明石 八 ~源典侍日記①~
(以下、源典侍日記)
朱雀帝の病は一向に回復する様子がないまま一年が過ぎた。ここまで長引くと、さすがに譲位について本格的な検討に入らざるを得ない。帝には、承香殿の女御が産んだ男御子がいるが、まだ二歳になったばかりの幼児だ。とすると次の帝は現春宮である。まだ元服前の春宮の後見をし、政権を担当すべき人は……と思いめぐらせると、ヒカル以外にいない。
帝は何度となくヒカルの復位と帰京を提案したが、その都度却下されていた。が、反対派の急先鋒である大后自身も体調を崩し、謎の怪異現象に悩まされる。さらに、厳重な物忌により一時は治りかけていた帝の眼病が再発。ここに至り、帝はついに意を決した。
「ヒカルを赦免する。官位を復し、京に戻す」
七月二十日過ぎ、正式に帰京の宣旨が下された。あれほど抵抗していた大后がついに折れたのだ。ご病気が余程重く弱気になったのか、それとも。もしかしたら、その背景にはこんなやりとりがあったかもしれない。
「何度申し上げたらおわかりになるのですか。絶対にいけません!あの方を京に戻したら、また同じことになる。朝廷は侮られているのですよ!」
「大后、いや、あえて母君と申し上げます。もう無理です。貴女の長年の私怨は理解できなくもないですが、このままでは逆に我々の方が非難される。いや、もうされている。病を得て政務がままならぬのに玉座にしがみつくあさましい一族だと」
「あたくしの病など、年を取れば誰でもかかるようなありふれたもの。まだ夢のお告げなぞに拘られていらっしゃるなら、それが貴方を病みつかせているのですよ。気をしっかりお持ちくださいませ」
「夢のお告げ?あの嵐の晩に見た故院の夢のことですか?私が未だにそんなものを恐れていると?いったい、私が今何歳だとお思いなのですか、母君よ」
大きく溜息をつく朱雀帝。
「よろしいか?ヒカルが都を去った後、ついぞ誰も経験したことのない嵐が吹き荒れた。太政大臣が突然亡くなった。今上帝と大后が原因不明の病にかかり今も治らない。これらは全て紛れもない事実です。世間はこの事実を踏まえて物語を創り上げた、故院の遺志に背いた今上帝が報いを受けるという物語を。いちど創られた、語られた物語はなかったことにはできないのです」
「待って、待ってください。そんな理由であの疫病神をまたこの京に」
「母君。私が何も知らないとお思いか?全部わかっているんですよ、貴女のおやりになったこと」
「な、何のこと……」
「こんな取り柄の無い凡人の私にも、僅かながら忠誠を誓う家来はおりましてね」
帝は薄く笑って、視線をそらした。
「ヒカルは、尚侍が宿下がりの間毎晩のように通っていた、大胆不敵にも貴女のいる邸に。それを可能にしたのは何者か?」
「弁えのない、若い女房二人が軽率に手引きをしたのです。厳重に注意しましたわ」
「尚侍の部屋の周りには大勢女房達が控えている。その中の誰も気づいていなかったと?まあ、そこはひとまず良いでしょう。あの日……発覚した日は雷雨でしたね。内裏も一時騒然となり、太政大臣、その時は右大臣でした、例によって飛び出していらした。すぐ雷は遠ざかって皆持ち場に戻りましたが、その時……右大臣に何やら耳打ちするものがいた。右大臣は大声で『そうだな!どんなに心細い思いをしているだろう、今すぐ邸に行くよ!』と仰って、セカセカと立ち去った。深夜だというのに」
「あのお父さまならありがちな話でしょう。誰が何を言ったにせよ」
「そう、お祖父さまは、言われたことにすぐ乗って、あまり深く考えずに行動してしまう。よくわかっておられますよね母君も。だから最初に貴女のお部屋に来られたお祖父さまに囁いた。『尚侍が酷く怖がっているようですわ。また具合が悪くなったら大変ですから、早く行ってよくお顔の色を見てくださいな』と」
「それがどうかしたのですか。当然のことではないですか」
「ええ、そうですね。何もおかしいところはない。完璧です」
帝は視線を大后に戻した。
「私はね、貴女が常々ヒカルに冷たく当たるのはある程度仕方のないことだと思っていた。息子の私がこんな体たらくだから余計にお悔しいのだろうと。しかし、ここまでやるとは思っていませんでしたよ。ヒカルを排除するために、腹違いとはいえ貴女の妹である尚侍、私の愛する女に、生涯拭いきれない恥をかかせるとは」
「あたくしは、何も……」
「証拠は無いのですよ、残念ながら。しかし今の状況に、新たな物語を加えることはたやすい。『大后は積年の恨みをはらすために、自らの親族まで巻き込んで陰謀を巡らせヒカルを追放したらしい』と、誰かが誰かに囁けば」
ひっ、と大后が息をのむ。
「そ、そんなことをしたら貴方も」
「どちらにせよそう遠くないうちに譲位です。我が母の罪を贖うため、という理由が加わるだけで。ただそうなると我が一族の係累もメンツ丸つぶれでしょうね」
「なんて……なんてことを……あたくしを脅すというの」
「とんでもない、脅すなどと。ただ、もう私も貴女も無理がきく体調ではありません。太政大臣はもういない、左大臣も戦力にはならない。政権を司るポストが空席のまま無為に時を費やすことこそ愚かな振舞いでしょう。国を束ねる者として、今最も頼りになりそうな人材を呼び戻す、当然のことではないですか?」
「……」
「おわかりいただけましたよね、母君。いえ、大后。朝廷のために、我が一族の未来のために、どうぞ適切なご判断を」
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