玉鬘 五
一刻も早く、ヒカルさまにこの吉報を伝えたい。帰京後、取るものもとりあえず六条院に参上しました。ただ、わたくしの主は紫上です。さすがに飛び越えてヒカルさまに直にご注進する、というわけにもいきません。どうやってお知らせする機会を作るか……女房としては、お呼びがかかれば向かうだけで、自分から繋ぎをつけるなどありえないことです。
考えつつ門を入るや、内部は実に広々としていて、人も車もひっきりなしに行き来しています。改めて、わたくしのような者が出入りするなどまことに烏滸がましい、気が引けるような玉の御殿と実感いたしました。その夜はヒカルさまの御前に近づくことはなく、思案しながら寝ました。
翌日ヒカル大臣が、里下がりから昨夜戻ってきた女房達の中から、とりわけてわたくしを召し出されました。他にもっと身分の高い女房、若い女房たちもおりましたのに、です。いささか面はゆい気持ちで参りますと、大臣はわたくしの顔をご覧になるや、
「随分ゆっくり里住みしてたんだね。右近にしては珍しいな、お一人様なのに。何か面白いことでもあった?心なしか、ちょっと肌艶もよくなってない?若返った気もするよ?」
などといつもの、返事に困るような冗談を仰います。
「お暇をいただいて七日以上過ぎてしまいましたが、そういう意味での面白いことなど何も……ただ、少々山歩きいたしたところ、とても懐かしい人にお会いしまして」
「え?誰誰?」
早速食いつかれました。しかし、わたくしの立場としては、ここですぐ全てをぶちまけるわけにもまいりません。何度も申し上げますが主は紫上なのです。主がいらっしゃらない所でヒカルさまだけに、という図式は如何にもよろしくありません。わたくしがみずから隠し事を持ちこんでこそこそしていた、と思われることだけは避けたかったのです。
「……まあ、そのうちに申し上げますね」
焦らすつもりはなかったのですが、頃合いも頃合い、他の女房たちがわらわらとやってきましたので、そこで言いさしてしまいました。
灯りのともった部屋で寄り添いくつろいでおられるお二人の姿は、まことに見甲斐のある景色にございました。このとき紫上は二十八歳、今を盛りと輝いておられました。
(ほんの短い日数を置いただけなのに、ますますお美しさに磨きがかかったような……あの、夕顔のお方さまの姫君も素晴らしい、決して見劣りしないと思ったけれど、やはり紫上のお美しさにはまだまだ及ばない。運の強い方とそうでない方とでは、違いがあるものね)
ヒカルさまは余程気になっておられたのでしょう、さあお休みになろうという段に、再びわたくしをお呼びになりました。
「足揉みを頼むよ。若い女房は疲れるからって嫌がるんだよね。やっぱりお互いに年寄り同士だと、勘所もわかるし、うまくいくってものだよな、右近!」
なんて仰るので、周りの女房達もくすくす笑いながら、
「左様でございますわ。いったい誰が使い慣らされることを嫌がりましょう」
「ただやっかいな冗談事を言いかけられるのが面倒なのよね」
などと言い合っております。
この頃のヒカルさまは政務の殆どを内大臣に譲られたことで、以前の多忙さからは解放されのんびりしておられました。しょっちゅうたわいもない冗談を仰っては女房達の反応を楽しんでらしたので、わたくしのような古女房すらお戯れの対象でした。
「紫上も、お年寄り同士が仲良くしすぎるとそれはそれでご機嫌を損ねるかな。ありそうにないからこそ危険なものだってね」
どっ、と周りが沸きます。もとより人を惹きつけずにおかない魅力をお持ちのヒカルさまですが、年とともにさらに愛嬌も増し、いつも笑いの絶えない場を作り出しておられました。
近寄っておみ足を揉みはじめますと早速質問攻めです。
「懐かしい人って誰のこと?まさか、尊い修行者と親しくなって連れ出して来たとか?」
「違いますわよ、人聞きの悪い。実は……儚くなられた夕顔の、露の縁を見つけたのです」
