おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

薄雲 六

2020年8月12日  2022年6月9日 
前斎宮の女御は、ヒカルの強力なバックアップを受け並々ならぬ寵愛を得ていた。本人の性質も見た目も好ましく申し分ない様子なので、ヒカルも畏れ多き方とみてかしずいている。
 秋の頃、女御は二条院に里下がりした。寝殿はますます輝くように設えられ、今やまったく実の親同様にもてなし大事に扱う。
 さわさわと降りしきる秋雨が、色とりどりに咲き乱れた庭先の前栽を露めかす。しきりに昔のことが思い出されてヒカルの袖も濡れる。濃い鈍色の直衣姿だが、何かと不穏な世の中だからと引き続き精進中の体で数珠を袖に隠している。その姿、立ち居振る舞いはこの上なく優美である。女御の御方へ渡り、そのまま御簾の中まで入る。
 御几帳だけを隔てとし、女御と直接話すヒカル。
「前栽は残らず咲きほころびましたね。色々あって実に寒々とした年ですが、そんなこととは関係なく誇らしげに、時節を心得顔で咲いている。まことに趣深い」
 柱に寄りかかるその姿は夕映えて美しい。
「思い出しますね、あの野の宮。帰りがたくて佇んだあの暁を」
 女御も古歌の『かくれば』のように、少し涙を零される様子はこの上なく可憐で、身じろぎされる気配も思いのほかなよやかで優雅である。
(うむ、お顔を拝見しないままだったのは実に残念だ)
 胸を高鳴らせるのも困ったものだ。さらに昔語りを続けるヒカル。
※いにしへの昔のことをいとどしくかくれば袖に露けかりけり(源氏釈所引、出典未詳)
「もう過ぎ去りましたが、特に思い悩むような雑事もなく過せたはずの若い頃、心のままに恋愛ごとにかまけて物思いが絶えずにおりました。よろしくないやり方で気の毒なことになりましたのも数多……その中で、ついに心も解けず、思いも晴れずに終わったことが二つございました」
「一つは、亡くなられた貴女の母君のことです。尋常でなく思いつめて逝かれたことが、この長き世の憂いと存じられましたが、貴女をこうしてお世話申し上げ、親しく向かい合うことをせめて罪滅ぼしと思いなしています。が、『燃えし煙』が解けぬままになってしまわれたのだろうというのはやはり、気がかりに思われてなりません」
※結ぼほれ燃えし煙をいかがせむ君だにこめよ長き契りを(源氏釈所引、出典未詳)
「ひところ、身を沈めておりましたが、あの時あれこれと考えておりましたことは少しずつ叶えられてまいりました。東の院にいる方、元麗景殿女御の妹君ですが、頼りない環境でおられてずっと気の毒に思っておりましたところをこちらにお移しし、今ではすっかり安泰に暮らしてらっしゃいます。気立てがよいところなど、私も相手もお互いによく理解しあっていて、とてもさっぱりとした関係でおります」
「こうして帰京してみると、朝廷のご後見を仕る喜びなどはさほど深くも心に染みませんが、人を恋うる心だけは鎮め難いものでございます……並々ならぬ我慢を重ねたご後見であることはお察しいただけますか?哀れとでも仰られなければ、如何に張り合いのないことか」
 女御は困惑して言葉が出ない。
「あ、そう……だよね。うん、忘れて。……ああ、辛い辛い」
 一瞬で察し、秒で話題を切り替えて誤魔化すヒカル。
「今は、この世に生きている間は何とか心やすらかに、思い残すこともなきよう、来世のためのお勤めを存分にしつつ籠って過ごしたいと思っております。此の世の思い出にできることがございませんのが、何と言っても残念なことでございますけれど。そうそう、今は幼い姫君がおりますから、将来が待ち遠しくてなりません。畏れ多いことですが、どうかこの家を繁栄させ、私が亡きあともお見捨てにならないようお願いいたします」
 さすがにこの言にはかろうじて返事をする。おっとりと、かすかに一言ばかり発した声が殊の外優しい。ヒカルは聴き入ってしんみりしているうちに日も暮れた。
「そういった頼もしき方面への望みとはまた別に、一年の間ゆき交わす四季折々の花や紅葉、空の景色につけても、心ゆくまで楽しみたいものですね。春の花の林や、秋の野の盛りについてそれぞれ論争しておりましたが、その季節は誠にその通り!と納得できるような、明白な判定はなかったように思います」
「唐土では、春の花の錦に匹敵するものはないと言われているようです。和歌では『秋のあはれ』を格別に優れたものとしています。いずれも『時につけつつ』見ておりますと目移りして、『花鳥の色をも音をも』判別することができません」
※春はただ花のひとへに咲くばかりもののあはれは秋ぞまされる(拾遺集雑下-五一一 読人しらず)
※春秋に思ひ乱れて分きかねつ時につけつつ移る心は(拾遺集雑下-五〇九 紀貫之)
※花鳥の色をも音をもいたづらにもの憂かる身には過ぐすのみなりけり(後撰集夏-二一二 藤原雅正)
「狭い邸の中だけでもその季節の情趣が分かる程度に、春の花の木を一面に植え秋の草をも移植して、名もなき野辺の虫たちを棲ませ、皆さまにご覧に入れたく思っておりますが、春と秋、どちらをお好みでしょうか?」
 長々一人語りされた挙句に急に問われて、答えに窮する女御だったが、無視はさすがに出来ない。
「いえ、私などにどうして優劣を弁えることができましょう。仰る通りどちらも素晴らしいですが、何時が特に、ということもない中では、『あやし』と聞いた秋の夕べがはかなくお亡くなりになった母の露の縁として、自然と好ましく存じられるかと」
※いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べはあやしかりけり(古今集恋一-五四六 読人しらず)
 ごく素直に打ち解けた感じに話しながら、途中で恥ずかし気に言いさすのが無性に可愛らしく思えて、ヒカルはつい口が滑る。
「あなたもそれでは情趣を交わしてください、誰にも知られず
自分ひとりでしみじみ身に沁みる秋の夕風ですから
忍び難い折々もございます」
 あからさまな求愛の歌である。女御に返事ができようはずもない。氷点下まで冷え込んだ雰囲気がひしひしと伝わって来る。この一言で、母絡みの恨みつらみの藪蛇も這い出てきたにちがいない。
 几帳など乗り越えんばかりの勢いに、女御の方は当然ながらドン引きである。ヒカル自身も(しまった、若者じゃあるまいしいい年してダサ)と我に返り、しょんぼりする様子がいかにも深い憂いに満ちて美しいが、女御にしてみればますます嫌悪感が募るばかりだ。そろそろと奥に引っ込もうとする気配を察したヒカル、
「えらく嫌われてしまった。真に情愛の深い人は、そんな仕打ちはしないものと思いますよ。よろしい、ただ今からは憎まないでください。これ以上辛くならないように」
 と言ってそそくさとその場を去った。
 しっとりと留まっている残り香さえ、女御には疎ましく感じられる。会話を確とは聞いていない女房達は御格子など下ろしながら、
「このお褥の移り香は得も言われぬすばらしさですわね」
「どうしてこう何から何まで『柳の枝に咲かせ』たるご様子なのでしょう」
※梅が香を桜の花に匂はせて柳が枝に咲かせてしがな(後拾遺集春上-八二 中原致時)
「尊いですわね」
 などと褒めちぎっていた。

