薄雲 五
「何分七十過ぎの年寄りにございますので、夜居の勤めなども堪えがたく思われますが、まことに勿体ないお言葉をいただきましたので、昔からのご厚意への感謝のしるしとしてお仕えさせていただきます」
女院重病の報を受け修行先の山から下りてきたのだが、ヒカルの勧めもありそのまま留めおかれたのだった。
ある静かな暁方のことだった。帝の傍近くにはいま誰も人がいない。僧都は年寄り特有の咳をしながら、世の諸事を奏上するついでに語り出した。
「まことに申し上げにくいことがあり……申し上げることがかえって罪にもあたろうかと憚られることも多くあり……しかし、やはり知らしめないことの罪は重く、天の眼が恐ろしく思われてまいりました。心につかえるものがありながら命が終わってしまいましたならば、何の益がございましょうか。み仏も不正直なこととお思いになるでしょう」
そこまで言いかけながら、黙りこんでしまった。帝は
(何事なのだ。この世に恨みが残るような何かを心に抱えているのか?法師は聖といいつつも、道に外れた嫉み心が深く、嫌な者も多いから)
「幼い頃より隔てはないものと思っていたのに、そのようにひた隠しに隠してきたことがあったとは、つらく思うぞ」
(もっと語らせよと言っているようなものではないか)
帝は警戒しながらも、その先を促した。僧都はここぞとばかり、問わず語りを始める。
「ああ、畏れ多いことでございます。仏の諫め守りたもう真言の深き道でさえ、隠しとどめることなくご伝授申し上げておりますのに、まして、私事で心中に秘することなどありましょうか」
「これは過去から来世にわたる重大事にございます。お隠れあそばした桐壺院や女院さま、現在政事に携わっておられる内大臣の御ため、隠し通すことがかえって良くないこととして漏れ出すことがありはしないか。このような老法師の身には、たとい災いがありましょうとも何の悔いもありません。仏天のお告げがあるとみて申し上げるのでございます」
「わが君……貴方がご胎内にいらした時から、故女院さまには深く思い嘆かれることがあり、ご祈祷をさせていただいたことがございました。何故なのか詳しくは存じ上げませんでしたが、思いがけない事件が起こり内大臣が無実の罪に当たられた時、いよいよ怖ろしく思われたか、重ねてのご祈祷を承りました。内大臣もご存知でおられたのでしょう、さらに追加での御祈祷を仰せつけになり、貴方がご即位あそばすまでお勤め申したことがございます。その祈祷の故と申しますのが……」
僧都が奏上したその先の話は、到底信じがたい、ありえない内容であった。帝の心は、恐ろしさと悲しみで千々に引き裂かれた。
長い沈黙に僧都は、
「さては出過ぎた奏上と無礼にお思いになったか。面倒なことになった」
と、そっと畏まりつつ退出しようとしたが引き留められた。
「私が知らないまま過ごしてしまったなら、後世まで咎めを遺すに違いなかったことを今まで隠していた、そなたの心こそが油断ならないと思ったぞ。重ねて聞くが、この事を知っていて誰かに漏らすような者は他にいるか?」
「いえまったく。拙僧と側近の女房であった王命婦以外には、事情を知っている者はおりません。それ故に尚更恐ろしいのでございます。天変地異がしきりに現れ、世の中が鎮まらないのはこのせいです。御幼少で、物の道理を知るよしもない間はよかったのですが、だんだん年齢を重ねられ何事も弁えられる歳に至り、咎が示されたのです。何事も親の御代より始まるもの。何の罪があるのかもご存知ないというのがとにかく恐ろしく……消し去ろうとしていた記憶をあえて持ち出しました次第です」
僧都は言い訳めいた繰り言を涙とともに垂れ流し、夜明けに退出していった。
帝にとってはあまりに重大な事態であった。夢ではないかと疑う一方、紛れもない真実だという確信も消すことができない。
「故桐壺院の御ためにも後ろめたく、内大臣にしても、臣下として朝廷に仕えているということ自体畏れ多きことだ。いったい私はどうしたらいいのだ、これから」
大人びているとはいえまだ十代前半の若者である。懊悩のあまり、日が高くなっても臥所から起き上がれない。その様子を聞きつけ、驚いて参内してきたヒカルと顔を合わせた途端、堪えきれずに涙がこぼれ落ちた。
「おおかた亡くなった母君のことを偲んで、涙の乾く間もないのだろう」
僧都とのやりとりなど何も知らないヒカルはそう推測する。
その日また式部卿の親王の訃報が奏上されたことで、帝はますます世の不穏を嘆く。その極めてセンシティブな反応を見逃さないヒカルは里邸への退出も見合わせ、つききりで仕えることにした。湿っぽい話のついでのように帝が言う。
