おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

薄雲  一

2020年8月4日  2022年6月9日 
 冬になると、川に面した山荘はさらに心細さを増した。
「いつまでもこんな仮住まいを続けてるわけにもいかないよね。もういい加減、私の邸近くに移ることを考えない?」
 ヒカルが勧めても、女君は未だ心を決められない。
「二条院に移ることで『つらき所多く』なお気持ちをすっかり見切ってしまっては、未練も残らない程になりそうだけど……『いかに言ひてか』何と言ったらいいものでしょうか」
※宿変へて松にも見えずなりぬればつらき所の多くもあるかな(後撰集恋三-七〇五 女)
恨みての後さへ人のつらからばいかに言ひてか音をも泣かまし(拾遺集恋五-九八五 読人しらず)
「では姫君は?ただ迷ってばかりいたところで何も進まないでしょう。姫君の将来に関しては私にも思う所がある。貴女の父君も望んでいたとおりの将来をね。だとすれば、こんな山里に置いたままにするのは何とも畏れ多いことでしょう?二条院の、対の君にはもう話は通してあるから心配いらないよ。すごく楽しみにしてる。しばらく向こうに馴染ませて、袴着の祝いも普通にやりたいんだよね。こんな山奥で人目を避けて、じゃなく」
 オブラートに包んで遠回しに言ったところで、もう真意は伝わっているのだ。ただ先延ばしにしているだけと悟ったヒカルは率直に、だが真剣に話をした。女君もうすうす予想はしていたにせよ、ますます胸がつぶれる心地がする。
「姫君が改めて、尊いお方として大切に扱われましても、生まれた場所や親の素性などを漏れ聞く人もいるかもしれません。そういうことを取り繕わねばならないのは、厄介なことと思われないでしょうか……」
 娘を手放したくないがための苦しい言い訳。ヒカルはさらに畳みかける。
「心配するのはわかるけど、そこは絶対に大丈夫。向こうとのつきあいは何年にもなるけど、子供がいなくて寂しいんだよ。ほらこの間入内した前斎宮ね、ほぼ同じくらいの年回りなのに、親代わりとして喜んでお世話してるくらいなんだから。ましてこんな小さい、あどけないお歳の子を粗略に扱ったりはしない。きっと愛情こめて存分にお世話する。そういう御性分なんだ」
 如何に安心できるお世話役かを語るため、紫上を存分に褒めそやしたことが、別の逡巡を生み、明石の君は考え込んでしまった。
(本当に別格のご寵愛を受けてらっしゃるんだわ、西の対の方というのは。いったいどんな方なら定まられるのか、と噂されるほどのヒカルさまをすっかり落ち着かせたという方……そうそうたる面々の中でも並大抵の宿縁ではなく、お人柄も飛びぬけて優れていらっしゃるということなのだろう)
(私のような取るに足らない身分、並び立てるような扱いでもないのに、下手にしゃしゃり出たりなどしたら、さすがに目障りとお思いになるかもしれない。わが身はどうなっても同じことだけど、将来のある姫君の身の上は、ゆくゆくはあの方のお心次第。それならば、仰せの通り何もわからない幼い間にお譲り申し上げたほうがいいのかも)
(いいえ、ダメ。堪えられない。もし手放してしまったら、不安で不安でたまらない。この山里での所在なさを慰める術もなくなってしまっては、どうやって暮らしていったらいいの?何を楽しみに?たまさかのヒカルさまの訪れを待つだけ?)
 堂々巡りで身動きが取れなくなった明石の君を、その母の尼君が静かに教え諭す。
「つまらない心配だこと。娘を身近でお世話できないことは確かに親としては寂しいし辛いことだけれど、ただ姫君にとって良いことは何かをお考えなさい。浅いお気持ちで仰っていることではないでしょう。ただヒカルさまを信頼して、お渡しすればいいのです。母方からの筋によっては、帝の御子であっても身分に幅ができてしまうのですよ。内大臣さまだって、これほど素晴らしい容姿と資質をお持ちでいながら臣下として仕えているのは、祖父の故大納言の位階がただひと刻み劣られていたがため更衣腹と言われた、その違いであらせられたようですよ。上つ方でさえそんな分け隔てをなさるのだから、まして下々は当然それにならうでしょう。それと、いくら親王方や大臣の御腹と言えど、やはり正妻であってこそ。脇腹なら世間は軽視しますし、父親の待遇も同等にはできないものです。あなたの娘など、他のもっとやんごとなき方々の御腹から子がお産まれになれば、すっかり忘れ去られてしまうのですよ。身分がどうあれ、まず父親にひとふし大事にされることが、そのまま先々も軽んじられない初めとなるのです。御袴着の祝いだってこんな山里に隠れてでは、どんなに一生懸命行ったとしても何の栄えがありましょう。貴女は親として、ただ一心にお任せ申し上げ、そのおもてなしくださる様子をしっかり見守ればよろしいのです」
 尼君にここまではっきりと言われ、さすがの明石の君の心も傾いた。なにせ女房の中でも賢い者に聞いても、占わせたりしても、やはり
「姫君は御移りになったほうがよいでしょう」
 という意見ばかりなのだ。
 無理に押し切ることは逆効果と察しているヒカルはただ問う。
「姫君の袴着の祝いはどうしようか?」
「何事につけても不甲斐ない私の元に姫君を置いたままでは、仰る通り将来もおぼつかなく思えます。かといって私がご一緒するのでは、どんなに物笑いの種になりましょう」
 揺れ動く気持ちをそのままに、はじめて承諾といえる返事が届いた。ヒカルは儀式のための吉日を選び、諸々を決め粛々と準備を進める。

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