須磨 七
「月も出て来た。せめてもう少しだけ端に出て見送ってくれないかな。これからどんなにか話したいことが積もっていくだろうね。一日、二日たまさかに離れている時でさえ落ち着かない気持ちになるのに」
御簾を巻き上げながら端近に誘い出すと、泣き沈んでいた紫上はためらいがちにいざり出る。月が煌々とその姿を照らす。
「もし自分がこの世を去ったら、この人はいったいどこでどうなってしまうのだろう」
次々と湧き出る不安に胸が締めつけられるが、気取られないよう顔には出さない。
「生きている間だって別れというものはある、当然のことなのに
命ある限りともに生きられるはず!って信じてたよ
考えが浅かったよね、本当に」
わざと軽く言う。
「惜しくもない私の命に代えて、目の前の
別れを少しの間でも留めておきたいと思います」
震える声、零れる涙、それでもなお顔を上げたままヒカルから目を離さない紫上。
「とても置いていけない……」
と思うが、夜は容赦なく明けてゆく。振り切るように出立した。
道中、紫上の面影がぴたりと寄り添ってヒカルの胸を塞ぐ。舟に乗ると、日の長い時期と追い風の好条件が重なり、予定より早い申の刻(午後四時頃)には須磨の浦に着いた。旅といえば京の周辺、ここまで遠い場所には来たことのないヒカルにとって、心細さも物珍しさも並大抵ではない。これから住まう「大江殿」は酷く荒れはてて、松の木だけがその形跡をとどめていた。
「唐国で名を遺した人以上に
行方も知られぬわび住まいをするのだろうか」
渚に波が寄せて返す。「うらやましくも返る波かな」と口ずさむ。
※いとどしく過ぎ行く方の恋しきにうらやましくも返る波かな(後撰集羈旅-一三五二 在原業平)
ありふれた古歌だが、この局面にピタリと嵌って、お供の人々は悲しみばかりいや勝る。振り返れば、来し方の山は遠く霞み、まさに白楽天のいう「三千里の外」という趣で、「櫂の雫」のようにとめどもなく涙が落ちる。
※わが上に露ぞ置くなる天の川門渡る舟の櫂の雫か(古今集雑上-八六三 読人しらず)
「峰の霞が故郷を遠く隔てているが
眺める空は同じ雲なのだ」
何につけ辛く思えないものはないのだった。
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