おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

初音 一

2020年10月2日  2022年6月9日 

初音蒔絵源氏箪笥
初音蒔絵源氏箪笥(Colbase H-74)

 新しい年が明けた。

 元旦の朝の空は雲一つなくうららかで、家々の垣根の内では雪間の草が若やかに色づきはじめている。立ち初めた霞の中で木の芽も萌え出し、おのずと心も躍るような新春である。
 

 玉の御殿の六条院では初めての正月、内外にさまざまな装飾がほどこされ、どの部屋も着飾った女性たちで溢れかえり華やかなことこの上ない。

 ヒカルと紫上の住まう春の町の庭では咲き初めた梅の薫りが、御簾から流れ来る薫物と交じりあい、極楽浄土とも見まがう優雅さである。この町は比較的年かさの女房が多く、普段はしっとりと落ち着いた雰囲気なのだが、今日は朝からたいへんな賑わしさだ。晴れ着姿の女房達があちらこちらに寄り集まっては、歯固めだと鏡餅を噛み、千歳に栄えよと言祝ぐ。女同士で遠慮なく戯れあい笑いさざめいているところに、ヒカルがひょっこりと顔を出した。

「あら、恥ずかしい!」

 とばかりに皆、急ぎ身づくろいして体裁を整える。

「いやいや、そのままそのまま。まさに完璧といっていい新年の祝いじゃないか。皆それぞれに願い事の筋があるだろう?聞かせてくれれば、私からも言祝ぐよ。どう?」

 などと笑いかけるヒカルこそ、年の初めのめでたさそのものだ。皆伏し拝まんばかりに頬を染め、つつき合う中、すかさず口を出したのは目立ちたがりの中将の君である。

「『かねてぞ見ゆる』歌の如く、この鏡の山(鏡餅)にもお祝いを申し上げておりました。私の祈りなど、殿のめでたさの御前では何ほどのこともありませんわ!」

※近江のや鏡の山を立てたればかねてぞ見ゆる君が千歳は(古今集神遊歌-一〇八六 大伴黒主)

 更に場がワっと盛り上がったのはいうまでもない。


 午前中はこんな調子で人がごった返して騒がしかったが、夕暮れまでにはすっかり落ち着いた。それぞれの町の女君たちに年賀の挨拶をしようと、念入りに身づくろいしているヒカルの姿は目を見張るほど美しい。

「今朝、女房達が仲良くキャッキャしてたのすごく羨ましかったんだよね。あれって男には絶対ないノリだよなあ……紫上、貴女には私が鏡の山をお見せしよう。

 薄氷も解けた池の鏡面には

世にまたとない二人の影が並んで映っています」

 紫上もすかさず返す。

「一点の曇りもない池の鏡に幾久しく

 住みつづける私たちの影がはっきり映っていますね」

 かたい絆を永遠にと詠み交わす二人である。


 今年の元旦はちょうど子の日であった。初子の日には姫子松を引いて長寿を願うものだ。

 手始めに、同じ対の屋に住まう明石の姫の方に渡ってみると、童女や下仕えの女房たちが庭の築山の小松を楽し気に引っぱっている。此方は姫君向けに若い女房を集めているせいか、全体に明るく浮き立った感じだ。

 北の御殿から、特別仕立ての鬚籠や破籠がいくつも贈られて来ていた。籠におさまった素晴らしい五葉の松、仔細あり気に移り飛ぶ鶯、そして明石の君からの付文があった。

「長い年月、子供の成長を待ちつづけてまいりました

 今日こそは鶯の初音を聞かせて下さい

 『音せぬ里の』」

※今日だにも初音聞かせよ鴬の音せぬ里はあるかひもなし(源氏釈所引、出典未詳)

