明石 四
「やりすぎじゃない?」
と困惑するヒカルだが、相手があまりに毅然と構えているので口を挟めない。
京からもひっきりなしにたくさんのお見舞いの手紙が届く。のどやかな夕月夜、海面は見渡す限り一点の曇りもない。住み馴れた都の池水と重ね合わせて郷愁にかられ、思いは何処へともなく彷徨い出る。その目の先には遠く淡路島が霞む。
「あはとはるかに、か。
※淡路にてあはとはるかに見し月の近き今宵は心からかも(新古今集雑上-一五一五 凡河内躬恒)
躬恒も詠んだ淡路の島、湧き上がる気持ちまで
いっさいを隈なく照らす夜の月」
長いこと手を触れなかった琴を袋から取り出し掻き鳴らす。静かな夜の琴の音は、供人達の心にも響く。
「広陵散」という曲を、技巧の限りを尽くし一心に弾く。その音色は松風の響きや波の音に交じって岡辺の邸へ届き、心得ある若い女房達がうっとり耳を傾ける。何の音とも聞き分けられそうにない賤しい山人どもさえ、そわそわと誘い出されて浜風に吹かれる。
明石入道もついに我慢しきれなくなり、供養法を中断し急ぎ参上した。
「まったく、一度背を向けた俗世に改めて引き戻されそうでございます。今宵のこの妙なる音、来世にと願う極楽浄土もかくやと……」
涙ぐみながら絶賛する。
ヒカルの脳裏にも、あの四季折々の管弦遊びがよみがえる。琴、笛、うたう声、そのひとつひとつに向けられる、帝をはじめ数多の人々の熱いまなざし、声にならぬ声。我が身も他人も、誰彼となく目に浮かぶ。夢心地のまま掻き鳴らす琴の音は凄まじく、人の心を揺さぶった。
老入道は感動の涙に濡れながら、岡辺の邸に琵琶や筝の琴を取りに遣る。自身は琵琶法師となり珍しい曲を一つ二つと弾き出した。こちらもかなりの腕前だ。
遮るもののないこの広々とした海面と、瑞々しい緑に繁る木立。春秋の花紅葉の盛りの頃にはない美しさだ。水鳥が水面を叩く音も「誰が門さして」、実に風流である。さほどでもない楽の音でも三倍増しに良く聞こえそうなこのシチュエーション、まして名手の音色ならば尚更であった。
※まだ宵にうち来てたたく水鶏かな誰が門さして入れぬなるらむ
ヒカルが差し出された筝の琴をつまびくたび、入道は唸る。二種類の琴をそれぞれ難なく弾きこなすその腕にはただ驚嘆するばかりである。
「良いね。この琴、色っぽい美女がくだけた感じで弾くのが似合いそう」
何気なくヒカルが呟くと、入道は破顔して、
「貴方さまほど色気があり且つなよやかに弾ける者など、どこにおりましょうか。それがしは延喜の帝の御奏法を弾き伝えますこと四代、ご覧のとおり俗世とは縁のない身の上になり申したが、折々気晴らしに掻き鳴らしておりました。……不思議にも、それを見様見真似に弾く者がおり、自然、先帝のご奏法に似通ってまいりまして……いや、それがしなど山伏のひが耳、松風を聞き誤ったのかもしれません。何にせよ、いちどお聞かせ申し上げたいものです、こっそりと……」
終いには声を震わせる。
ヒカルは素知らぬ顔で、
「なんと、そんな名人揃いの所でお恥ずかしい。先に言ってくださいよ」
と琴を押しやって、
「不思議といえば、昔から筝の琴は女性が修得するものだそうですね。嵯峨帝のご伝授で女五の宮が当時の名人でいらしたが、その後は取り立てて継ぐ方もおられない。イマドキの名人と呼ばれる人たちは総じて、特に目新しくもなく、ありがちな自己満足でしかなかったりしますよね。なのにまさか此処でそのような秘伝が残っているとは、実に興味深い。是非とも!お聞かせください」
遂に食いついた。
「もちろんです、何の支障がございましょうか。何なら御前にお召しになっても。商人の中でさえ古曲を愛好した者はおります。琵琶本来の音色を弾きこなす人は昔も少のうございましたが、娘は少しも滞ることなく、その優しい弾き味は格別でございます。どの筋と申しますのか……荒波の音に交じるばかりなのは悲しいところですが、日々何がしか積もる憂いも、慰められる折々にございます」
ここぞとばかり我が娘を褒めちぎる入道。ヒカルはすっかり興味を惹かれ、筝の琴を取り替えて与えた。
