おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

玉鬘 六

2020年9月24日  2022年6月9日 

  

(夕顔の乳母)

 あの初瀬で、大勢の供を連れた右近さんと再会してからというもの、寺の法師たちのわたくしたちへの態度も待遇も、何もかもがうってかわって、まさに夢のような成り行きに、誰もが戸惑い浮足だっておりました。ましてこの婆の老いた頭にはあまりにも目まぐるしすぎて、とても追いつけません。

 都に帰ってみれば、いきなり太政大臣さまからのお手紙と、きらびやかな品々までが山と届いて、田舎びた目にはただただ眩しいばかりにございました。 

「なぜ、親でもない大臣さまがこんなにしてくださるの?これ程まででなくても、ほんの申し訳程度でいい、実の父君からのお気持ちならば、どんなに嬉しいか……まったくの他人である殿方の御前に、どうして出ていけましょうか」

 困惑する姫君を、右近さんが懇々と諭しました。

「お手紙にもありますように、ヒカル大臣は姫君を、亡き母君の形見として傍に置きたい、自分の娘として引き取りたいと以前から仰せになっています。素直に甘えられていいと思いますよ。そうして六条院に落ち着かれたならば、きっと内大臣さまのお耳に入る機会も巡ってまいります。実の親御さまとの縁が切れるというわけでは決してございません」

 我が娘の兵部の君もここぞと付け加えます。

「右近さんの『是非ともお目にかかりたい』というささやかなお願いでさえ、仏神はお導きくださったんですよ?ご無事でさえおいでならばいつかは、どなたにでもお逢いできるのでは」

 さあさあ取り急ぎお返事を、と皆が促します。

「こんな田舎者が、このような立派なお方にお手紙など」 

 姫君が気後れされるのも無理はないのですが、かといってお返事を出さないというわけにはまいりません。たいそう良い香りをたきしめた唐の紙をご用意しまして、ようよう書かれました。

「わたくしのような数ならぬ身がどうして

三稜(みくり)のようにこの世に産まれて来たのでしょう」

(暗転)

(右近の語り)

 姫君のお手紙は、墨付きも薄くか細くたどたどしい筆跡でしたが、内容も含め上品で見苦しくない風でしたので、ヒカルさまもひと安心なさったようでした。

 さて、あとは住まうべきお部屋です。

「うーん、そもそも南側の町には空いてる対の屋などはないんだよね。人の数も多くていっぱいいっぱいだから、目立ちすぎて落ち着かないかもしれない。中宮がいらっしゃる秋の町は比較的広々して余裕があるけど、そこに仕えている女房と間違われそうだし……となると、北の町のどちらか……元から手狭な戌亥の方よりは、やはり丑寅の夏の町か。では西の対の文殿をどこかに移して、そこに入って貰うとするか。花散里の御方ならば慎ましく優しい方だから、一緒に住んだとしても良い話し相手になるだろう」

 ヒカルさまはここに至り初めて、紫上にも夕顔のお方さまとの一件をお話になりました。「そのようなことが……もっと早くにお聞きしたかったですわ。隠し事が多すぎませんこと?」

「いやいや、隠していたわけではないよ。貴女と出逢うより前のことで、しかも相手はとうに亡くなっているからね。わざわざ何も無しに話すようなことではない。忘れ形見が見つかったからこそだけど、こんなに包み隠さずすっかり打ち明けるのは、誰よりも貴女を愛しているからだよ」

 そうして微笑まれたヒカルさまのお顔は眩しいほどに優美でいらして、すこし離れたところにおりましたわたくしの頬さえ染まったほどでございます。しみじみと思い出話をなさるうちに、

「恋愛沙汰は数多見聞きしてきたけれど、女というものの執念の深さを思い知らされたこともあって、無暗に誰にでも仕掛けるものではないとも考えてはいたよ。それでも、思いがけず落ちる恋もある。夕顔の君はまさにそれで、ただひたすらに愛しくてね。まだ若かったせいもあるけど、あんな短い間に一気にのめり込んだことは後にも先にもない。今も彼女が存命なら、そうだな……北の町に住まう人と同等の扱いにはしていたかも。本当に人それぞれだね。あの明石の君ほど才気走っているわけでもなく、嗜みが深いというほどでもなかったが、上品で可愛らしかった」

「そうですか……でも、明石の方と同じようにというのは、違いますでしょう?」

 ふと寂しそうなお顔をなさった紫上に、小さな姫君が満面の笑顔で近寄って、まとわりつかれました。

「なあに?なんのおはなし?」

「何でもないのよ。貴女がとっても可愛らしい、って言ってたの」

 ヒカルさまの、たった一人の娘御を産んだのは明石の方にございます。こうして紫上が姫君を慈しむことができるのもそのお蔭と思えば、ヒカルさまが明石の方を別格に扱っておられるのも致し方ないこと。承知の上とはいえ、やはり複雑なお気持ちではあったでしょう。

