乙女 一
賀茂祭りの頃ともなると気候もよく、毎日の空模様も心地よい。一年前には賀茂斎院として祭りに参加していた前式部卿宮の娘は、桃園宮邸で静かに過ごしていた。庭先の桂の木の下を吹く風に、過ぎ去った日々を思う。若い女房達の心も何となくざわめくところに、ヒカルからの手紙が届いた。
「今年の御禊の日は如何でした?のんびり過ごされましたか?
今日は、
思いもかけませんでした
昨年は賀茂斎宮として禊をなさっていた貴女が、今再び喪服を脱ぐための禊をなさろうとは」
紫色の紙をまっすぐ立て文に、藤の花をあしらっていた。季節柄にぴったり合っていて感心したのか、すぐに返事があった。
「藤衣(喪服)を着ていたのはつい昨日のことと思っていましたのに
今日は禊の瀬に変わるとは
はかないものです」
※世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬となる(古今集雑下-九三三 読人しらず)
そっけなく歌だけだが、ヒカルは例によってじっくりと眺める。
やがて故父宮の忌も明けて喪服を脱ぐ段になると、ヒカルから宣旨の女房のもとに山と心付けが届けられた。姫宮は心苦しいことと思い、返すように言うが、
「あからさまに下心が見えるような色めいた手紙でしたら、何だかんだと理由をつけて辞退もしましょうが、長年こうした折々のお見舞いなどは手慣れてらして、親戚として筋の通った贈り物ですので。お返しなどしたらあちらのお顔を潰しかねませんし、却って邪推されかねませんよ」
宣旨の女房は困惑するばかりだ。
ヒカルは、桃園宮邸を訪れる際は必ず女五の宮の方にも顔を出すようにしていた。宮は手放しで喜び、
「この君、昨日今日まではほんの子供と思っておりましたのに、立派な大人になられてこのようにお見舞いくださるとは。お顔や姿のお美しさに加え、気立てまでが人並み以上に優れてらっしゃいますわね」
と褒めちぎる。若い女房達は、まあまあ……と苦笑する。
そんな五の宮が姫宮と対面された折にはこんな話もした。
「内大臣が、こんなに心をこめてお手紙をくださる由、昨日今日に始まったような軽いお気持ちではありませんよ。貴女の父君も生前、筋異(すじこと)に……貴女が賀茂斎院に選ばれたことで、お世話申し上げることができなくなったとお嘆きでした。心づもりしていたことから強いて離れるしかなかった、悔しいともよく仰っておられましたね」
「わたくしにしても、故大殿の姫君がヒカルの君の正妻としていらした間は、姉の三の宮がお気になさってはと、口をさし挟むようなことは出来ませんでした。その方もお亡くなりになった今なら、故父宮のご意向通りになられたとしても何も悪いことはあるまいと思いますよ。昔に戻ってこのように熱心に仰っていただけるのも、元々はそうなるはずであったのですから」
ずいぶん昔からきまっていた話かのように言われたのが気に障ったか、
「亡き父宮にもずっと強情者と思われ続けてまいりましたわたくしが、今更世間の常識に従うというのも、ひどくおかしなことに思います」
きっぱり撥ねつけた。誰も何も言えなくなるような毅然とした態度に、叔母といえどもそれ以上無理に勧めることはできなくなった。
宮家に仕える女房達は、上から下まで皆がヒカルに心を寄せている。姫宮はそういう周囲の思惑を不安にばかり思っている。当のヒカルにしても、心のたけを尽くし、愛情を見せて、相手の気持ちが揺らぐのをじっと待ち続けてきたものの、これ以上無理をしてまでこの姫宮の殻を打ち破ろうとまでは思っていないだろう。
参考HP「源氏物語の世界」他
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