明石 六
「娘さん、こっそりこちらに来させられない?」
自分から岡辺の家に出向こうとはさらさら思っていない。あくまで向こうから、という形にしたいのだ。そこは娘の方も同じだったが、理由は全然違う。
(家柄も身分も何それ美味しいの?っていう真正の田舎者だったら、たまたま仮住いしてる都会人と軽~く割り切ったお付き合い、もアリなのかもしれないけど、私にはとても無理……かといって、あの方に一人前の妻として考えていただけるはずもない。絶対、後々辛くなるに決まってる。父も母もどんだけ高望みなの、期待しすぎってことばかり考えていたみたいだけど、実際こうなってみると不安要素しかない……)(この明石の浦にヒカルの君がいらしてる間、手紙をやり取りさせていただく、それだけでも信じられないくらい凄いことよね。長年噂に聞くだけで、いつかはお姿をちらっとでも見られればラッキーって程度だったんだから。まさか我が家に、同じ屋根の下ではないにせよ住まわれることになったばかりか、世にも稀なるあの琴の音まで風に乗って届く、日々身近で暮らしぶりも見聞きする……その上、私という女の存在をあのお方が知って、多少なりとも関心まで持ってくださるなんて、海人に紛れて朽ちようかとしていた私の身には余るわ……これ以上は無理、マジ無理……」
自分から飛び込むなど思いもよらないのだった。
両親は、積年の願いがいよいよ叶うというその段になって、目をそらしていた可能性に震える。
「このままうかうかと逢わせてもいいの?そのまま仲が続く保証はどこにもない、ポイ捨てでもされたらあの子がどれだけ傷つくか」「世にも立派な方と言われていても、本当の所どうなのか……目に見えぬ仏や神を頼むばかりで、あの方の本心も娘の運命もわからないまま突き進んでいいの?」
ヒカルはただ繰り返すのみ、
「この頃の波の音に合わせて、かの琴の音を聴きたいものだね。でないとつまらない」
と。
明石入道は母君の心配をよそに、秘密裏に良い日を選び、弟子たちにさえ黙ってただ一存で立ち回る。娘の部屋を目にも眩く設えて、十三日の月がはなやかに差し出る頃合いに「あたら夜の」とだけ囁く。
※あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや(後撰集春下-一〇三 源信明)
ヒカルは
「父親みずからさあどうぞ、って……やりにくいな」
と呆れつつも、しっかり直衣を着こみ身なりを整え、夜更けを待って出かける、車はこれまた麗々しく用意してあったが、あまりに大袈裟にすぎる、と馬に乗ることにした。惟光をはじめ僅かな人数だけをお供に岡辺の邸に向かう。道中に四方の浦を見渡したが、あの『恋人同士で眺めたい入り江』の月影にも、かの愛しい人、紫上を思い出さずにはいられない。このまま馬を引いて都へ向かってしまいたくもなる。
「秋の夜の月毛の駒よ、わが恋しい人のところへ天翔っておくれ
束の間でもあの人に会えたらいいのに」
今から他の女のところへ行こうという時に、こういう独り言を呟くのがヒカルという男だ。
初めて訪れたその邸は、手入れの行き届いた木が生い茂っていて、中々見所のある住まいだった。海辺の館は重厚で並々ならぬ拘りを感じさせたが、こちらは簡素でつつましい佇まいだ。
「いかにも、物思いにふけるのには相応しい所のようだ」
せっかくなのでひととおり見て回る。近くには三昧堂があり、鐘の音が松風に響き合い、岩に生える松の根ざしも物寂びている。前栽あたりで秋の虫が声を限りに鳴いている。娘の住まいである建物はこの上なく磨き立ててあり、月の光を入れる真木の戸口が気持ちばかり開けてある。
ヒカルは躊躇いがちに声をかけるが、「近づくまい」と心を決めていた娘は暗闇の中でぴくりとも動かず、返事も出来ないでいる。
「ずいぶんお堅いんだな。こっちが気後れするような高貴な身分の女でも、これほど近くで言い寄れば、すぐほだされてくれたりするのに。もしかして都落ちした男って舐められちゃってる?」
娘の頑なな態度に若干イラっとするが、
「だからって無理やり押し倒すのも違うよね。この私が根競べに負けるとか、さすがにそこまで落ちぶれちゃいない。さて、どうするかな」
そこは百戦錬磨のヒカル、あれこれと策を練る。
部屋の奥へじりじりと進むうち、几帳の紐が揺れて筝の琴に触れ音を立てる。娘が琴を掻き鳴らす日常がそのまま垣間見えた気がして、
「おお、これがあの琴ですね。お噂はよく聞いています。貴女の弾く琴の音を聴きたいな」
などとくだけた物言いをしているうちに、その場の緊張感が徐々に解けていくのを肌で感じる。よし、もうあと一押しだとストレートに恋の歌を詠む。
「睦言を語り合える人がほしいのです
この辛い世の夢が半ばでも覚めないかと」
返歌が来た。
「明けぬ夜のまま迷いつづけております私には
どこからどこまでが夢なのか現なのか……あなたはお分かりなのでしょうか?」
その詠みぶりは、伊勢の……かの御息所そっくりだった。だがこの期に及んでの振舞い方はまるで違う。娘の声は奥の曹司の中から聞こえた。直前まで何も知らされず、困り果てて籠城を決め込んだのだ。が、いつまでもそうしてはいられないこともわかっている。既に居場所も知らせてしまった。ヒカルが強引に押し入るまでもなく、娘が自らの手で戸を開けるまで、さして時間はかからなかった。
娘はすらりとした長身で、慎み深く気品があった。色々と無茶ぶりな婚姻であること、それまでお互い意地を張り距離を置いていたことを考え合わせると、ひとしおいとしい気持ちが増す。逢ってしまえばその魅力には抗えない。いつもなら厭わしい程の秋の夜長もすぐに明けた。「人に見られないうちに」と思うと気が急くが、そこはヒカルなので抜け目は無い。細やかに言葉を残して帰った。
後朝の文はその日のうちにごく秘密裏に届けられた。良清の手前もあるが、そもそも謹慎の身では世間体が悪いことこの上ない。入道もその辺は心得ていて、外には漏らさないよう厳重に隠す。それでも使者を表立ってもてなせないのは至極残念に思っていた。
この後も時々は通うが、
「けっこう場所が離れてるから、いつ口さがない海人の子に見られることがあるかも」
などと理由をつけ、さほど頻繁ではない。娘は「やっぱりね」と嘆き、入道も「いや、どうしたものか」と極楽往生の願いも忘れ、ただひたすらヒカルの訪れを待つ。わかっていたこととはいえ、親子ともに心をかき乱されるのも気の毒なことであった。
「老い先短い親ばかりを頼りに、いつになったら人並の境遇になるのかと思っていたけど……今まで一体何を悩んでいたんだろう。親も私も望んでいた、高貴な方との結婚がこんなに辛くてみじめな思いをするものだなんて」
今こそ本当に海に身を投げてしまおうか、と思う娘だった。
参考HP「源氏物語の世界」他
<明石 七につづく>
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