胡蝶 一
かぎけん花図鑑より |
弥生三月の二十日の頃合い、現代の暦でいうと四月下旬あたりだろうか。六条院春の町の庭はまさに春爛漫。日に照り映える花の色、鳥の声、築山の木立の緑も瑞々しく、池の中島の辺り、色濃い苔の景色など、他の町の人々が驚くほどの盛りの春である。ちょうど唐風に仕立てた屋形舟が完成し、初めて池に下ろすことになった。
折しも、秋好中宮が明日からの「季の御読経」のため里下がりしている。立場上、中宮自身が春の町を訪れることは難しいので、代わりに若い女房達をこの新しい舟に乗せ「待ち望んだ盛りの春」を見せようということになった。
「ならばいっそ舟楽ということで雅楽寮から演者を呼ぼう。客も集めよう」
ヒカルの言葉に、親王達や上達部なども大勢参上した。
秋の町で中宮付きの女房達を乗せて漕ぎ出した舟の行く手には、水を支配する龍の頭を飾る舟、水難除けの鷁首(げきしゅ)の舟が浮かぶ。みづらを結った童が棹をさし、龍頭の舟からは唐楽、鷁首の舟からは高麗楽が響く。
「まるで本当に唐土に来たような……」「行ったことないけど、きっとこんな感じ?」
女房達はうっとりと舟に揺られ、異国と見まがう情景を楽しむ。
中島の入江の岩陰に舟を寄せる。石の佇まいさえまるで絵に描いたようだ。霞がかった木々の梢、遙か先に見える春の町の対屋を背景に、緑濃い柳が枝を垂れる。漂うえもいわれぬ花の香。他の町ではとうに散った桜も此方では今を盛りと咲き誇る。渡殿を巡る濃い紫の藤の花。まるで錦を張り巡らしたような、目にも眩い景色である。
何より素晴らしいのは池に姿を映す山吹、岸からこぼれんばかりに花びらを散らす。つがいの水鳥達が細い枝を咥えつつ、つかず離れず飛びちがう。水に浮かぶ鴛鴦が波間に水紋を交えるさまは、何かの図案に写し取りたくなる見事さだ。
「素敵……もうずっと、永遠にこのまま過ごしたい」
若い女房達は感激し、先を争うように歌を詠みあう。
「風吹けば波の花までが色を映しますが
これが有名な山吹の崎でしょうか」
「春の御殿の池はあの井出の川瀬(山吹の名所)に通じているの?
岸の山吹が水底にも咲いていますわ」
「蓬莱山まで訪ねる必要もないですね
この舟の中で不老の名を残せましょうから」
「春の日のうららかな中漕ぎ行く舟は
棹のしずくも花と散る」
日暮れ時「おうじょう」という唐楽が響き渡る中、舟は東の釣殿に漕ぎ寄せられる。まだ名残惜しいまま舟を下りる秋の町の女房を、春の町の女房が出迎える。装飾が少なく簡素な造りのこの釣殿では、ここぞと装う春秋それぞれの若女房達の匂い立つ姿が一段と映える。見渡す限りの春の錦にも劣らぬその華やかさが。
楽の音は流れ続け、舞人の踏む音も絶えない。誰も彼も選び抜かれた演者である。
暗くなってきたがまだまだ飽き足らず、春の庭に篝火をともし、階段下の苔の上に楽人を集める。親王たちや上達部も、それぞれ得意な弾きもの、吹きものを手に演奏する。
優れた楽の師匠たちが双調(そうじょう)を吹き、階上の琴が待ち受けて合わせ弾く。
あな尊と 今日の尊とさや いにしへも はれ
いにしへも かくやありけむや 今日の尊とさ
あはれ そこよしや 今日の尊とさ
催馬楽「安名尊(あなとう)」の合奏は圧巻であった。六条院の門外にびっしり並んだ馬や牛車の合間で見張る無学な下人ですらも、思わず知らず笑みを浮かべて聴き入るほどに。
空の色も楽の音も、春の調べと響き合うままに、極上の夜を遊び明かす。返り声(転調)に唐楽「喜春楽(きしゅんらく)」を添え、兵部卿宮が
青柳を 片糸によりて やおけや
鴬のおけや 鴬の 縫ふといふ笠は
おけや梅の花笠
と、「青柳」を繰り返し美しく謡い、ヒカルも唱和した。
夜も明けた。
宴の後の朝ぼらけ、しんとした中響く鳥の囀りを、秋好中宮は築山越しに悔しく聞く。
参考HP「源氏物語の世界」他
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