薄雲 四
年明けて間もなく、太政大臣が亡くなられました。故桐壺院の御代から左大臣として、今上では摂政も勤められた、まさに世の重鎮であらせられた方ですから、帝のお嘆きは相当なものでございました。一時政界を退かれたほんの短い間でさえ天下あげての騒ぎでしたのに、まして世を去られたとなれば尚更です。多くの人々が悲しみに沈みました。娘婿であったヒカル内大臣ももちろん例外ではありませんでした。
帝は十四歳という年齢よりだいぶ大人びておられるので、天下を治めることに関して心配なところはございません。しかし摂政として後見される方はまだ必要ですので、当面ヒカルさまが兼任するしかありません。常の政務においても、太政大臣にお任せしていた分を全て担わねばなりませんので、仕事量も責任の重さもこれまでとは比べ物にならないでしょう。さらに娘婿としても、葬儀や法事諸々、ご子息やお孫さまたち以上に心をこめて弔い、お世話されてもおられたようです。
そもそもこの年は、概して世の中が騒然としておりました。
「天空にも常ならぬ月日星の光が見え、雲がたなびいている」
御代に対する何事かの前兆?と思われるような出来事が頻繁に起こって世間を驚かせ、次第に不穏な空気がひたひたと満ちていく感じがありました。諸道の学者が朝廷に奏上した勘文の中にも、世にも不可思議な、尋常とは思われない現象の報告が混じっていたとのことです。たしかにいつもの年とは違いました。心に疚しいところのある人ならば、無意識にそれらを結びつけてしまいそうな程に。
藤壺の女院さま……入道后の宮さまは、春先から体調を崩され、三月にはぐっと病状が重くなってしまわれました。報を受け急ぎ帝が三条邸に行幸され見舞われます。父院に死別したころはまだ幼くていらして、さほど思いも深くなかった帝ですが、この度はいたくご心痛のご様子で、女院さまもお辛そうにしてらっしゃいました。
「厄年に当たりますので、何らかの災いからは逃れることのできない年回りと覚悟してはおりました。とはいえ初めはそれほど酷い気分でもございませんでしたので、寿命を知り顔にあれこれ行いますのも人目に大袈裟かと……功徳のことなども特に平素と変わらず、取り立ててはいたしませんでした。参内し、ゆっくり昔の話などと思っておりながら、体調の良い折が少なかったものですから……心ならずも欝々と過ごしてしまいました」
声もか細く、弱弱し気に仰います。
女院さまは数え年三十七でいらっしゃいましたが、見た目には若々しくまさに女盛りといったご様子でしたので、どなたも現状をすぐには受け入れられず、ただ嘆き悲しむばかりでした。
「慎むべき年回りであったというのに、ご精進など特になさらなかったとは。何となく調子のすぐれないまま何か月も過される事でさえ、気がかりでなりませんでしたのに」
帝は酷く悲しまれ、今更ながらにあれこれと御祈祷をお命じになられました。私どもも含め皆、いつもの御不快とばかり思って油断していたのです。如何に母子といえども帝というお立場、行幸である以上時間には制限があり、つききりで看取ることが叶わないのは何ともお気の毒なことでございました。
女院さまの病状は悪くなる一方でした。酷く苦しげで、はかばかしく話すことすらできなくなりました。そのご心中はいかばかりだったでしょうか。
「最高位に昇りつめたその宿縁、世に栄えること並ぶ者もない」女院さまがその心の内に抱え続けていたのもまた常ならぬ大きさのものでございます。そういった事情を夢にもご存知ない帝を不憫に思われたか、それともみずから伝えずに済んだことにほっとしておられたか。今となっては誰にもわかりません。
ヒカルさまは、内大臣というお立場からも、こうした高貴な方々が相次いで亡くなることを憂いておられました。女院さまへの人知れぬ思慕は今も限りなく、祈祷など出来ることは全てさせておられました。何年も強いて断ち切っていた思いをもう伝える術もなくなってしまう……そう思われてか、几帳近くに詰められて、ご容態について私たち側近の女房に尋ねられました。まず答えたのは弁の君でしたか、
