているね。外見はさほどでもないが、心配りや態度がね。優雅だし魅力に溢れてる。貴女もこっそりご覧になりました?立派な方だけど、まだ物足りないところもあったりする?」
「殿の弟君であらせられるお方ですが、むしろお年かさに見えましたような……ここ数年、何かにつけて此方においでになり、親しんでおられると伺いましたが、わたくし自身は昔内裏あたりでちらと拝見したきりでしたので……その頃よりは年を重ねられて、ご立派になられたと思います。新しく帥の親王になられた弟宮さまは、素晴らしい方とお見受けはいたしましたが、まだ親王と申し上げるには及ばないところもあるような気も……」
花散里の洞察力に内心舌を巻きつつも、ヒカルは微笑むだけで否定も肯定もしない。
(他人の欠点をイチイチあげつらって馬鹿にしてばっかりってやな感じだもんね。この方は本当に、悪口にならない絶妙なところで止めるよなあ。さすが)
(そういや鬚黒の右大将は今日来てなかったようだけど、この方が見たらどう評価されるかな。評判は悪くないけど、特にこれといって何か売りがあるわけでもなし、玉鬘の姫の婿として考えるとどうも食い足りないよねえ)
などと思っているが、花散里の前ではもちろん口に出さない。
今の二人はただ形ばかりの夫婦で、寝床も別々で御几帳を隔てて休む。
(いつの間にこうなったんだっけ……寂しい話だよね。でも今更って感じだし、とてもそんな気にはなれない)
胸が痛むが、花散里の方は長年嫉妬らしい嫉妬もしたことがなければ不満を漏らすこともない。邸内で折節につけた遊びごとが、今日は珍しくこの夏の町で催されただけで、晴れがましい名誉と考えているようだ。ゆったりと歌を詠む。
「馬も食べない草として名高い汀の菖蒲のような私を
端午の日の今日はお引き立てくださったのでしょうか」
「鳰鳥(におどり)のように並んだ影を汀に映す若駒の私は
いつ菖蒲のあなたに別れたりしましょうか
朝夕いつも一緒にというわけではありませんが、こうして偶にお目にかかるだけで心が休まるのは貴女だけですよ」
「まあ、ありがとうございます」
いつもの軽口を叩くヒカルに、ただただ穏やかにのんびり答える花散里であった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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