明石入道は琴の腕も相当のものだった。今では中々聴きつけない、古式ゆかしき奏法を弾きこなし、手さばきもいたく唐めいて、揺(ゆ)の音が深く澄んでいる。「伊勢の海」ならぬ明石の海だが、「清き渚に貝や拾はむ」とよき声の者に歌わせて、ヒカル自ら拍子を取りつつ声を添える。入道は度々琴を弾きさして褒めたたえる。小洒落た風に盛り付けたお菓子や酒を、供の人々にも大いに振舞い、日々の憂さも忘れ去るような宵であった。
※伊勢の海の 清き渚に しほがひに なのりそや摘まむ 貝や拾はむや 玉や拾はむや(催馬楽-伊勢の海)
夜が更けてゆく。浜風は涼しく入り方の月も澄みまさり、辺りがしんと静まる頃、明石入道の問わず語りが始まった。この明石の浦に住み始めた頃のこと、来世を願う心模様、我が娘の身の上などをぽつりぽつりと話し続ける。ヒカルは面白く聞く一方で、やはり不憫にも思う。
「大変申し上げにくいことではございますが、貴方さまがこの土地に、仮住まいにせよ移っていらしたことは驚くべきご縁、もしや長年祈願し続けた神仏がこの老いぼれを憐れんで、貴方さまに暫しのご心労をおかけしたのでは、とまで思っております」
「といいますのも、住吉の神を祈願申し始めて早十八年目、娘が幼少のみぎりから思う所ありまして、春秋毎に参詣いたしておりました。昼夜六時の勤行にも、自らの極楽往生はさておき、ただわが娘のために高き志を叶えたまえと祈っております」
「宿縁には恵まれず、このような不甲斐なき山人となりましたが、親は大臣の位を保っておりました。自ら田舎の民となり落ちぶれていく一方の今では、行く末も知れず悲しくもありますが、我が娘には生まれた時から頼もしき所がございました。何とかして都の高貴な方に差し上げようと固く心に決めておるものですから、程々の身分の方々からは数多の嫉みを受け、辛き目にも多く遭いましたが、少しも苦にはなりません。命の続く限りは我が狭き衣に包んでやれるが、成就しないまま先立つことがあれば、いっそ波間に身を投げてしまえと申しつけております……」
入道は口ごもり、涙を拭う。
ヒカルはつられて涙ぐみつつ、口を開く。
「無実の罪に当たり思いもよらぬ地方にさすらうとは何の咎か、と訳が分かりませんでしたが、今宵のお話と考え合わせてみると、なるほど浅くはない前世からの宿縁かと納得がいきました。これほど明らかな事の次第を何故もっと早くお話しくださらなかったのですか?都を離れて以来、世の無常に嫌気がさし、勤行三昧の月日を送っているうち、すっかり気持ちも萎えました。妙齢の娘さんがいらっしゃることは小耳に挟んではいましたが、咎められて都落ちした者など縁起でもないと、切って捨てられていると思っていましたよ。では取り持っていただけるということでよろしいか? 侘しい一人寝の慰めにもなると?」
交渉成立といった体である。明石入道は身を震わせつつ、それでも気丈に詠む。
「一人寝というものを貴方もこれでおわかりになったでしょうか
所在なく物思いに夜を明かす明石の浦の寂しさを。
まして長い年月ずっとこの地で気が晴れる間もなく祈願し続けて来た我等の心をお察しください」
ヒカルはすかさず返す。
「それでも海辺の生活に慣れた人は」
「旅の生活の寂しさに夜を明かしかねて
安らかな夢も見られない
……なんてことはないでしょう?」
私と貴方の寂しさは違いますよ。おそらくお互いに理解はできない、たとえ娘さんと契ったとしても。
酔っていたとはいえ、子供のように拗ねて絡むヒカルは、既に明石入道の術中に嵌っていたのだろう。
翌日。ヒカルはいつになくスッキリ目覚めたばかりか、妙に気持ちが清々しい。
(昨日の話……願掛けだの神の導きだのって鵜呑みにするわけじゃないけど、ああいう風に言われると何か安心するよね。まあ坊さんって要はカウンセラーだし、あの入道は特に学識が深いから説得力半端ない。これが必然の運命なら、もう身を任せるっきゃないね)(アレだ、『雨夜の品定め』の、こんな所にこんな素敵な女性が!ってやつ。よーし久々に気合入れるか!)