如何にも疚しいことなどないといった風に、何気なく応えました。
「えっ?!ほんとうか!この長い年月、いったいどこに」
ヒカルさまは本気で驚かれたようで、勢い込まれましたが、さすがにありのまま申し上げるのは憚られました。
「あまり詳しくはわからないのですが、辺鄙な山里らしいですわ。見知った女房も幾人かは変わらず仕えておりましたので、昔話に花が咲きました。堪らない気がいたしましたわ」
「待て待て、それ以上は、事情を御存じでない方の前だから」
わざとらしく止められるヒカルさまに、紫上は、
「面倒そうなお話ですのね。もう眠いので何も耳に入りませんわ」
と言って袖で耳を塞ぎ、そっぽを向かれてしまいました。ヒカルさまはいっそう声を潜められ、
「どんな感じ?容貌などは?あの昔の夕顔に劣らない?」
「きっと母君ほどではなかろうと思っておりましたが、なかなかどうして、もしかすると更に優れたご成長ぶりかもしれません」
「それは興味深いな。誰くらいだと思う?この紫上とは?」
「まさか、とんでもない。そこまではとても」
「その得意顔からすると、相当のものなんだな。まあ私に似ていたら安心だ」
まるで実の娘のように仰っていたのは、紫上のお耳を憚ってのことでしょう。
それからというもの、わたくしは何度もお召しを受け、御前に通いました。
「よし、やはりその夕顔の姫君をここにお迎えするとしよう。長年、何かの折に思い出さずにはいられなかったし、行方がわからないまま放置してしまったのを悔いていたから、実に嬉しい知らせだ。もっと早くに逢えればよかったのだが。内大臣?別にいいんじゃない知らせなくて。あんなに大勢の子供たちに囲まれて日々大騒ぎしている中に、ずっと田舎暮らししてた子が今更立ち交じったところで、かえって辛いと思うよ。私は見てのとおり子供が少ないから、思わぬところから見つけた!とでも言っておこう。男どもに気を揉ませる種として、丁重にお世話するよ」
「勿体なくも有り難き仰せにございます、ただヒカルさまのお心のままに。内大臣にお知らせ申すにも、いったい誰がお耳に入れましょうか。むなしく亡くなられた方の代わりに、忘れ形見の姫君をともかくもお助けあそばすことが、罪滅ぼしということにもなりましょう」
「え、責めてる?」
ヒカルさまは微笑みながらもすこし涙ぐまれておりました。
「しみじみ儚い契りだったと長年思い続けて来たよ。この六条院に集めている中には、あれほど短い間に燃え上がった人はいない。それなりに長く生きてきて、私の愛情の変わらなさを確と見ている者は多いというのに、亡きお方にはもう気持ちを伝える術もない。ただ、右近だけを形見と頼むしかないのは残念なことだよね。本人を忘れることこそないけれど、せめてその娘御が代わりとしてここにいてくれたら、それこそ長年の願いがかなう心地がするにちがいない」
とはいえいきなり連れてくるのも性急に過ぎますので、とりあえずお手紙を出してみようということになりました。長年落ちぶれた境遇で育った姫君の人となりを探ろうというのです。どんなに血筋が良く、深窓の令嬢として扱われかしずかれていても、これはいったい……という方はままいらっしゃいます。ヒカルさまご自身にお心当たりもあるようですし、ご不安も理解できました。
初めてのお手紙は極めて生真面目で、常識的な内容にございました。
「このように便りを書きますのも
今はご存知なくとも尋ねれば知りましょう
三島江に生える三稜のように縁のある間柄なのだから」
手紙はわたくしが持参し、ヒカルさまのご意向を伝えることとなりました。ご装束、女房達の料など手土産も十分に揃えています。紫上にもご相談されたのでしょう、御匣殿などに保管してある品を取り集め、色合いや出来具合のよい格別なものを選り抜かれました。
参考HP「源氏物語の世界」他
コメント
コメントを投稿