「この数か月ずっとご気分がすぐれないままに、殆ど休まず暇さえあれば勤行なさっておられました。そのお疲れが積もり積もられて倒れられたのです。この頃は衰弱が酷く、柑子などをさえ口にされなくなってしまわれました……ご回復の望みは、もう……」
あちこちから忍び泣く声が漏れ聞こえる中、私も御簾の内から代わりに答えました。
「内大臣さまが故桐壺院のご遺言どおり帝のご後見をなさっていること、長年本当に有り難く思うことが多々ございました。何かの機会に、どれほど感謝しているかを少しでも知っていただければ、と気長に過ごしておりましたが遂に叶わず、今は悲しく、残念に思われまして……」
やっとの思いで申し上げましたが、ヒカルさまは既に口もきけないほど泣いておられるのが御簾越しにもわかりました。人目を憚り必死で取りつくろうとなさるご様子が、ましておいたわしいことでございました。誰から見ても勿体なく、惜しい有様の女院さまです。人の寿命を思い通りに引き留める術などなく、どんな言葉を尽くしても何の甲斐もないことは自明、それでも何かを言わずにはいられない……人の情というものでありましょう。
「ふつつかなわが身ですが、今まで力の及ぶ限り、精一杯ご後見させていただきました。太政大臣がお隠れになったことだけでも世が慌ただしく思えますのに、なおこのような状態では……何から何まで心が乱れて、この現世におりますのも残り少ない気がしてきます」
あくまで内大臣というお立場からの言葉でございました。最愛の人の今わの際にまで、胸の内の思いをすこしも口に出すことなく、悲しみを存分に吐き出されることもお出来にならないまま、女院さまは……燈火の消え入るように息を引き取られました。何とも言いようのない、悲しいお別れにございました。
やんごとなきご身分の方の中でも、女院さまのご性質は広く後世の人々の語り草になりそうなほど慈悲深くていらっしゃいました。権勢を笠にきて人を煩わせたり揉め事を起したりなどは露ほどもなく、ましてやお仕えする女房が辛いようなことは決してなさいませんでした。
功徳の方面でもそのお人柄がよく表れておりました。治徳にすぐれた天子の時代にはよくある、勧められるがまま殊更に厳めしく目新しくとなさるようなこともなく、ただ元からの財物や与えられた年官、年爵、御封の定まった収入内で、真心のこもった供養の限りを尽くしておかれたので、何の弁えもない山伏などまでもが惜しみ申し上げていたくらいです。
葬送の際には世をあげての騒ぎとなり、誰もがその死を悼みました。殿上人などもすべて黒一色の喪服を纏われて、何のはなやかさもない晩春にございます。去年と同じように桜が咲き、散っていくそのさまが今年はあまりにも辛すぎて、まともに目を留めることすらできません。今はただ、最期までお仕えした女房の一人として、存分に女院さまを思い、悼み、泣こうと思います。
藤壺の女房としての語りは、これで最後となります。最後までお聞きいただき、まことにありがとうございました。王命婦でした。
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ヒカルもまた悲しみに打ちのめされていた。二条院の庭の桜を観てもあの花の宴を思い出し、女院の不在を否応なく思い知らされる。
「『今年ばかりは』」
※深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け(古今集哀傷-八三二 上野岑雄)
と独り口ずさんで、他人に見咎められないよう独り念誦堂に籠る。日がな一日そこで泣きに泣いているうちに日が暮れた。ふと見上げると、茜色に明るく照らされた山際の稜線に、鈍色の雲が薄くたなびいているのが目に留まった。
「入日さす峰にたなびく薄雲は
悲しむ私の喪服の袖に色を似せたのだろうか」
誰にも聞かれない場所で、聞かれてはならない、もはや誰にも届かぬ思いを歌に詠むヒカルであった。
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