おさ子です。のんびりまったり生きましょう。

明石 二

2020年5月27日  2022年6月9日 
須磨の渚に、二、三人ばかりが乗った小ぶりな舟が寄せてきた。誰かと問えば、
「明石の浦より、前播磨守の新発意(しんぼち)が支度し参上した舟にございます。源少納言がこちらに伺候しておいででしたら、面会して事の仔細を申し上げたいので、お取次ぎを」
という。源少納言とは良清のことである。呼ばれた良清は驚いてヒカルに伝える。
「前播磨守の明石入道は、播磨国での知己として長年親しく付き合ってきましたが、私事で行き違いがあってから、手紙さえ通わせないまま久しくなりましてございます。この荒波に紛れて何用なのか……」
 ヒカルは夢で故院に言われたことを思い出す。
「住吉の神のお導きに従い、疾く舟を出しこの須磨の浦を去れ」
 もしやこれがそのお導きか、と察したヒカルは、良清に今すぐ会うよう命じた。良清は早速舟に向い、尋ねた。
「昨夜まであれほど波風が激しかったというのに、いつの間に船出をしたのか?」
「去る弥生の朔日、夢に異形のものが出てお告げをするということがございました。信じがたきことと思われるかもしれませんが、
『十三日に新たな霊験を見せよう。舟を支度し、雨風が止んだら必ずこの須磨の浦に寄せるように』
という予言にございます。半信半疑で舟を用意して待っておりましたが、本当に激しい雨、風、雷が起こりまして、これは本物であろうと……異国の朝廷でも夢を信じて国を助けるという例は多くございますし、たとえヒカルの君が取り合わなくても、この予告の日を過さず由をお知らせ申しましょうと思い舟を出しましたところ、急に風が細く吹き出して、あっという間にこの浦に着いた次第です。まことに、神のお導きは間違いがございません。此方でも、もしやお心当たりのこともございましょうかと存じます。大変恐縮ですが、この由を残りなくお伝えください」
 良清から話を聞いたヒカルは、あまりの符号の一致に驚きつつも考え込んだ。夢も現実も扱いが難しい。無暗に飛びつくのは得策ではない。
(うーん、どうするかな。夢を真に受けて神様のお告げ通り行動した、なんてことが知られれば世間にドン引きされること確実だけど、ホントに神様からの助言だったのに人聞きを気にしてスルーして、結果悪い方に転がっちゃったりしたらますます愚かだよね)
(まして生きてる人間の意向に沿うのってどうなの? しかも赤の他人。年齢が上とか、もしくは位が高いとか、時流に乗ってブイブイ言わせてるとかなら、少々のことは目をつぶってもとりあえず従っとこうか、もアリだろうけどそんな感じでも無さそうだし。『引いとくのが無難』って昔の賢人も言い残してるよね)
(とはいえ、一回死んだみたいなもんだしなあ自分。今更、後の世でどうのこうの言われるかもってだけでビクビクするのもどうよ?何より夢の中で父君が仰ってたことと同じだし、疑う余地なくない?)
 ヒカルは心を決め、良清に言付ける。
「見知らぬ世界で、この上ない艱難辛苦の限りを見尽くしてきましたが、もう都の方から安否を尋ねて来る人もおりません。ただ遙かな空の、月と日の光だけを故郷の友として眺めている私には『うれしき釣り舟』でした。明石の浦で、静かに隠れて過せるような場所はありますか?」
※浪にのみ濡れつるものを吹く風の便りうれしき海人の釣舟(後撰集雑三-一二二四 紀貫之)
 使者はたいそう喜んで、畏まり申し上げる。
「とにもかくにも、夜が明けきらないうちにお乗りください」
 急かされて、いつもの側近四、五人ばかりを供に乗船した。
 例の風がまた吹いて、飛ぶように舟は走り、明石に着いた。もとより這っていけそうなほどの距離とはいえ、やはり不思議な風の働きであった。
 
 明石の浜は、須磨とはかなり印象が異なる場所だった。隠棲するには人の往来が多すぎるようにも見える。入道の所領地は海辺にも山奥にもあり、四季折々に趣深い佇まいをみせるであろう渚の苫屋や、来世を思い澄まし勤行三昧に相応しい山水のほとりの厳かな堂、秋の田の実りを刈り収め、余生をまかなうに十分すぎるほどの稲倉。それぞれ季節や立地に応じた見所があった。
 舟から牛車に乗り換える際には日も高くなった。
「近頃は高潮を恐れて、足手まといになる妻や娘などは高台の邸に移しております。皆さまはこちらの館で気楽にお過ごしくださいませ」
 明石入道は、車から降りるヒカルの姿を垣間見ただけで、老いを忘れ寿命も延びるような心地がして、思わず頬を緩めた。
「まるで月と太陽の光をともに手に入れたようだ。住吉の神よ、まことに有難うございます。大事にお世話申し上げようと思います」
 浜辺の館の景観はいうまでもなく、入道がこしらえた木立、立石、前栽、入り江の水など、得も言われぬ趣向を凝らしており、経験の少ない絵師ならばとうてい描き尽せないと思われるほど精緻で多彩だった。ここ数か月住んだ須磨の屋敷より格段に明るく、好もしい。部屋の装飾なども立派で、生活の場としてみても、都に住む上流貴族のそれと少しも変わらない。むしろ、優美さときらびやかさの点では勝っているようにも見えた。
参考HP「源氏物語の世界」他
<明石 三につづく  
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