 西の対に渡ったヒカルは、すぐには中に入らずしばし物思いにふけり、端近で横になった。燈籠を遠くにかけて、傍近くに女房達を伺候させ話をする。
(あんな無謀な真似をする癖がいまだに残っていたとは)
 と、自身でも反省せずにはいられない。
(さすがにこの歳でああいうのはどうよ自分。昔はもっととんでもない、もっと罪深いこともいっぱいあったけど、そりゃ若気の至りというか、考えも浅くて未熟な故の過ちって感じだったから仏や神もお許しになったってものだろうな)
(とすると私も成長したよね。寸でのところで引き返せるってことはさ♪)
 あくまでポジティブなヒカル、結局は自画自賛する。
 前斎宮の女御は、秋の情趣を知ったがましく応えていたこと自体悔しく恥ずかしく、いたたまれない。
(あんな邪な心をお持ちであったのに、わたくしときたら何も気づかず。母君が悩まれていたご様子をこの目で見ていたというのに)
 人知れず心中くよくよと思い悩むが、ヒカルの方は実にさっぱりと何もなかったような顔で、むしろ常より一層親らしく振る舞う始末だ。紫上に前斎宮の女御と話したことについて、細やかに語り合う。
「女御が秋に心を寄せてらっしゃるのも趣深いし、あなたが春の曙に心を寄せてらっしゃるのももっともだと思うね。季節折々に咲く木や草の花を観賞しがてら、あなたの心に留まるような管弦の遊びとかやってみたいものだ。公私ともに忙しい身にはふさわしくないんだろうけど、どうしたら望みどおりに暮らせるかな。ただ、あなたに物足りない思いをさせたくないんだよね私は」
 もちろん女御に言い寄って不興を買ったことなど、おくびにも出さない。
参考HP「源氏物語の世界」他
<薄雲 七 につづく
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