おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

朝顔 四 ~源典侍日記③~

2020年8月18日  2022年6月9日 
さて桃園宮邸である。実のところ此方では、まったくヒカル内大臣の訪問を予想していなかった。手紙は受け取っていたがあまりに頻繁なので、あの忙しい方がまさか今日もまたいらっしゃるなんてある?社交辞令でしょと誰もが思っていた。しかもいつもの北面の通用門ではなく、わざわざ西側から供人を入れ、宮の御方に案内を請うという仰々しさである。今日こそはという気合十分だったということだろう。
 だがその気合は出鼻から挫かれる。門番が寒そうな様子で慌てて出て来たが、普段使っていない門なので錠が酷く錆ついて中々開けられない。それ程に長い間、この門を通るような客人はいなかったのだ、曲がりなりにも宮家だというのに。
「昨日今日と思っているうちに、三年もの昔になる世の中だ。宮家のこんな寂れた有様を見ても、仮そめの宿りを諦めることも出来ず、木や草の花にも心をときめかせるとは因果なものよ。
 いつの間に邸に蓬が生い茂り
 雪降る(古)里と荒れた垣根よ」
 世の無常を実感しつつも、無理やりに門を引き開けて中に入る。

 女五の宮は例によって、昔のことばかりとりとめもなく話し続けて止まらない。ヒカルはもとより関心があるはずもなく半ばうとうとしていたが、宮もまた大欠伸をして、
「今日は宵のうちから眠くて……とても終いまで話しきれませんわ」
 言い終わらないうちに、いびきとも何ともつかない奇妙な音が聞こえ出した。秒で寝落ちされたようだ。
 この時の気持ちはヒカル内大臣も私も、ひとつだっただろう。
 今だ!
 これ幸いと立ちあがったヒカルを、殊更に年寄り臭い、大袈裟な咳ばらいで引き留める。
「畏れながら、きっとご存知でいらっしゃるだろうと期待しておりましたのに、生きているか死んでいるかもご確認くださらなかったのですね……故院には、祖母(ばば)殿と呼ばれていたわたくしにございます」
「そ、その声は……まさか!」
 すっかり忘れていた「源典侍」という名前が閃光のようにヒカルの脳裏を走り抜ける。「たしか出家して、五の宮の弟子となり勤行三昧だと……(生きていたのか)」
「お恥ずかしゅうございますわ」
「お人が悪い。もっと早くに教えてくださればよかったのに。故院の御代はみな昔話になっていく。遙か昔に思いをはせるのは心許ないものですが、嬉しいお声を聞きました。どうか『親なしに臥せる旅人』と思ってお世話くださいね(シッカリ姫宮に繋いでほしいな!)」
※しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし(拾遺集哀傷-一三五〇 聖徳太子)
「ほほほ。『言い来しほどに』」
※身を憂しと言ひ来しほどに今日はまた人の上とも嘆くべきかな(源氏釈所引、出典未詳) 
(わが身の辛さを嘆き続け、それが今や貴方も同じ身の上に、って……つまり私も年を取ったわねえってことが言いたいわけか。全く、自分は今いきなり老人になったわけでもあるまいに。相変わらず憎たらしい。それより早くあちらへ)
 という内面の声がバレバレのヒカル。私はわざとゆっくり話し出す。
「いったい何人の女御さま、更衣さまが寵を競うお姿を見てまいりましたかしら。ある方は亡くなられ、またある方は見る影もなく儚い此の世に落ちぶれて(誰とは申しませんけど)。故藤壺の女院さまにあらせられましてはほんにお若く、勿体ないことでございました。世の無常にはほとほと呆れるばかりでございます。わたくしのような者が生き残り、いまや穏やかな勤行生活を送っているというのに」
「羨ましいことです。私も早くそういう身分になりたいものですよ」
「まあまあ、そんなに若々しくていらっしゃるのに、枯れるには早いですわよ。わたくしだって……
何年経っても貴方とのご縁が忘れられません
『親の親』と仰った一言がございますものね」
※親の親と思はましかば問ひてまし我が子の子には(拾遺集雑下-五四五 源重之母)
 ヒカルはひっ、とあとじさりしつつ、
「しゅ、出家されたんですよね……?
 身を変えた後も見守っていてくださいね
 この世で子が親を忘れるようなためしがありましょうか、私も忘れませんよ
 頼もしき御縁です。いずれ是非、ゆっくりと」
 逃げ出した。私もそろそろと移動する。何処へって?もちろん同じ所へ。
 
