澪標 五
奇しくも、あの明石の人々もまた同じ日に舟で住吉へと向っていた。もともと住吉参詣は毎年恒例にしていたが、出産の障りで中断していたのを、今年こそはと思い立ったのだ。舟を岸に近づけようとしたところ、いつになく渚が騒がしい。御社に向ってそれぞれ豪華な奉納品を持った人々が長い列をなし、さらにその後ろには、装束を整えた選り抜きの楽人が十人ほどずらりと並んでいる。見物の人も大勢出ていて大混雑だ。
「いったい、どなたが参詣されるのでしょう?」
近くにいた人に問うと、
「ハア?内大臣殿が都からはるばる願解きに参詣されるって、前々からメチャクチャ評判だったのに知らないの?そんなやついるんだな」
みすぼらしい下人までが上から目線に嗤う。
「なんて間の悪い。他にも日はあるのに、よりによってかち合うだなんて。あの方のご威勢を遠くから眺めるだけとは情けないこと……たしかにあの方と私は何らかの運命で繋がっているにはちがいないのだけど……こんな下人ですら、ただこの行列に行き遭ったことを晴れがましいと喜んでいるのに……私はどれほど罪深い身なのかしら、住吉詣でをいつも心にかけて案じていながら、何も知らずにのこのこと」
そっと涙を零す明石の君だった。
松原の深緑を背景に、集まった人々の上衣の色の濃淡が、花紅葉を散らしたようにあざやかに見える。あの賀茂の瑞垣を恨んだ右近将監もいまや靫負(ゆげい)、くっきりした青色の衣をまとい、蔵人として物々しく随身を伴っている。あの良清も同じ衛門府だがさらに上の位である佐、目にも鮮やかな美しい緋色姿で得意満面である。
かつて明石の館で明け暮れをともに過ごしていた人々が、うって変わって華やかに、悩みなど何も無いという顔をして其処かしこに散らばっている。若々しい上達部や殿上人が我も我もと競うように、馬や鞍にまで飾りを整え磨き立てているのは、なるほど田舎人にとって結構な見物ではある。
ヒカルの車は遙か彼方だ。見るだけで胸が苦しくなり、恋しい姿を探すどころではない。河原の左大臣・源融の先例に倣い童随身を伴っているが、みづらを結い、紫の裾濃の元結も優美に、身の丈や姿まで揃った正装で実に可愛らしく、ひときわ目を引く十人であった。
ヒカルの子息、大殿の若君の一行はすぐにそれとわかった。馬に付き添う供人や童は全員で衣装を揃え、明らかに他とは別格といった趣である。
まさに雲の上の人。それにひきかえ、わが姫君は数にも入らない有様で、ただ此処で見ているだけ……明石の君は酷くみじめな気持ちになりながら、ひたすら住吉を拝む。
摂津の国守が参上して饗応の準備を始めた。通常の大臣参詣よりなお盛大に奉仕するようだ。
明石の君はいたたまれない気持ちになる。
「あの中に立ち交じって、取るに足りない身の上で少しばかりの捧げものをしても、神も見逃されてしまうだろう。帰るにも中途半端だし、今日は難波に舟を泊めてお祓いだけでもしよう」
舟は岸を離れた。
ヒカルは明石の君の一行が来ていたことなど夢にも知らず、一晩中さまざまな神事を奉った。過去の願果しはもちろん神もさぞ喜ぶであろうことをし尽して、これでもかというほどに楽や舞も奉納し、賑やかに夜を明かした。
惟光たちは、心中で神の功徳をしみじみありがたく思い、ふと部屋の外に出て来たヒカルにそっと耳打ちする。
「住吉の松を見て感無量です
あの時のことは神代とも思える昔のように感じられますが」
いかにもとヒカルが返す、
「あの大嵐で須磨が荒れた時に念じた
住吉の神の功徳をどうして忘れられようか
霊験あらたかだったな」
「誠にありがたいことです。そうそう、あの明石の方々も今日こちらに出ていらしたようですよ。舟を見ました。ただ、この大騒ぎに圧倒されたかいつのまにかいなくなってしまいましたが」
「そうなのか!知らなかった。気の毒に……あの人出ではさぞかし気後れしただろう」
住吉神の導きを思うにも、このまま放置するには忍びない。
「かといって逢う時間は無い。手紙でも持って行かせようか、せめてもの慰めに。せっかく参詣に来たのにかえってつらい思いをさせてしまっただろうから」
住吉大社を出発し、彼方此方の名所を堪能する一行。難波宮でのお祓いを七瀬にならって勤める。堀江辺りを眺めてふと、
「『今はた同じ難波なる』」
何気なく朗誦したのを、車の傍にいる惟光が聞きつけたか、懐中に常備してある柄が短めの筆一式を車を止めたタイミングで差し出した。ヒカルは「気が利くな」と感心しつつ、
「身を尽くし恋い慕うしるしに此処という場所でも
巡り逢えたとは、縁の深いことだ」 畳紙にさっと書いて渡す。惟光は、明石の人々も見知った下人を使いとして届けさせた。明石の君は、ヒカルの一行が馬を多数並べて通り過ぎて行くのを目の当たりにしながら、ほんの歌一首ばかりの手紙でも勿体なく、胸が一杯になり涙した。
「数ならぬ身で、難波のことも甲斐なく思っておりましたのに
なぜ身を尽くしてまでお慕いすることになったのか」
田蓑の島で禊に使う祓い用木綿を添えて返した。
日も暮れ方だ。夕潮が満ちて、入り江の鶴も声を惜しまず鳴く情緒あふれる折に、ひと目も憚る必要はない。ヒカルは本気で直接逢いたいとまで願っていた。
「涙に濡れる旅衣は別れたあの日に似ている
田蓑の島という名の下に身は隠れないので」
道すがら、見所ある景勝を巡り、家来たちは奏楽などして賑やかだが、ヒカルの心は明石の君のことでいっぱいだ。男ばかりの一行をめあてに地元の遊女たちが参集し手招きする。上達部という身分でも大多数は若い男、鼻の下を伸ばす者も少なくない。
「ちょっといいなと気持ちが向くことも、心の底から愛しいと思うことも、まず相手の人柄しだいだよね。普通の恋愛だってお手軽さばかり求めたら、お互いに心を繋ぎ留めるなんて無理だろうに」
誰も彼もに秋波を送り、かりそめの愛を語る遊女たちの姿が、今の気分には全くお門違いで、疎ましいだけのヒカルであった。
明石の人々はヒカルの一行が去るのを待ち、翌日参詣をやり直した。日柄も良かったので幣帛を奉り、身分相応の願解きなどともかく全てを果たした。なまじ行き会ったことと手紙をやりとりしたことが物思いの種となり、明け暮れ身の程を嘆く明石の君だった。
ヒカル一行がそろそろ京に着いたか着かないかというタイミングで使いが来た。近々かならず京に迎える、という。
「しっかり一人前の妻として扱ってくださるようだけど、どうなのだろう……遠く故郷を漕ぎ離れて、中途半端な立場のまま心細い思いをするのでは」
明石の君は決心がつかない。
父入道にしても、いざ娘や孫を手放すとなると心配でたまらず、かといってこのような僻地で埋もれたまま過すことを思うとその方が余程気がかりでならない。ヒカルへの返信には、色々と気後れすることが多く、今すぐには思い立ちがたい旨書くにとどまった。
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