おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

薄雲 二

2020年8月5日  2022年6月9日 
 こんにちは!宣旨の娘、明石の姫君の乳母です。この度、無事京に戻ってまいりました。ご挨拶がてら、これまでの経緯をお話しさせていただきますね。

 明石の御方さまのご決心はただ「姫君の将来のために」。その一心でよく堪えてらっしゃいましたが、私も姫君に同行すると決まるや、思わず涙を見せられました。
「貴女ともお別れなんて……朝な夕なの物思わしさや、徒然の話し相手にもなって貰って、常々慰められてきたのに。これからますます寄る辺なく、どんなにか悲しい思いをせねばならないのかしら」
「はじめからこうなる運命だったのでしょうか、思いがけぬことでお目にかかり、長いこと大変お世話になりましたこと、忘れません。お辛い決心をなさってきっと寂しく思われるでしょうが、このままふっつり縁が切れてしまうなんてことは絶対、ないです!きっといつか再びお会いできましょう。ただ、暫くの間であれ離れ離れになって、また思いもかけない場所でのご奉公をしますのも、不安なものでございましょうね……」
 私も、職場が内大臣さまのお邸という華々しい場所にガラっと変わることに気おくれして、若干弱気にはなっていたんですね。御方さまと泣き泣き過しているうち、あっというまに師走になりました。

 あの頃は雪や霰がよく降りました。山里の寂しさがますます募る中、御方さまは
「どうしてこんなに次から次へと心配事が絶えないのかしら……」
 と呟かれながら、いつもよりも念入りに姫君を撫でたり身なりを直したり、よくお構いになっておられました。明石で暮らすのならば何不自由ない富豪のお嬢様でいらっしゃるのに、過去のこと未来のこと、考えるべきことが多すぎる身の上でいらしたのはまことに、どういった宿縁なのでしょうね。
 雪が空を暗くするほど降り積もった朝、御方さまは珍しく端近に座られて、汀の氷などをじっと見ておられました。着慣れた白い衣を幾重にも重ね着したその姿形、頭つき、後ろ姿など、その気品あふれる美しさといったら、
「どんなに高貴な身分の方といえども、ここまでのお方はなかなかいらっしゃらないのでは」
 と他の女房共々見惚れてしまったくらいです。御方さまは落ちる涙をかき払って、
「こんな冬の日は、ましてどんなにか心寂しいことでしょう。
 雪深い山奥への道は晴れずとも
 手紙だけはくださいね、跡が絶えないように」
 と詠まれたので、私も貰い泣きしつつ返しました。
「雪の消える間もない吉野の山奥を訪ねたとしても
 心の通う手紙を絶やすことなどしましょうか」
 すこしは慰めになりましたかどうか。

 この雪がすこし解けたころ、ヒカルさまがお渡りになりました。姫君をお迎えに来られたのです。いつもは待ち遠しいお越しも、今回ばかりは辛いものでした。残される立場の御方さまにすれば、身を切られるような思いでいらしたでしょう。この期に及んで、まだまだ迷いが断ち切れないお心の内は、傍で見ていても痛い程察せられました。
 姫君がちょこんと座っているお姿はまことに可愛らしく、ヒカルさまも目を細めてご覧になっています。この春より伸ばしていた髪は尼削ぎ程度になり、ゆらゆらと見事で、お顔の表情のゆたかさや目元のほんのりした美しさなどはたとえようもありません。この可愛い盛りの我が娘を手放される御方さまの思いを、誰よりもよくおわかりになっていたヒカルさまは、繰り返し優しく言い聞かせられながら夜を明かされました。
「いいえ、不甲斐ない身分ではない者として扱っていただけましたら、それで十分でございます」
 気丈に仰られる御方さまの頬を涙が伝います。まことに胸が痛む夜にございました。