 初子の日にかけ、切ない母心を詠んだ歌にヒカルはいたく感じ入り、縁起でもない涙を堪えきれない。涙ぐみながら姫君に、

「こちらへのお返事はご自分でお書きなさい。初便りを惜しむべき方でもありません」

 といいきかせ、硯を用意し書かせた。言われた通り懸命に筆を走らせるその姿は、朝な夕なに顔を合わせていてもまったく見飽きることがない可愛らしさだ。

(考えてみれば、明石の君が大堰から此方に移って来た十月、すぐに逢わせてもよかったんだよな。なんだかんだバタバタしてるうちに年も明けちゃって、長い事可哀想なことをしてしまった)

 姫君は無心に、思いつくままつらつらと書き連ねた文を乳母に預ける。

「別れて何年も経ちましたが

鶯が巣立った松の根を忘れましょうか」


 ヒカルは夏の町へと渡り、まずは東の対に入る。

 此方は時節が違うせいか、しんと静かで特に目を惹くようなものもないが、品よく丁寧な暮らしぶりが窺える。

 夏の町の主である花散里の御方とは、年月とともに睦まじさが増すばかりだ。泊まることこそなくなったが、心の距離はいっそう縮まり、交流を絶やすことはない。御几帳を隔てに置いてはいるが形だけのことで、姿が少々見えていても気にせずそのままだ。

(私がセレクトした縹色の上衣、地味だったか……御髪もずいぶん盛りを過ぎてしまったし、この色目じゃ老けて見えるかも。かもじ付けるとかしたらいいのに)

(こうなると、私以外の男ならきっともう寄りつきもしないよね。でも私は、こういう姿も包み隠さずありのままに見せてくれて嬉しい、本望!と思う。そんじょそこらの軽薄な女とは違って、絶対に離れていかないって安心できる)

(だから見捨てようなんてさらさら思わないし、もっともっと大事にしようって気になる。それで向こうもますます私を慕って、頼ってくれるんだよね。お互いが満足できる、まさに理想的な関係ってやつ)

 ヒカルにとっては既に男女の枠を超え、最もゆったりくつろげる相手なのだ。旧年中はどうだった、ああだったなどとどうでもいい話をして、さして長居もせずに切り上げるが、花散里はもちろん嫌な顔ひとつしない。


 次は西の対、玉鬘の住まいだ。

 まだ住み馴れていない割には全体の雰囲気が良い。必要最低限な物しかないが、それなりにこざっぱりと住みなしている。童女や女房の数も多く、見目も品も良い。 

 玉鬘本人はいうまでもない。あの山吹襲の衣裳がよく似合って、文字通り輝くように美しかった。辛い期間があったせいか、髪の裾がすこし細くなって着物にはらりとかかっているのがまた、すっきりして良い感じだ。くっきりした目鼻立ちも印象的で、いつまでも見ていたいと思う。

(引き取ることにして本当によかった。もし内大臣の元に行っていたら、こうしてこの娘をじっくり見られる機会など、絶対に巡ってこない)

 既に危うい心持ちのヒカルである。

(赤ん坊の頃から見慣れていれば、実の娘であろうがなかろうが、こんなぎこちない対応にはならないだろうな。この、何とも言えない距離感……関係性に今一つ現実味がない感じ。そこがイイ!んだよね)

「もう何年も一緒のような気がするね。この六条院なら、いつでも会いたいときに会える。長年の望みが叶って本当に嬉しいよ。貴女もどうぞ遠慮なく、春の町にも遊びにいらしてください。琴を習い始めた幼い子もいるから、ご一緒にお稽古なさるといい。此方はみな気立てのいい、軽はずみなところのないしっかりした人たちばかりですので、是非に」

 ヒカルがつとめて明るく言うと、

「仰せの通りに」

 と蚊の鳴くような声で、無難に応える玉鬘なのだった。


 暮れ方になる頃、冬の町に渡った。

 明石の君の住まいに通じる渡殿の戸を押し開くと、御簾のうちから流れる風がふわりと吹き漂い、他の町と比べ格段に気高く感じる。本人の姿は見えない。どこにいるのかと見回すと、今そこで書いていたばかり、という体で硯のまわりが散らかっている。出しっぱなしの冊子類を一つ一つ手に取りながら、辺りを見回す。