「わが寿命もいよいよ終わってしまうのかと思います。そこはかとなく心細く、常ならぬ心地がする上に、天下も穏やかならぬ状況で、万事落ち着くことがない。故母宮がご心配なさるからと、帝位について語ることは遠慮しておりましたが、今は心安く世を過したいと思います」
「何を仰います。まったくとんでもない。世の中が騒がしいことは、必ずしも政道がまっすぐか歪んでいるかによるものではございません。すぐれた御代にもよくないことはございました。聖帝の世であれ、横ざまの乱れが出て来ることは唐土にもためしがございます。我が国でも同じです。まして、当然の年齢の方々が寿命を全うされたことを思い嘆くことはありません」
ただの気の迷いとばかりに懇々切々と教え諭す。
揃って黒を基調とした装いで喪に服している二人は非常によく似ている。帝自身も鏡を見る度に思っていたことではあるが、例の話の後ではなおのこと、顔を見るたびいいようのない気持ちにおそわれる。
「何とか、ほのめかすだけでもできないものか……いや、さすがに無理か。絶対に認めないに違いない」
どう切り出してよいかも若い帝には見当もつかない。ただ世間話を常よりじっくりと親密に語り合うしかできなかった。
帝がやたら他人行儀に畏まり、いつもと全く違う態度なのを、聡いヒカルはすぐに気づいた。が、まさか秘密が露見したとは夢にも思っていない。
帝は、王命婦に詳しく問いただしたい気持ちは山々だったが、亡き母がひた隠していたことを今更知ったのかと思われるのは嫌だった。ただ、ヒカルには何とか遠回しに聞いて見たいと思っていた。昔にも、不義の子が即位するというような例はあったのか?と。だがそんな機会はまったくめぐってこない。帝はますます学問にのめり込み、さまざまな書籍を読みふけって考えをめぐらせる。
「唐土には、公然となったものも内密のものも含め、血統が乱れる例が数多あったという。日本ではまったく見つからない。たとえあったとしても秘しているのなら、どうやって伝え知る術があろうか。一世の源氏が、納言や大臣に昇って後、さらに親王にもなり、皇位にもついた例は多数ある。人柄の優れたことにかこつけて、そういった形で譲位しようか」
秋の司召でヒカルは太政大臣に内定した。帝は、二人きりになるその機会を捉えて、かねてから抱いていたヒカルへの譲位の意向をついに伝えた。ヒカルは顔を上げられないほど動揺し、決してあるまじきこととして固辞した。
「故桐壺院のお志として、私に位をお譲りあそばすことなど全くございませんでした。数多の皇子たちの中で私を特にご寵愛くださりながらも、です。どうしてそのご遺志に背いて、及びもつかない位に昇れましょうか。ただ元のご方針どおりに朝廷にお仕えし、今すこし年を重ねましたなら、のんびり仏道に引き籠ろうかと思っております」
常日頃と変わらない言葉遣いで奏上するヒカルに、帝は唇を噛む。
その上ヒカルは太政大臣の内定も今は考えるところありとして辞退し、ただ位階をひと刻み昇進し参内や退出に牛車を使う事を許されるだけに留めた。帝はそれでは足りない、余りに勿体ない、やはり親王になるように、と勧めるが、ヒカル自身にその気は全く無かった。
(私が親王になったら帝の後見が出来なくなってしまう。今の所他に人もいない。権中納言が大納言になって右大将を兼任してるから、アイツがもう一段昇進したらその時には全部譲ってしまおう。その後にどうなるにせよ、自分は静かに暮らすことにしよう)
(それにしても、帝が私に譲位などと……故女院にもお気の毒なことだし、帝がこんな風に考え抜かれて悩んでおられるようなのも畏れ多い事態だ。まさか……誰かが事を漏らした……?)
ヒカルは訳がわからぬままとり急ぎ王命婦に会いに行った。王命婦は御匣殿が替わった後に移って、部屋を賜り出仕している。
「故女院さまは、あのことを……もしや何かのはずみに、帝に露ばかりでも洩らしたりお耳に入れたりしたことはあったか?」
王命婦は間髪を入れずきっぱりと否定した。
「いいえ、決して。帝のお耳には欠片さえも入らないようにと強く思召しておられましたゆえ。その一方で、知らぬまま罪を得るのではないかと、帝の御身を案じられお嘆きでいらっしゃいました」
ヒカルは亡き女院のひとかたならぬ思慮深さを思い出し、恋しさを募らせる。
しかし。
ではいったい誰が、帝に?
訝しむヒカルだが、心当たりはどこにもない。
参考HP「源氏物語の世界」他
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