乙女 六
ヒカルは太政大臣、右大将は内大臣に任ぜられた。ヒカルは手持ちの政務の多くをこの親友に譲り渡す。堂々としていて人柄も申し分なく、いつかのヒカルとの韻塞ぎ対戦には負けたものの、学問にも熱心で実務能力も高く、安心して任せられる人物である。
新内大臣には幾人もの妻妾に子供十余人がいて、男子はいずれもすくすく育ち次々に世に出ている。いまや押しも押されぬ栄華を謳歌する一族であるが、娘は弘徽殿女御ともう一人、皇族の腹から生まれた者がいた。その女性は今では按察使大納言の北の方となり、現在の夫との間に数多くの子供をもうけている。内大臣は、
「我が娘をその子たちと混ぜて継父に委ねるのは、まことに不都合」
と娘を引き取り、祖母である大殿の大宮に預けた。女御よりはずっと軽い扱いではあったが、高貴な筋では劣らず、器量も気立てもよい可愛らしい娘であった。
元服後は「冠者の君」と呼ばれるようになったヒカルの息子もまた、この大宮のもとで育った。いとこにあたるこの娘とは幼い頃から仲良しだったが、それぞれが十歳を過ぎてからは、
「いくら親戚といえども、女子が男子に心を許すものではない」
と内大臣に諫められ部屋も別々に離された。
貴族女性の常として部屋の外に出歩くことすら稀になった姫君のもとに、冠者の君は足しげく訪れた。桜の枝や紅葉を持って行く、雛遊びの部屋にご機嫌伺いをするなど、幼心にも寂しいと思ってか、とにかく何かにつけて一緒にいる。二人とも好意を隠そうともせず堂々としていて、恥ずかしがりもしなかった。
お世話役の女房たちも、
「何の、子供同士のことですもの。長年の幼馴染ですのに急に引き離すなんて、どうしてそんな不自然なことができましょうか」
と微笑ましく見守っていた。姫君の方はたしかに何も考えていなかったが、男君はどうであったろうか。見た目はたしかにたわいもない子供同士だったが、離れ離れにされたことで、逢える逢えないをはじめて意識したことがきっかけともいうべきか。
ある時から、未熟ながら大人ぶった筆跡で書き交わした文が、幼さゆえの不用意でポロリと落ちて散らばることが続いた。姫君付きの女房達の中には
「二人がただの幼馴染の関係を逸脱しつつある」
ことをうすうす気づいている者もあったが、いったい誰に言うことがあろうか。見てみぬ振りである。
ヒカル太政大臣と内大臣、両方の新任の大饗宴も終わり、政務もなくのんびり過ごしていた頃であった。時雨がさっと降りかかり『荻の上風』も心にしみいる夕暮れ、大殿の大宮のもとに内大臣が参上した。
※秋はなほ夕まぐれこそただならね荻の上風萩の下露(和漢朗詠-二二九 藤原義孝)
姫君も呼び、琴など弾かせる。何事も上手にこなす大宮が直々に伝授したもので、悪くはない音色であった。
「琵琶は、女性が弾く姿はすこし違和感がありますが、如何にも達者な感じはしますね。今の世に正しく弾き伝えている人は中々おられない。何某の親王や何とかの源氏やら」
内大臣が呟く。
「女性では、太政大臣が大堰の山里に囲っておられる方が琵琶の名人らしいですよ。もとより音楽の名手の血筋とはいえ、子孫の代になって、しかも田舎暮らしにて年を経た人が、どうしてそのように上手に弾けるのか……ヒカル太政大臣も、殊の外褒めていたようです。他の芸とは違い、楽の才というものはやはり広くさまざまな人、さまざまな楽器に調べを合わせてこそ上達していくものですが、独学であのヒカルを唸らせるまでのレベルに至ったというのはまことに珍しい。どうですか、母君も久しぶりに」
大宮にも琵琶の演奏を促す。
「わたくしなど、柱を押さえることも久しぶりになってしまいましたが」
謙遜しながらも見事な演奏だ。ひととおり弾き終えた大宮は静かに呟く。
「その大堰におられる方というのは幸運な上に、不思議なほどよくできた方なのですね。太政大臣があのお歳になられるまでお持ちでなかった女の子を生み出されたばかりか、自分の傍に置いてみすぼらしくするままでなく、れっきとした方に譲るというお心を決められたところ、申し分のないお人と聞いておりますよ」
内大臣は頷き、溜息をつく。
「本当に、女はただ心がけひとつで世に重用されるものでございますね……我が弘徽殿女御は何の疵もなく、何事も他人には負けない生まれ育ちだと考えておりましたが、思わぬ人に負けてしまった。どういう宿命だったのか……まったくこの世は思うようにならぬものと思い知らされました。せめてこの姫君だけは何とか思うようにしたい。春宮の元服まであと数年、入内を考えないでもなかったのですが、あのような幸運を持った方から産まれた姫がまたお后候補者として後から追ってきます。年齢的にもちょうどよい年回りですし、入内なさった暁には対抗できる人などいないのでは」
「まあ、どうしてそのようなことがありましょうか。弘徽殿女御の入内に際しては故大臣も、この大殿から中宮を出さずに終わるものかと、それは熱心に奔走されていらっしゃいました。生きていらしたならこの度のような……筋を違えるようなことなど決してなかったでしょうに。太政大臣のなされようはすこし、おかしいですわね」