 豪奢な唐渡りの東京錦(とうぎょうき)の縁を縫い付けた敷物に、風雅な琴をさり気なく置いてある。趣向を凝らした風流な火桶に侍従香をくゆらし焚き染めている。あちこちに置かれた衣被香(えびこう:匂い袋)も相まって、全体がまことに品格ある香りに包まれている。

 無造作に取り散らかしてある手習いの反故には、尋常ではない教養が滲む。これ見よがしに草仮名を多用するような派手さはなく、あくまで自然に、さらりと書いている。

 姫君からの返事を、滅多にない嬉しいことと思ったのか、心にしみる古歌など書きつけたり、

「何と珍しいことか、花の御殿に住んでいる鶯が

谷の古巣を訪ねてくれたとは

 その初便りを待っていました」

 と詠んであったり、

「咲ける岡辺に家しあれば」

※梅の花咲ける岡辺に家しあればともしくもあらず鴬の声(古今六帖六-四三八五)

 などと昔を思い返す慰みの語句などを書き交ぜたりしている。

 それらをいちいち手に取りじっくり眺めて、時に微笑みを浮かべるヒカルの姿は、周りの女房たちも気おくれするほどに美しかった。

 ヒカルが筆をすこし濡らして書き散らしているうちに、明石の君がいざり出てきた。相変わらず貴婦人然として慎み深いが、六条院に来てからは気持ちも安定したのか、程よい加減に物腰も柔らかくなった。

(やっぱり違うな、このセンスの良さ、嗜みの深さ。元々の気位の高さがいい感じにこなれて、大人の色気に変わった感じ?私の選んだ白い小袿も、この人以外には絶対着こなせない。いや、参った。今夜はとてもこのまま帰れない……新年早々、騒がれてしまうかも)

「明石からわざわざお連れになって、この六条院にまでお部屋を与えた方ですもの……やはり格別のご寵愛なのね」

 と、今年初のお泊りを察した周辺の女房達は、嫉妬まじりにヒソヒソ話し合う。

 まして南の御殿の面々が面白かろうはずもない。予想はつくので、まだ暁のうちに帰ることにした。送り出す側の明石の君は何とも寂しい気持ちになる。

(まだ暗いのに、そんなにサッサと帰らなくても……やはり春の町のお方は格別なんだわ)

 紫上は黙ってヒカルの帰りを待っていた。

「いやー参った。いつの間にかうっかりうたたねしちゃってね、年甲斐もなく寝込んでしまった。今まで誰も起こしてくれなかったんだよ?酷くない?」

 と見え透いた言い訳をするが、何の反応もない。

(怒ってる、よね……こわ)

 ヒカルはまだ眠い振りをしつつ寝転んで、そのまま日が高くなるまでじっとしていた。


 正月二日目は、朝から上達部や親王たちが大勢年賀に参上する。客の応対にかこつけて、紫上とは殆ど顔も合わせなかった。管弦の遊びもあり、豪華な引き出物や禄なども大盤振る舞いである。

 大勢集まり、誰もが我こそはと振る舞う中にも、ヒカルと肩を並べられる程の人物は誰もいない。個々に見れば才も学もある者は多くいるのだが、困ったことにヒカルの御前に出るとみな気圧されてしまう。物の数でもない下人たちでさえ、この院に参上する日は気の配りようが尋常ではないのだ。ましてや今年は、

「六条院に若い娘がいるらしい」

という噂が回り、若い上達部などは気もそぞろだという。なるほど、例年とは違う格別な正月なのであった。

 花の香りを誘う夕風がのどやかに吹く中、庭の梅もようようほころび、黄昏時に流れる楽の音色も美しい。催馬楽の「この殿」を謡う拍子は賑わしく元気がいい。ヒカルも時々声を添えた「さき草」の最後の辺りは、いたく見事で心に沁み入る。とにかくヒカルが加わると何もかも……花の色も楽の音も、その輝きに照り映えて段違いにステージが上がる。その場に居合わせた誰もが、はっきりとその差異を思い知らされるのだった。

参考HP「源氏物語の世界」他

<初音 二 につづく 

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