松風 一
明石の君のもとには都からひっきりなしに便りが届く。是非とも上京するようにと矢の催促だが、女君は我が身の程を憂えて躊躇う。
「申し分ない高貴な身分のお方でさえ、今日は明日はいらっしゃるのか、その次は、と気を揉んで、悩みはたえないと聞くのに、ましてものの数にも入らない私がそんな世界で馴染んでいける?私の賤しい身上が知れてしまえば姫君の不面目にもなる……たまさかのお渡りをじっと待ち続けるだけの暮らし、人の物笑いの種になるかもしれない、何があってももう帰る場所はない一方通行の道に飛び込んで、本当に大丈夫なの……?」
考えれば考えるほどネガティブな方向にしかいかない。とはいえ、ヒカルとの間に産まれた姫君を、この田舎に留めたまま子の数に入れて貰えないのはあまりに可哀想だ。どうあっても京に向かうしか道はないと頭ではわかっている。ただ感情が追いつかない。両親も、同じく不安と期待がせめぎ合って踏ん切りがつかない。誰も彼も気苦労のたえない日々を過ごしていた。
明石入道は思案の末、嵯峨野の近く、大堰川のほとりの山荘を仮住まいとして整えることに決めた。昔、中務官と呼ばれた妻の祖父が領有していたが、その死後はしっかり引き継ぐ人も無く長年荒れるに任せていたのだ。当時から代々留守居役をしていた者を呼び迎えて相談する。
「世の中をもはやこれまでと見切りをつけ、海辺の侘び住いに沈み馴染んでしまったが、この歳になって思いがけない事態が起こったので、改めて都の住居を求めておる。が、いきなり眩しい人中に出るのは気が引けるし、田舎者にはきっと落ち着かないにちがいない。そこで昔の所領をひとまずの宿に使おうと思い立った。必要な費用はお送りする。修理や修繕などして、どうにか人が住めるようにしてくださらんか」
預かり人が渋々と答える。
「長年領主もおられず酷い状態になっておりますので、わたしどもは下屋を修繕して住んでおるのですが、この春頃より内大臣殿が建立されておられるお堂が近いせいか、あの近辺はたいへん騒々しくなっております。立派なお堂をたくさん建てて、大勢が造営にあたっているようです。もし静かなところがご希望ならば、あそこは適当ではないかと」
「何、かまわぬ。実はあの内大臣殿に頼ろうという筋でのこと。いずれおいおいと内部の整備はしよう。まず、急いで目鼻をつけてほしい」
「私ども、自分の所領ではないにもかかわらず、他に相談する方もなかったので、閑静な土地柄に従い長年ひっそり暮らしてまいりました。ご領地の田畑なども台無しに荒れ果てておりましたので、故民部大輔の君にお許しを得て、しかるべき作物を奉りつつ耕作させていただいておりますが、そこは今後どうなりますので?」
髭だらけのむくつけき男は鼻を赤らめつつ口をとがらせる。
「田畑もその作物も、まったくこちらでは関知しない。これまで通り好きに使うがいい。証書などはこちらにあるが、すっかり世を捨てた身の故、長年どうなっているか調べていなかったのだ。この際だからそのことも今詳しくはっきりさせようか?内大臣に対してもご報告せねばならんことも出て来るかもしれないし。どうだ?」
逆らうと面倒なことになりそうだと察した男は承諾し、早々に去った。後日品物などが山と贈られてきたのに慌てて、山荘の造営に取りかかったのだった。
そんなこととは露知らないヒカルは、
「何で上京を渋るんだろう。姫君が明石でひっそり寂しく暮らしていたなんて、後々世間に伝わるようなことがあったら、もう一段外聞の悪い疵にならない?少しでも早くこっちに来てくれた方がいいのに」
とやきもきしていた。そこに明石入道から、
「大堰川のほとりに所領していた山荘の修理が終わり、人が住めるようになりましたので」
と知らせが入った。
「なるほど、そういうことか。この辺なら人も少ないし、ひとまず都の風に慣れるにはちょうどいい。さすがは明石入道、なかなか心憎いやり方だな」
ヒカルはすっかり感心して、さっそく惟光朝臣をその山荘に遣わした。例によって内緒ごとにはいつでもどこでも付き従う惟光なので、この時もヒカルの意向通り、しかるべきさまにあちこち準備をととのえ、速やかに帰参して報告した。
「付近一帯はなかなか雰囲気のよい所で、あの海辺に似た感じでございました」
「ワンクッションの場としてはうってつけということか。うちのお堂も近いし、いいんじゃない?」
ヒカルが建立させている御堂は大覚寺の南に当たる。こちらは大堰川に面していて、洒落た滝殿、えもいわれぬ松影、余計な飾りを極力排して建てた簡素な寝殿など、山里の情趣に溢れている。内部の装飾も細部まで凝りに凝って、大覚寺に負けず劣らず素晴らしい寺であった。
ヒカルはさらに側近の家来をごく秘密裏に明石へ派遣した。もちろん明石入道はじめ皆で歓迎したが、明石の君の心は千々に乱れる。
(ああ、ついにお迎えがいらした。もう断りようもない。いよいよなのね)
(長年住み慣れた明石の浦を去ることがたまらなく寂しい。父が独り残されるのも心許ないし、心配事が多すぎる。それもこれもこうまで身分違いな結婚のせいかと思うと、そんなこと考えも及ばない、地元で普通に暮らしている人たちが羨ましい……贅沢な悩みよね。わかってはいるんだけど)
両親たちにしても、長年寝ても醒めても祈り続けて来た本望がついに叶うのだ。嬉しくないわけはないが、いざ現実が目の前につきつけられると、何とも悲しく堪えがたい。父入道は夜も昼もぼんやりして、
「もうすぐ姫君をこの目で見られなくなってしまうのか」
と同じことばかり繰り返している。
母君も身を切られるような心地である。これまでも夫とは同じ庵に住まず離れて暮らしていたが、娘も孫もいなくなるのならばいったい誰を頼りにこの土地に留まっていられようか。この偏屈坊主と二人きりなど考えられない。とはいえ、
「この明石こそが終の棲家」
として、限りある寿命のうち何年かを過ごしてきたのだ。ひとときだけの浅い関係でもいったん馴染んだ後に別れるのはただ事ではないのに、まして長年連れ添った夫から急に離れ去るのは喪失感が大きすぎる。
女房達の中でも、こんな田舎……とふさぎ込んでいた若手は上京を喜んだが、一方で見捨てがたい明石の浜のさまを惜しんで
「二度と再び帰ってくることはないのでしょうね」
寄せては返す波に感極まり、袖を濡らしがちな向きも少なくなかった。
参考HP「源氏物語の世界」他
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