 西面では格子を下ろしていたが、歓迎していないように思われるのも如何なものかということで、一間、二間は上げたままにしてあった。月が差し出て、うっすら積もった雪の光に映え、何とも趣のある冬の夜である。
しかしさっきの源典侍よ。老いらくの恋ってのもよからぬものの例えと聞くけど」
 フフっと笑うヒカル。ブーメランが直撃しているのにも気づかないまま、姫宮を何とか口説こうと躍起になる。
「せめて一言、憎いとでも『人づてならで』直に仰っていただければ、思いを断ち切るきっかけにもなりましょう」
※今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな(後拾遺集恋三-七五〇 藤原道雅)
 全力で訴えるが、相手の心は一ミリたりとも動かない。
 それはそうだ。二人ともが若く、父宮がヒカルにいたく好感を持っていた頃ですら、あるまじきことと固辞し続けて終わったのだ。婚期を逃し三十もとうに過ぎた永遠の少女である姫宮から、そんな恋愛上級者のような駆け引き言葉が引き出されるはずもない。「呆れるほどつらいお心」だなんだというのは自由だが、正直無理なのである。
 昔から交流があるいとこ同士であり、内大臣という立場も慮って、強く撥ねつけるということはせず、あくまで礼を尽くし人伝てに返事をし続けたが、それがかえって焦らすことになったのかもしれない。夜が更けゆくにつれ風も強くなる。さしものヒカルも心折れてきたのか、適当に目を拭うと、
「つれなさは昔からですが懲りない心まで
あなたがつらく思う心に添えてさらに辛く思えます
『心づから』」
※恋しきも心づからのわざなればおきどころなくもてわづらふ(中務集-二四九)
 気持ちがそのまま口から出た。(侍従ちゃんのあーつら!つらみ!と同じ)
「本当に、お気の毒すぎます」「聞いてる私どもがいたたまれませんわ」
 周りの女房達が例によって執り成そうとするが、姫宮は自らのスタンスを貫き通す。
「あらためて何を見せるというのでしょう
 人の身の上にこのようなことが、と聞いた心変わりを?
 私が変わる理由は何もございません」
 ピシャリと斬られた。ヒカルは本気の恨み言を残し、しおしおと桃園宮邸をあとにする。まるで初めての恋に破れた若者といった体で。
「ああ、まったくみっともない。お手本のような失恋っぷりをゆめゆめ他人に漏らさないでくれよ。『いさら川』みたいに、さあどうだかねというのも不躾だが」
※犬上の鳥籠の山なる名取川いさと答へよ我が名洩すな(古今集墨滅歌-一一〇八 読人しらず
 などと供人にだろうか、しきりにひそひそ話しかけている。女房達は女房達で、
「ああーなんと勿体ない。どうしてあそこまで無情な仕打ちをなさるのかしら」
「押し倒さんばかりにズカズカって来たのならともかく、これ以上ないくらい紳士的でしたのに。ひたすらお可哀想」
 同情の声ばかりである。
 姫宮にしても、ヒカルの人柄の良さもその魅力も十分わかってはいるのだ。しかし。
(あの方は私を買いかぶりすぎ。そんなに何もかも道理を弁えた人のように見ていただいたとしても、私のあの方への気持ちなど、世間が褒めそやすのと大差ない。え?何だか思ったより軽くない?期待外れだったなーなんて、きっとすぐお見通しになる。何といってもあの方は誰もがひれ伏すヒカルの君なのだから)
 こちらも買いかぶりが過ぎると個人的には思う。が、姫宮を覆う固い殻はもう僅かなヒビすら入る見込みがない。誰が何を言ったとしても。
(親しくなりたい素振りを見せたところで何になるの?今更でしょう。お手紙が来れば差しさわりのないお返事などは絶やさず、ご無沙汰しない程度に出す。応対も人伝てで、失礼のないように。それで精一杯。それより長年、仏事に無縁であった罪が消えるよう勤行しなければ)
(とはいえ、急にあからさまに距離を置き出すというのも、かえって思わせぶりととられるかも。口さがない人も多いから、女房達にもよくよく用心しないと)
 この姫宮、人並外れて賢く細かいところまで気が回り、かつどこまでも誠実な人なのである。だからこそ、軽薄な考えや振舞いを許すことができない。自分自身のことであれば尚更。
 姫宮のご兄弟は多数いらっしゃるがどなたも同腹ではないので、まったくの疎遠である。男主を喪った桃園宮邸が急速に寂れていくさまを目の当たりにしている女房たちからすると、ヒカルのように人品賤しからぬ、社会的地位も高い裕福な男性から求愛されるのはまさに渡りに舟であり、拒絶する意味がわからない。しかし、彼女にとってはそれこそが不誠実な、我慢のならない生き方なのだ。
参考HP「源氏物語の世界」他
<朝顔 五 につづく
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