絵合 一
入内が表ざたになって以来朱雀院からの手紙は絶えていたが、その日宮の元に大量の贈り物が届いた。得もいわれぬ素晴らしい装束の数々、いくつもの櫛の箱、打乱(うちみだり)の箱、香壺の箱など、すべてが並大抵のものではない。薫物も各種揃え、百歩の外を遠く過ぎても匂うといわれる特上の薫衣香まで調えてある。ヒカルの目に触れることを予想してのことだろうか、どれをとっても特別誂えの最高級品であった。
居合わせたヒカルに、女別当が「このような次第で」と報告する。櫛の箱の片端だけ見ても、途方もなく精緻かつ優美で、滅多に見ない巧みな造形である。挿し櫛の箱の心葉(こころば)に
「別れ路に贈った小櫛にかこつけて、
遙か離れた仲だと神が諫めたのだろうか」
とあるのを目にしたヒカルは考え込んだ。
(これは……思ったより本気度高かったんだな。何と畏れ多い上にお気の毒な。私も、うまくいかない恋にこそ逆に燃え上がっちゃう性質だからわかりみ……伊勢に下向される時の前斎宮をみて、いつか必ず!と思っておられたんだろう)
(で、時は流れて譲位して自由な身になって、斎宮も帰京、やっと!って時に横から若者にかっさらわれたみたいな。のんびり静かに暮らしておられるお立場とはいえ、面白くはないだろうな。いや、私ならきっとこのまま放ってはおけない。何か実力行使するかどうかは別として)
(何でいつも私は、ある意味ゴリ押し気味なことを思いついて、むやみに兄の心を悩ますんだろう。右大臣家から色々された時は何でもっと庇ってくれないのかと辛かったけど、あの二人のタッグに勝てるわけもなし、その後の展開は私の自業自得でもあるし、むしろ私に対しては常に優しくて何でも許してくれる感じ……エっもしかして私って相当酷いヤツ?)
今更ながら反省しきりのヒカルだった。
「ご返歌はどのように申し上げるのでしょうか。また、お手紙は?」
あまりの贈り物のすさまじさに前斎宮は完全に気が引けてしまっている。手紙などとんでもない、返歌は……と考えているうちに具合まで悪くなりそうで、中々筆がすすまないところに、
「返事をされないのはさすがに情の無いことですし、畏れ多すぎです」
女房達が口々に強く促す。さらにヒカルもダメ押しに諭す。
「いや、本当に良くない事ですよ。形式的にでも何らかのお返事はなさらないと」
宮は恥ずかしさに消え入りたく思うが、気を取り直して、あの伊勢下向の日を思い浮かべる。
(朱雀院……とてもお優しそうな、お美しい方だった。天上人らしく清らかな空気を纏われて、目を潤まされて。儀式のあと、その涙をそっと拭いていらしたっけ)
幼心にそこはかとない感動を覚えたことも、つい昨日のことのように眼前に蘇る。亡き母・御息所の思い出なども繋がってしみじみ悲しくなった宮は、ただ今の気持ちを素直に書いた。
「別れの櫛を頂いた時に、遙か天上から仰せられた一言が
帰京した今は悲しく思われます」
使者は身分に応じた禄を下賜され、返歌を手に去っていった。ヒカルは中身を見たくて仕方が無かったが如何ともしがたい。口にも出さず態度にも見せなかった。
(正直、年回りからすると朱雀院なんだよな。体つきも華奢で女顔だから、小柄な宮とはお似合いかもしれない。今上帝は何といってもまだまだ子供だから、宮は内心良く思っていないかも……)
などとクヨクヨ悩んでいたが、この期に及んで入内中止というわけにもいかない。万事よきように取り計らい、信頼のおける修理宰相に委細を任せ、自身は宮中に参内することにした。
いくら亡き六条御息所の遺言とはいえ、ヒカルは父親でもないし、朱雀院への遠慮もある。あからさまに後見している風にはみせないよう、ただ挨拶に寄っただけを装う。宮邸はもとより優れた女房達が多く、更に里下がりしていた女房も続々と参集してきたので、まさに理想的な環境にあった。
「ああ、もし母君の故御息所がここにおられたなら、どんなにか張り切ってお世話なさっただろうに。世にも稀なる惜しい人材だった。あれ程の方は中々いない。研ぎ澄まされた美的感覚、表現する才覚、何もかも素晴らしい、優れた人だった」
折々に思い出さずにはいられないのだった。
一方帝は、藤壺の女院からの説明を神妙な面持ちで聞いている。
「新しいお后は、貴方よりずっとお歳上のしっかりしたお方ですよ。よくお気をつけてお逢いくださいませ」
年齢よりは大人びて見える帝だが、このように我が母から直々に諭されれば緊張もするというものだ。
その夜遅く参上してきた前斎宮は、まことに慎ましやかでおっとりとしている、小柄で華奢な女性だった。
(弘徽殿女御ちゃんは同い年くらいだし、パーッと明るくって話しやすくて可愛いけど、この人は全然違うな。あんまり喋らないし、落ち着いた感じだし、何を喋っていいのか……あのヒカル内大臣が腰を低くしてうやうやしく扱ってる程の人、あんまり子供っぽいこと言ったら笑われるかも。でも……凄くきれいな人だな)
そんなわけで泊まる数などはきっちり対等にしたが、昼間に出向くのは弘徽殿の方が多かった。まだまだ子供同士で気兼ねなく遊ぶのが楽しいお年頃なのである。
弘徽殿女御の父・権中納言はこの状況を穏やかならず注視していた。
「ヒカルめ……この俺様が磨き上げ内裏に送り込んだ我が娘に、これまたハイスペック&ハイクオリティの前斎宮を当ててくるとは。さすがは俺様の唯一無二のライバル……ギリリ」
朱雀院においては、あの櫛の箱の返歌を受け取ってもなお諦めはつかなかった。ちょうど参上してきたヒカルと話すことにしたものの、以前流れでうっかり斎宮を見初めたことを漏らしてしまっているので非常にバツが悪い。ここでまた自分から同じ話題を出して、ずっと狙ってたのに! などと冗談めかして言う境地にもまだない。
ヒカルも大方察してはいたがおくびにも出さず、ただ
(今どの程度のお気持ちなのか)
ということだけは知りたかったので、
「ああ、そういえば」
さも今突然思い出しましたというように前斎宮の話を切り出す。贈って来られた衣裳や薫物をどこで誂えたか、などと当たり障りのないと思われるところから触れてみたが、院は返事もなおざりで、表情も固い。あ、これはヤバイと察したヒカルは速攻で話題を切り替えつつ、
(しかし院が、これほどまでに長年忘れられず執着されている前斎宮のご容貌って、どんだけ美しいのか……見たい。でも、もう不可能だよね。うーーーん)
妬ましく思うヒカルだった。
前斎宮は極めて品行方正で、誰かに見られる隙を作るような子供じみた状況は夢にも起きようがない。奥ゆかしく品格ある雰囲気は日を追うにつれいよいよ深くなるばかりで、女御としてまことに理想的な女性と誰もが納得した。
このようにいずれ劣らぬ女御二人が、同等に並び立ちそれぞれ競っているので、とても入り込む隙間などない。兵部卿宮は我が娘を送り込むタイミングをつかめず、
「帝がもうすこし大人になられたら、いくらなんでもウチの姫をお見捨てされることはあるまい」
時機を待っているようだが、どうなることやら。
参考HP「源氏物語の世界」他
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