 いよいよ出立という時、車を寄せてある所に、御方さま自ら姫君を抱いて出ていらっしゃいました。姫君は無邪気に早く早く!と急かされます。母君の袖をつかまえて「乗りましょう」と引っ張る、まだ片言のその声はあまりにもあどけなくて、とても見ていられない光景でございました。
「末遠き二葉の松に引き別れて
 いつか立派に成長した姿をみることができるでしょう」
 最後まで言い切れず泣き崩れる御方さまに、ヒカルさまがそっと寄り添われます。
「生い初めた根、貴女の子として産まれて来た因縁も深いのだから
『武隈の松』のように二つ並んで時を重ね、いずれ必ず一緒に暮らせるようになりましょう
 ご安心なさい」
※植ゑし時契りやしけむ武隈の松を再びあひ見つるかな(後撰集雑三-一二四一 藤原元善)
 優しい慰めの歌に、少し気を取り直された御方さまでしたが、別れの悲しみが無くなるわけではありません。少将など身分の高い女房達が御佩刀や天児のような品を持って、続々と車に乗り込みます。見目のよい若い女房や童女などを乗せた御供の車を最後に、一行はついに山荘を離れました。
 見送られる御方さまはじめ、尼君、残された方々の心中を思いますと、どうにもいたたまれない思いが胸を塞ぎました。
 
 暗くなるころ車は二条院に到着しました。車を寄せるや、邸の華やかな雰囲気がすぐに伝わってきます。私も含め田舎暮らしに慣れた女房たちは「うわあ……場違い感」と怖気づきましたが、入ってみればどこもかしこも気持ちよく整っています。西面の部屋が姫君のために特別に用意されていて、小さな調度類が可愛らしく並べられていました。さらに驚くべきことに乳母用の、つまり私の部屋まで、西の渡殿の北側に割り当てられていたのです。
 姫君は車中で寝入ってしまいましたが、抱き下ろされてもすぐには泣いたりしませんでした。差し出されたお菓子も召しあがり、あちらこちらと見回して、母君が見えないのに気づかれたのでしょう、べそをかき出したので、乳母の私にお呼びがかかりました。何やかやと慰めて、気を紛らわせましたが、いじらしさに私まで涙が出そうになりました。
 まして姫君がいない、人も少なくなったあの山荘は、どんなにか寂しかろうと思うとお気の毒でなりませんでしたが、ヒカルさまは朝な夕な好きな時にいつでも姫君の様子をご覧になってお世話できるとあって、満足げでいらっしゃいました。

 姫君もしばらくの間は、見知った女房などを探して泣いたりしておられましたが、元来素直で聞き分けの良いご性質ですのですぐに慣れました。対の上……紫上が本当に子供好きでいらして、扱い方もとてもお上手でしたので、特によく懐いて後をついて廻ります。そこがまた可愛いと、ますます抱いたりあやしたりなさいますので、もうはた目には実の母子としか見えません。乳母として身近に仕えておりますと、対の上が心底から姫君を我が子として慈しみ、愛していらっしゃることもはっきりとわかります。同じことならどうしてこの方の御腹からお産まれにならなかったのか……誰も表立って口には出しませんが、周りの女房たちの間では事あるごとにそう囁かれておりました。
 そうそう、此方ではもう一人身分の高い方が乳母として加わりましたので、私も少し余裕が出来ました。

 御袴着の祝いは、元々お部屋が雛遊びのように可愛らしく調えられておりましたので、これといって準備するようなこともありませんでした。儀式は慣習にのっとり正式な形で行われましたが、常日頃から来客の多いお邸ですので、参上されたお客様も特別というわけでもなく、内々のお披露目といった感じでした。姫君がお澄まし顔で襷をかけているその胸元はなんとも可愛らしく、みなが笑みを誘われました。

 大堰の山荘には欠かさず近況報告を送っていましたが、ある時たいそう色合いの美しい立派な装束がたくさん贈られてきました。姫君がこちらでとても大事にお世話されていることへの、感謝の贈り物として私たちお傍仕えの女房に与えられました。ヒカルさまご自身も、あちらにはかなりお気を遣っていらして、お手紙はもちろん、訪れもなるべく間遠にならないよう年内にこっそりお渡りになっておられました。対の上も特にそれで怨むでもなく、可愛い姫君に免じて大目に見てらしたようです。
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