とばかりに、昼頃かの岡辺の邸に手紙を出した。選んだ胡桃色の高麗紙はとっておきの逸品で、文字の配置も墨つきもこの上なく趣向をこらすが、歌はごくシンプルなのがポイントである。
「右も左もわからない土地で侘しい日々を過ごしていましたが
耳をかすめた宿の梢を訪れたく
『思ふには』」
※思ふには忍ぶることぞ負けにける色には出でじと思ひしものを(古今集恋一-五〇三 読人しらず)
父の明石入道もこっそり岡辺の邸に待機していたが、使者が手紙を持ってくるや狂喜乱舞し、これでもかというくらいもてなしてしたたかに酔わせた。
が、返信には随分と時間がかかった。しびれを切らした入道が奥に入って促すが、娘は一向に聞き入れない。ヒカルの手紙に気おくれして、どうにもこうにも筆がすすまないのだ。余りに身分の差があり過ぎて、どう振る舞っていいのかわからなくなった娘は、終いには気分が悪いと臥せってしまった。
仕方がないので父入道が代筆する。
「あまりに忝いお手紙、娘の田舎びた袖の袂には余ったようです。目に入れるのも畏れ多くて無理、ということですので。それでも
貴方が物思いに耽りながら眺める雲居を
私の娘も同じ思いで眺めています
と、拝察しております。大変あけすけな内容で恐縮ではございますが」
陸奥紙も書き方も古風だが、何しろ歌が歌である。
「これはまた……あけすけっていうかさあ、うーん。オヤジが無理やり女子の心を書いてみた☆的な?」
と困惑するヒカル。帰って来た使者は何故か立派な女装束を持たされていた。誰に使えというのだろうか?色々とズレている。
その翌日。
「宣旨(せじ)書き=代筆の手紙をいただいたのは初めてです」
「心がモヤモヤして一向に晴れません
いかがですか?と問うてくれる人もいないので
『恋しいとも言っていいのやら何なのやら』」
と、今度は繊細でしなやかな薄様にひたすら美しく書いた。若い女性ならば十人中十人ともがカワイイー!というような出来である。しかし娘は手紙が素晴らしければ素晴らしいほど、ますます身の置き所がない。いや、自分がどんな女か知った上で尋ねてくださってるんだから……と自らに言い聞かせるも涙が滲み、例によって筆が進まない。やきもきする父に宥めすかされようやく、深く香をたきしめた紫の紙に、墨付きも濃く薄くして上手に紛らわしながら書きあげた。
「思って下さるという心のほどはいかがなものでしょうか
会ったこともない、聞いただけの人のことで悩みます?」
筆跡や仕上がり具合はまずますの出来だが、何より歌の内容がいっぱしの貴婦人然としている。
「これはやられたな、京でもこれだけの返しを出来る人ってそうそういないかも」
ヒカルは娘が見せた才覚にますます興味を惹かれるが、かといって余りに続けて手紙を出すのも憚られ(何せ父の入道がずっと見張っているのだ)、二三日置き、夕暮れ時や明け方などおそらく同じ風景を観ているであろう折に書き交わしてみると、これが絶妙に面白いやりとりなのだった。
上流貴族なみに思慮深く、気位高く構えているのもこれだけの賢さと嗜みがあれば当然ともいえる。是非とも会わずにおくものかと思う一方で躊躇いもある。
(いや待てよ……この娘さんって以前良清が熱心に言い寄ってたんだよね……すっかり諦めた感じでもなかったし、今も既に面白くはないだろうな。こっちとしても、何だか家来の女を横取りしたみたいな形は寝覚めが悪すぎる。向こうから積極的にどうぞどうぞウェルカム!ならともかく)
娘は娘でむしろガードをガチガチに固め、極力近づかないように仕向けているので、お互いに距離が縮まることなく探り合うだけの日々が過ぎる。
ヒカルとしてはなまじ女と関わりを持ったことで、余計に京にいる紫上が恋しくなる。
(ああ、もうどうしたものかな。出立前に『あまりにも不在が長くなるようなら必ず迎えに行くよ』とか言っちゃったけど、本気で考えなきゃいけないかも。こっそり迎えちゃう?)(いやいや、バレるよね普通に。それはともかく、呼んだはいいけどずっと暮らしていくの?ここで?無理じゃね?)
結局悩みは尽きないのだった。
コメント
コメントを投稿