(暗転)

(夕顔の乳母の語り)

 なんということでしょうか、わたくしたちがあの六条院に住まうなどと……夢のようなお話にございます。しかし、ひとつ問題がございました。

 筑紫では、京から流れ下って来た人たちを縁故をたどり呼び集め、女房として使っておりましたんですが、皆残して来てしまいましてね……ほとんど身内だけしかいないので、支度をしようにも人手がまったく足りませんし、だいいち九条の狭い家ではどうにもなりません。

 そこで、まずは五条にある右近さんのご実家にこっそり移り、良さそうな女房や童女を集めにかかりました。市女のような者を使って探し出しては人数に加え、ヒカルさまから贈られた綾などを衣裳に仕立てます。右近さんが全体を取り仕切って、お供する女房を選りすぐり、それに応じた装束や備品なども揃えました。

 ようやく六条院に移りましたのは、十月にございました。車は三台きり、何もかも右近さんのお見立てで、簡素ではありながら見栄えよくととのえていただきました。

 姫君のお住まいになる場所は「夏」の町、西の対にございました。その建物だけで、九条の家が何軒も入りそうな広さで……まことに、今までどれほど酷い生活をしてきたのかと恥ずかしくなるくらい、内部の装飾や家具、お道具などに至るまで、どれもこれも存分に数寄を凝らした、溜息の出るような素晴らしいものでございました。

 その夜、早速太政大臣さまが姫君のもとにお渡りになりました。「春」の町からはまっすぐ廊で繋がっています。此方に通じる戸の掛け金を、右近さんが外して開け放ちます。

「なんだかこうして入っていくのは、特別感あるね」

 微笑んで、廂の間の御座所にお膝をつかれました。

「燈火がちょっと暗すぎない?これじゃ、何だか口説きに来たみたいだよ。ねえ、親の顔をはっきり見てみたいとは思いませんか?」

 そう仰るや、几帳をスっと押しやられました。さり気ない所作に止める暇もございませんで、姫君は恥ずかしがって横を向いてしまいました。

「右近、もう少し明るくしてくれないか?奥ゆかしいのも程度問題だよ」

 右近さんが燈心を掻き立てて、さっと近づけます。

「おいおい、遠慮のない人だね。これじゃ私の顔ばかり明るくなる」

 昔からの「光源氏」という呼び名はさすがに聞き知っておりましたが、長年都の生活に縁がありませんでしたので……いや、本当に、これほどとは思っておりませんでした。几帳の隙間からほの見える、そのお姿ときたら……!それはもう、空恐ろしいほどのお美しさで。  

「目元が、母君によく似ていらっしゃる。長年、行方も知らないまま忘れる間もなく嘆いていたけれど、こうしてお目にかかれたことも夢のようだ。ああ、思い出すね……言葉も出ないよ」

 そっと目を拭われます。

「十七、いや十八年?……親子の仲で、これほど長いこと逢わないまま過ぎた例はまずないだろうね。前世からの宿縁とはいえ、辛いことだった。もう無暗に恥ずかしがるお歳でもないでしょう。積もるお話もしたい。何か仰ってはいただけませんか?」

 緊張に身を固くされるばかりの姫君も、ようようか細い声で応えられました。

「足も立たない幼い頃に流浪して以来……何事もあるかなきかでございました」

「おお、声もそっくりだ。そんな風に若々しい、澄んだ声だった。ご苦労が多くいらしたことを哀れと思う者は、今は私の他に誰もいない。どうかこれからは存分に頼ってください」

 にっこり笑ったそのお顔の、華やかなこと!わたくしたちはいっぺんにぼうっとなってしまいました。大臣さまは右近さんに何やら細々と指示をされると、お帰りになりました。


 お言葉通り、周りの皆さまは本当に家族同様といっていいくらい、親身におつきあいくださいました。この「夏」の町の主である花散里の御方さまも、本来わたくしどもなど近づくこともできない高貴なご身分だというのに、すこしも偉ぶったところなどなく、馴れない姫君に何くれとなく優しいお心づかいをくださいます。

 また大臣さまの御子息である夕霧の中将さま、この方も態々挨拶にみえられて、

「取るに足りない者ですが『ああ、このような弟もいるのだ』と、誰より先にお呼びいただけなかったこと、残念に思います。さすれば、お引越しの際にも参上してお手伝いいたしましたのに。今後はどうぞ何なりとお申し付けください」

 などと丁重なお言葉を下さって、ひたすら恐縮するばかりにございました。大臣さまに面差しがよく似ておられる、たいそうお美しい若者でいらっしゃいます。

「祖母さま、私間違ってた……太宰大弐だの、受領だの、今思えば何であの程度の者を姫君の婿になぞ……とんでもないことだったわ。まして」

 夕霧の中将さまがお帰りになった後、三条がそう呟きましたが、その先の言葉は呑み込みました。「大夫の監」、もう名前すら口に出したくないほど、忌々しい記憶にございました。