大宮も立后の件には納得していないのだった。
姫君は筝の琴を弾く。幼子のようなひたむきさが何ともいじらしい。ゆらゆらする髪の下がり端も品よく、長い髪が艶々と広がるさまなどを見つめる視線に気づいたか、恥じらって少し顔を背ける。その横顔も仕草も愛らしく、取由(とりゆ)の手つきは精巧な人形のように白く美しいので、大宮も何と愛しい子かと思う。小曲など軽く弾いて調子を合わせ、押しやる。
内大臣は和琴を手に取った。六弦で奏でられる律調が、この名人の手で良い感じに崩されて斬新な音色をたてる。実に味わい深い。木の葉が落ち切った庭の前で、そこかしこに立てられた几帳の後ろに集まった古参の女房達がじっと耳を傾ける。内大臣は
「風の力、けだし寡(すくな)し」
と漢詩を朗誦し、
「琴のせいではないが、不思議と哀れを誘われる夕べだね。もっと弾こうか」
といって「秋風楽」に調子を整え唱歌する。朗々と響き渡るその美声に皆が聞きほれていると、そこに冠者の君が参上した。なお喜びの声が加わる。
内大臣は几帳をたてさせ、「こちらに」と招き入れる。
「この頃は中々対面もかないませんね。どうしてここまで学問に打ち込ませるのかな、貴方の父君も。学問は寿命を縮めるものとよくご存知のはずだけどね。それをこうも押し切られるのは何かお考えもあるのだろうが、若いのにこんなに籠りきりなのも気の毒だよね。さ、たまには違うこともなさい。笛の音にも昔の聖賢の教えは伝わってるものだから」
内大臣に笛を渡されて、冠者の君が吹き始める。内大臣の和琴、大宮の琵琶、姫君の琴に唱和する。
そのまことに若々しく美しい音色に、内大臣は他の演奏を止めさせ、自ら拍子を軽く鳴らし、
「萩が花摺り」
などと歌う。
「ヒカル大臣だってこういう楽の遊びにはいたくご熱心だけど、忙しい政務なんかからは極力逃げてるからね。まあ世の中なんて面白くないものだし、パーッと気持ちよく過ごそうぜ!」
などと盃をすすめているうち暗くなってきた。燈火をつけ、湯漬けや果物などがふるまわれる。
内大臣はさり気なく姫君を離れた部屋に引き取らせた。
「いくら幼馴染っていってももうお年頃だからね。本来琴の音すら聞かせないもんだよ」
貴族女性の嗜みとして当然のこと、とばかりに思っている。
「何だかお気の毒……せっかく久しぶりに来られたのにねえ」
大宮の傍近くに仕える古参の女房達は、冠者の君の微妙な表情の変化を読み取ってこそこそと囁き合った。
その夜、内大臣は座を立ち帰ったふりをして、お目当ての女房のところに忍んで行った。そっと身を細めて帰る途中、女房達がヒソヒソ話をしているのが聴こえる。気になって耳を留めてみると、どうも自分の噂らしい。
「あんなに偉そうにしてらっしゃるけど、しょせんは人の親ですわね。いずれ、鼻をへし折られるようなことが出てきましょうよ」
「子を一番知るのは親、なんて嘘よねえ。何一つ気づいてないなんて」
内大臣の足が完全に止まる。
「なんということだ……!まさかそんなことが……仲が良すぎるとは思っていたが、まだ子供だと油断していたらこのざまか。知らぬ間に皆に笑いものにされていたとは……なんといやな世の中だ」
女房達の内緒話を残らず聞いた内大臣は、そのまま音も立てずに出て行った。
邸の外から、前駆が先を払う声が盛んに聞こえる。
「あら、内大臣さまって今お帰りなの?」
「嫌だ、どこに隠れていらしたのかしら」
「あのお歳で、お盛んだこと」
女房達が囁き合う中、噂していた二人は震えあがる。
「ちょっと待って……漂って来たあの匂い、てっきり冠者の君がいらっしゃるのだとばかり」
「どうしよう、きっと聞かれちゃったわよね?あの方厄介なご気性だから……」
内大臣は帰る道々考えた。
(考えてみればそこまで悪い話でもない。相手はヒカルの御曹司、見目もよい、頭もよい、将来性も万全。が、よくありがちな親戚同士の結婚。世間もそういう取り沙汰をするよねえ、へーえ身近で済ましたんだーみたいな?ヒカルが梅壺の女御をごり押しして、我が娘を押しのけたのも超腹立たしいのに……もしかしたらこの姫君を入内させればワンチャン勝ちの目があるかも?なーんて思ってた自分、とんだピエロだよなあ。ああーもう!ホント悔しい。悔しすぎる色々と)
元々の仲は概ね昔も今も大変良いといえる二人だが、特に恋愛面では競い合った記憶も蘇り、ますます面白くなく、熟睡できないままに夜を明かした。
(母君にしてもあんまりじゃないの?二人の様子なんぞ間近で見ていてご存知だったろうに、溺愛する孫たちだからと好きなようにさせてらしたんだろう)
女房達がひそひそしていたのを思い出す度に忌々しく、心穏やかでない。スッパリと白黒はっきりつけたがる気性には到底鎮め難い一件であった。
参考HP「源氏物語の世界」他
コメント
コメントを投稿