「何もかもすべて、豊後介のお蔭です。よくあの時ご決断くださいました」

 姫君も、そっとわたくしに囁かれました。

 右近さんから大臣さまにもそのお手柄が伝わったか、やがて我が息子もこの「夏」の町付きの家司の一人に加えていただきました。思えば、筑紫に行く前も後も、他人に顎で使われるばかりだった、京に逃げて来てからも不遇に堪えてきた豊後介が、いまやこんな立派な御殿の内を朝な夕なに出入りし、部下を従え、業務を行う身の上となれたこと、まさに面目躍如にございます。大臣さまの温かな心配りが隈なく行き届いて、畏れ多くも人生一番の満ち足りた日々を送っております。

 有り難いこと。本当に、有り難いことでございます。これでわたくしも、いつでも安心して目を瞑ることができそうです。いえ、出来れば、姫君が幸せなご結婚をされるまでは見届けたいですが、ええ。


 わたくしのお話は、ひとまずここまでとさせていただきます。締めは右近さんにお任せいたしますね、はい。どうぞよろしくお願い申し上げます。

(暗転)

(右近の語り)

 ヒカル大臣さまは姫君をいたくお気に召したようで、わたくしとしてもひと安心にございました。御子息の夕霧の中将さまが、実の姉君とすっかり信じ込んでおられるのには兵部の君ともども少々慌てましたが……まあ、その方がお互いに都合がよいでしょう。何しろ、紫上すら真相はご存知ではないのですから。

 姫君との初の対面のあと、ヒカルさまは喜びも露わに紫上に報告していらっしゃいました。

「とある山奥に長年お住まいだったから、どんなに田舎びて残念な風になっているかと少々みくびっていたんだけど、とんでもない、かえってこちらが恥ずかしくなるくらいに上品で愛らしい子だったよ。この六条院には美しい姫君がいるらしいと風評を流して、兵部卿宮などのお心を騒がせてみたいな。そもそも此処にやってくる風流人が揃いも揃って真面目一方な感じなのも、話の種になるような女性がいないからなんだよね。ああ、楽しみだ。みっちり世話を焼いて磨き上げた我が娘を気にして、そわそわ落ち着かない男どもの様子はさぞかし見物だろうね」

「まあ、おかしな親御さまですこと。ご自分の娘で人の心を煽りたて、そそるようなことをお考えになるとは。よろしくないですわね」

「正直言うと貴女をこそ、今言ったように扱ってみたかったな。何も考え無しにすぐ妻にしてしまって、勿体なかったかも」

 何を仰るやら、とはにかんで顔を赤らめる紫上の初々しい美しさは眩しいほどで、まことに尊い感じがしました。ヒカルさまは硯を引き寄せ、手習いの体で、

「ずっと恋慕いつづけていたわが身は置いても、

玉鬘(娘)はどのような縁を辿ってここに来たのだろうか」

 とサラっと書きつけられてから、ぼそりと呟かれました。 

「奇縁だな、実に」


 夕顔のお方さまの数奇な運命……ヒカルさまのご親友である頭中将さまとのご縁から始まり、姫君が産まれ、北の方からの攻撃を受けて住処を移り、方違えにてヒカルさまと出逢い……そしてあの夜。

 夕顔のお方さまがもし、あの夜亡くならなかったら?

 姫君は普通に貴族の娘として、大した贅沢はできなくとも都で慎ましやかに暮らしていたでしょう。筑紫に下ることも、大夫の監に言い寄られることも、決死の覚悟で逃走することもなく、まして歩いて初瀬に詣でるなど絶対にありえません。姫君の持つ、亡き母君にはない強さは、これだけの長く辛い道筋を、豊後介のような忠実な家来に助けられながら、耐えに耐えて培われたものでございましょう。

 玉鬘の姫君……まさに、ぴったり嵌る呼び名にございます。あの恐ろしくも悲しい夜を境に、絡まりながらも伸び続けた運命の糸、玉のように輝く蔓が、今このきらびやかな六条院にようやく辿り着いたのです。

 ここに至りわたくしも、長年囚われ続けた、お方さまを守り切れなかったばかりか姫君をも見捨ててしまったという罪悪感から解き放たれ、感無量にございました。

 ただ、みな幸せになりましためでたしめでたし……で終わるのは昔の絵物語だけにございます。実際には、生きている限り否応なく日々は続き、運命は予想もつかぬ方向に絶えずその蔓を伸ばしていきます。

 ああ、長々と喋り過ぎましたね。まだまだ、語るべきことはございますが、今宵はこの辺でお暇いたします。このような婆の繰り言を辛抱強く聴いてくださり、まことにありがとうございました。またどこかでお逢いしましょう。では、ごきげんよう。

参考HP「源氏物語の世界」他

<玉鬘 七 につづく 

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